第三章 亮(12)
自宅近くのバス停から、亮をベビーカーに乗せ、千賀子はトボトボと帰途についた。
足取りは重く、深山の話がずん、と心に重くのしかかる。自分が深山の立場であれば、間違いなくそうしたであろう。産後、夫が不安定になった自分を支え、また子育てに協力していてくれたのなら別かもしれないが──これ以上悩みの種が増えることは、二人の間に横たわる溝を、さらに深くするだけに違いない。
家族で手を取り合い、困難を乗り越えていけるならば、それに越したことはない。だが、そうできないのなら、家族という関係は、有刺鉄線のように皮膚に食い込み、体の内までズタズタにしてしまうだろう。
幸いなことに、良樹は育児に非協力的なわけではなかったと思う。知識のなさが千賀子を苛立たせたに過ぎず、亮のことを思っていてくれるのは肌で感じていた。
それに義理の両親も──時折、無神経なところもあったが──千賀子にはよくしてくれた。よくしてくれる余りに、かえって申し訳なくなるほどに。だからこそ、良樹との関係が悪化しても、ギリギリのところで何とか踏ん張っていられたし、好意的に受け入れてくれた義理の両親に少しでも報いることができたら、と常々思っていた。
ビュウ、と風が吹く。千賀子は亮の膝の上のブランケットを引っ張り、かけ直した。風を真正面から受けた亮は目を丸くし、手足をばたつかせる。亮は甲高い奇声を上げた後、ブーッと口をすぼめた。
「もう……よだれが……」
ガーゼタオルで拭ってやると、亮は歯を見せて笑った。生えかけの歯が下顎の歯茎から覗いている。口の中がむず痒いのか、亮は再びブーッとよだれを吹き出した。
離婚をすれば、亮の何気ない姿を夫が見ることはできなくなるだろう。年に数回、食事をするくらいでは、亮の成長の全てを実感することはできない。それは、自分にとってもとても心苦しいことだと思う。
おそらく、夫以上に妻は「自分が一人になった時のこと」を考えているのかもしれない。千賀子も亮が産まれてからはそのことをよく考えるようになった。
不運な事故や病気に見舞われ、良樹に先立たれた場合、自分はどうやって亮を育てていけばいいのか。どうやって生活していけばいいのか。だからだろうか──離婚についても、一歩下がって考えてしまえるのだ。それは、万が一のことについて考える延長線上にあった。
亮と二人きりになることを恐れもしたが、一旦冷静に考え始めると止まらなかった。
月々の生活費、求職活動、亮を預ける保育園、今後の学費。かと言って、切り詰めてばかりもいられない。亮を旅行に連れて行ってあげたり、様々な経験をさせてあげたい──。
深山もそうだったのだろうか。そして、それを想像ではなく、現実にしなければならない時が来てしまったのかもしれない。
千賀子はやり切れない思いだった。もしかしたら、明日は我が身という可能性だってある。最近の良樹の仕事への没頭ぶりを見るにつけ、そう思った。彼はおそらく家族から逃げているのだろう。単純に仕事が忙しくなったというよりも、わざと忙しくしているような気がしてならない。
しばらく身辺の整理をするため、深山は市民センターに遊びに来ることはできないと言っていた。今はなるべく深山の負担にならないよう努め、できることは協力しなければならない側にあると思っている。
だから尚更、大きな問題に直面している深山に、自分の悩みを相談するわけにもいかず、千賀子は頭を抱えた。
一瞬、多恵の顔が脳裏をよぎる。深山から離婚という言葉を聞いた時、不意に浮かんだのは母の顔だった。
悩みを打ち明けられたら、と思う一方で、無神経な母を思うとなかなか踏み出せない。
もしも、相談をして、自分が責められるようなことになったら――それこそ、もう二度と母に会いたくないと思ってしまうかもしれない。
しかし、これ以上、自分の内に靄を溜め続けてどうなるのだろうか。
醜い負の感情に侵されていく自分を、千賀子自身が受け止めきれないところまで来てしまっていた。それなのに、唯一の捌け口だった深山さえも、千賀子から離れていってしまうかもしれないのだ。
次にお母さんが会いに来てくれるのは、来月の中頃だったはず。
千賀子は頭の中のスケジュール帳を引っ張り、懸命に予定を思い出す。休みが取れたから、職場のスーパーで果物でも買って差し入れる、と電話で言っていたっけ、と一人頷いた。
「お母さんはどうして……」
人通りの少ない路地で、千賀子は独り言を言う。彼女の呟きを気にするものなど誰もいない。
秋風が呟きを乗せて空に舞い上がり、語尾は風音にかき消される。
母が父と別れた理由を聞こう、そうすれば、自分も前に進めそうだと思った。
壊れてしまった家族の形を、もう一度修復しよう。
逃げたのは良樹の方だったかもしれない。けれども、壊したのは自分の方だった。
不安定な心を守るばかりに、「助けて」と言えなかった。
他の誰でもない、夫である良樹に助けを求めなければならなかったのだ。
妻らしく、母親らしくなかったとしても、無言で不安を押し殺すのではなく、声高に叫べばよかった。涙を流し、矛盾に満ちた主張であろうとも、思いの丈を良樹にぶつけるべきだった。
──今ならそれがはっきりと分かるのに。
ただ、そうするべきだと誰かに背中を押して欲しいのだ。ぶつけようと思う気持ちは間違っていないのだ、と。それは千賀子の身勝手な主張ではないと誰かに言って欲しかった。
大粒の涙が落ちる。揺らぐ気持ちが視界を塞ぐ。
そんな千賀子の姿を見咎める者は、誰もいなかった。




