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第三章 亮(13)

 パソコンのキーボードを打つ手が止まる。良樹は明滅するカーソルをぼんやりと眺め、ひとつため息をついた。


 玲を抱いたあの日から一月──あれから店には行っていなかった。店に顔を出すのはなんとなく気まずく、足が遠のいてしまった。玲とも連絡さえ取っていない。

 玲と会ったところで何を話せばいいのだろうか。中途半端な状況を招いてしまったのは自分であるのに、収拾をつけられそうにもない。そして再び、良樹は大きなため息をついた。


「榊ぃ~、何辛気臭い顔してるんだ。もう粗方、例の件の事後処理は済んだんだろう? 気持ちを切り替えろよ」

「え、あ、はい……すみません、松永先輩」


 ぼぅっとしていたのは玲のことを考えていたからだとは言えず、良樹はお茶を濁したような返事をした。一瞬首を傾げた松永だったが、単に契約破棄のショックから立ち直れていないだけだと判断したらしく、良樹を気の毒げに見つめた。


「ちょっと休暇でもとって家族と水入らず、なんてのはどうだ。まだ残ってんだろ、有給」

「いえ、大丈夫です。仕事も残ってますんで」


 仕事が残っていると、松永に小さな嘘をつく。本当はただ家にいたくないだけなのだ。居場所のなさに居心地の悪さを感じるだけではなく、玲と関係を持ってしまったことに対する罪悪感もあった。


「まぁ、お前の好きにすればいいけどよ。ここんとこ、ずっと会社に籠もりきりだったじゃねぇか。いいのか、家族を放っぽり出しちまってよ」


 チクリ、と心に棘が刺さる。自分にはもう──家にいる権利さえないのだ。


「嫁さん、文句言わねぇのか、帰って来いって。俺のとこはちょっと遅くなるとガミガミ煩いんだけどよ」


 ヘヘッ、と幸せそうに松永が笑う。愚痴を言いながらも、そう言われることが満更でもないようだった。

 それを見るにつけ、嫉妬と羨望と、ほんの少しだけ縋り付きたい気分に襲われるのだ。自分はどうしたらいいのか、誰かに道を示して欲しかった。


「千賀子は──妻は帰って来いだなんて言いませんよ」


 弱り切った心が膿を吐き出す。


「妻はしっかりものですから。俺なんかがいない方が、子供と二人で……」

「……馬鹿か、お前は」


 パンッと乾いた音が響く。書類ファイルで後頭部を張られた良樹は思わず、痛っと短い悲鳴をあげた。良樹を打った張本人は、呆れ果てた表情で盛大なため息をつく。


「お前は子供の父親だけどなぁ、その前に嫁さんの旦那だろうが。お前がしっかりしないでどうするんだよ。嫁さんがしっかりもんだからって、お前がへばっていい理由なんてどこにもねぇよ」

「でも、妻は俺のことを必要としているんでしょうか。いなくてもいいと思ってるんじゃないでしょうか」


 松永はさらにファイルの角で良樹の頭頂部をコツンと小突いた。そして目を細め、何かを懐かしむように語り始めた。


「子供が生まれた後、嫁さんは母親になっちまってよ。俺もしばらくは見向きもされなかった。けどよぉ、別に蔑ろにしていたわけじゃねぇんだよ。俺たちだってそうだろ、仕事に詰まってる時、『今忙しいんだよ、話しかけるんじゃねぇ!』ってなるだろう」


 良樹は煮詰まっている時の松永を思い出した。一度、まだ良樹が駆け出しの頃、仕事が難航している松永に関係のない話を持ちかけて、怒鳴りつけられたことがあった。当時の松永を思い起こし、良樹はふっと苦笑した。


「最初に嫁さんに怒鳴りつけられたのはいつだったかなぁ。子供が糞して泣いててよ、糞してるぞ~、ケツ拭いてやってくれ~……って、食器洗い真っ最中の嫁さんに知らせに行った時だっけな。『ケツくらい拭いてやりなさい!』って言われたっけな。あいつがケツなんて言葉使ったの、あの時が最初で最後じゃねぇかな」


 ククク、と松永は肩を揺らして笑った。


「お前、子供のケツ拭いたことあんのか? ケツ拭くだけならまだしも、服まで汚されてみろよ。知ってるか、すぐに洗わなきゃ黄色い染みが残っちまうんだぜ。嫁さんがどうしても用があるって言って出かけた時によぉ……糞が漏れて服汚されて、洗濯機に突っ込んだままにしてたら、また怒鳴りつけられちまった。あの時は参ったなぁ」

「先輩は……嫌気がさしませんでしたか? 手伝ったのに怒鳴りつけられて、良かれと思ってしたことなのに」


 松永はグッと良樹の肩を揉んだ。肩の力を抜け、と言わんばかりに。


「どうせ男の俺たちは嫁さんほど子供のことに気が回んねぇんだよ。お前だって駆け出しの頃、俺に怒鳴られっぱなしだっただろ。なぁに、ちゃんと手順を覚えていけばできるようになるんだよ。ケツの拭き方も、子供服の洗い方もな」


 亮の尻を拭いてあげたことがあっただろうか。

 産まれたばかりの頃、千賀子からオムツの替え方を教わって以来、一度も触っていなかったことに気づく。

 ミルクを飲ませたことがあっただろうか。服を着替えさせたことがあっただろうか。


「傷ついたんなら嫁さんにはっきり言えよ。応えて欲しいことがあるなら尚更だ。嫁さんだって言い分はあるが、お前にだって言い分はある。言えねぇんなら家族なんてやめちまえ」


 ちゃんと話し合ったことがあっただろうか。

 千賀子の叫びを聞いて、自分は真っ先に逃げ出してしまった。その先には絶望しかないのだと思い込み、自分は孤独なのだと勘違いしていただけだとしたら。


「ったく、世話の焼ける部下だよなぁ。とりあえず、お前がいつ休暇取っても大丈夫なようにしておくからよ。嫁さんと旅行の計画でも立てとけ」


 松永は青いファイルの表紙をさすりながら、ファイルの無事を確かめる。わざとらしいその仕草を見て、良樹は久方ぶりに、心の底から笑った。


「可愛い部下の頭じゃなくて、凶器のファイルを心配しているんですか」

「……それだけ返事できるなら上等だよ。今日くらいは昼飯時、予定空けとけよ。最近は伊東と二人きりでよ、居心地悪いったらねぇからな」


 松永は目元をくしゃくしゃにして破顔した。分かりました、と手短に告げ、良樹は去っていく松永の背を見つめた。

 千賀子とはどうなるかは分からない。和解できるかもしれないし、ずっと平行線のまま、永遠に交われないかもしれない。

 けれども、虚勢を張ってでも前を向こうと──やっと思えたのだ。

 良樹は胸元のポケットからスマートフォンを取り出した。そして、手帳のカードフォルダに丁寧にしまってあった、一枚の名刺を取り出す。

 そこに記されているメールアドレス宛に、手早くメッセージをしたためた。


『一度会って話がしたい。できれば、店の外で。返事、待っています。  榊』


 短い文章だが、これで十分伝わるだろう。

 良樹は机の上に液晶画面を伏せ、そっと目を閉じた。

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