第三章 亮(14)
良樹はオフィスのホワイトボードを見つめ、じっと立ち尽くしていた。職員の名前が書かれた表、そこには丸いカラーマグネットが貼り付けられている。良樹は青い磁石を引き剥がし、『営業回り』の欄にマグネットを付け直し、マジックで『午後三時帰社予定』と書き込んだ。
「営業行ってきます!」
偶然側をすれ違った同僚に報告する。行ってらっしゃい、とダラけた返事が返ってきたのを確認し、良樹は鞄を掴んだ。
営業という名のサボり。入社してから初めてのことだ。
正確には嘘はついていない。実際、商談が入っていることはいるのだが、さほど手こずりそうな案件でもない。けれども、良樹はある予定のために、帰社時間を少し延長して報告したのだ。
『玲です。もう会わない方がいいと思うの。さようなら』
玲からの返信は簡素なものだった。メールを送ったのは昼頃だったが返信は遅く、帰宅後、入浴中にようやく返ってきたのだ。
文面を見た良樹は戸惑った。彼女がそう言っているのならば、会わない方がいいのだろうか。あの晩のことはなかったことにして、目を閉じてしまえばいいのだろうか。
なかったことにできれば、一番都合がいいのは確かだ。しかし、それではケジメをつけられずに終わってしまう。そうやって自分のしたことから目を背けていくわけにはいかないのだ。
その日の商談を終えた後、良樹は駅の出口──会社とは真逆の方角──へ向かった。あの夜の記憶を必死で辿り、玲のアパートを目指す。少し道に迷いはしたものの、幸い目印となる建物が多かったため、なんとか目的地に到着することができた。
夜、アパートを見た時とはまた建物の印象が違って見える。壁の亀裂や錆びた階段の手すりが、一層侘しさを感じさせた。
三階奥の部屋の前で、良樹は立ち止まる。耳をすませば、トントントンと小刻みな包丁の音が聞こえた。
薄い扉の向こうに玲がいる。一瞬躊躇したが、良樹は思い切ってインターフォンを押した。
『はい、どちら様ですか』
「……榊です。話が……」
『良樹さん? ……少し待っててね。今行きます』
数分後、ガチャリとドアが開く。薄く化粧を施した、Tシャツとジャージ姿の玲が姿を現した。良樹はパッと目をそらし、もごもごと口ごもった。
「ごめん、悪いとは思ったんだけど、どうしても話が……」
「やっぱり来たんだ。会わない方がいいって言ったのに。玄関先でもいい? ちょっと中散らかってるから」
てっきり怒られるかと思っていたが、玲はふっと微笑み、良樹を見つめた。薄化粧の玲は、店で会う時よりも随分と幼く見える。良樹は俯き、それから唐突にパッと顔をあげた。
「ごめん! 本当に、本当にごめん!」
玲と出会った日のことがフラッシュバックする。こんな風になるとは露ほども思っていなかった。
今でも玲を愛しいと思う。今でも玲の側は安らげる場所だと思う。けれども、愛しているのとは違った。
それに、自分は再び前を向かねばならない。その時、隣に寄り添っていて欲しいのは──玲ではなかった。
「俺の中途半端な我儘で振り回してしまって、本当に申し訳ないと……」
「もういいよ、そんな風に謝らないで」
玲は古びた扉にコツンと頭を凭せかけ、困った顔で笑った。
「初めからどうにかなるつもりじゃなかったんだもの。一夜だけの関係、ただそれだけだよ」
良樹は俯き、革靴の爪先を見つめた。そんな良樹の顔を玲は両手で挟み込み、無理矢理上を向かせる。コーヒーの香りがふん、と香った。
「でも玲、良樹さんのこと好きだったよ。真面目で一本気なところも、変に頑固で子供っぽいところも、そのせいで妙な方向へ突っ走っちゃうところも、全部、ぜんぶ」
「それ、褒められてるのか、俺?」
ふふふ、と両手で口元を覆う玲はあどけない少女のようで。大人びた仕草とのアンバランスさに、良樹はくらくらした。
玲は魅力的だった。どうしようもなく惹かれたことは決して嘘ではない。
「奥さんのところへ早く行ってあげなよ。ぼやぼやしてたら逃げられちゃうよ? 玲、そんな夫婦をた~くさん見てきたんだから」
部屋の中からコトコトと鍋が煮立っている音がする。炊き立ての白米の香りがする。出勤前に食事を作っていたのか、懐かしい家庭の香りがした。
急に家族が恋しくなり、そして懐かしくなる。決別してしまったあの日も千賀子は夕食を作っていた。
あの時、妻が作っていた献立は何だったのだろうか。子守唄を歌いながら、キッチンに立っていた妻はどんな顔をしていたのだろうか。
「ねぇ、知ってる? 旧約聖書の言葉。あ、別に玲は神様なんて信じてないんだけどね」
柔らかな声で、玲は祈るように呟く。
「男には労働の苦しみを、女には産みの苦しみを──神様は人間に与えたんだって。育児は二人に課せられたものだけどさ、なんて言うか……根本的に男と女は分かり合えない生き物なんだよ。だから、分からないことに悩まないで。でも……分かり合える部分は二人でちゃぁんと共有して」
胸が締め付けられる。心が瘡蓋を作る。壊れてしまった心の傷は塞がり、新たな皮膚を形成する。
「ありがとう……本当に」
いいんだよぅ~、と玲はいつもの少し鼻にかかった声で返事をした。そして、何かを思い出したように、あ、と小さく声を上げる。
「ねぇ、最後だからさ。本当の玲のこと、教えてあげる。本名はね、玲じゃないの。これは響子ママがつけてくれた名前」
玲はルージュの塗られていない薄桃色の唇に人差し指を当てる。それは彼女の、最後の内緒話。
「本当の名前はねぇ、里子っていうの。古里の里に、子供の子。なんだかホステスっぽくないでしょ? 地味っていうかさ」
「そんなことないよ」
良樹は心底そう思った。優しく、あたたかい。そんな彼女にぴったりな名前だと。
遠くで電車が行き過ぎる音が聞こえた。帰社時間が近づいている。本当に、ここから去らねばならない時がやってきたのだ。
「じゃあ……俺、そろそろ行くよ。もう店にも行かないと思う。これで、本当にお別れだ」
「……うん」
玲の顔が少し寂し気に見えたのは、自分の思い込みだろうか。僅かな未練が見せた、束の間の幻に違いない。
「さよなら、里子」
良樹はそう告げると、玲に背を向け歩き出した。
「さよなら、良樹さん」
玲の声が聞こえる。
良樹が振り返ることは──もうなかった。




