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第三章 亮(11)

 十月になり、子ども広場の飾り付けが落ち葉やどんぐり、松ぼっくりといった、秋らしいものへと変わっていた。イベントカレンダーにも芋掘りや紅葉狩りのような季節を感じさせるものが並んでいる。

 千賀子は広場の休憩室でスケジュール帳を取り出し、テーブルの上に広げた。


「ねぇ、これなんてどう? 親子で行く秋遠足……河川敷の公園でお弁当持参だって」


 ウキウキと千賀子は予定を書き込んでいく。亮を産んで以来、真っさらだったスケジュール帳が次第に埋まっていくのが嬉しかった。引きこもり、鬱々と過ごしていた時間を取り戻そうとするかのように、千賀子は予定を立てていく。

 九ヶ月になった亮は、綾とともに休憩室に併設されたキッズスペースで競争をしている。ハイハイのスピードもどんどん上がり、今ではうっかり目を離すと、途端に離れてしまい、見失ってしまうほどだ。広場のキッズスペースは広く、柵付きなので、自由にハイハイをさせてあげることができた。


「これもいいね。落ち葉で絵を描きましょう……あぁ、画用紙に落ち葉を貼り付けるのね。子供の頃やったなぁ、懐かしい。ね、深山さん」


 隣に座る深山はえぇ、と上の空で返事をした。いつもの快活な深山とは随分様子が違う。体調でも優れないのか、と千賀子は心配に思った。


「大丈夫? 顔色があまりよくないみたいだけれど」

「あぁ、ごめんなさい。えと、何の話だっけ?」


 深山は千賀子に向き直り、笑顔を作った。しかし、やはり無理をしているのか、その表情はぎこちなく、よそよそしい。千賀子はスケジュール帳を閉じ、鞄にしまった。


「疲れてるみたいだし、少し休憩しましょうか。温かい飲み物でも飲む? 水筒に紅茶を淹れてきたの」


 言葉を詰まらせた深山は小さく頷き、テーブルの傷をぼんやりと見つめていた。何かあったのか、と尋ねそうになったが、すんでのところで飲み込む。自分だって、家庭の事情をあれこれ詮索されたくはないのだ。

 そう言えば、先週、千賀子の家で二回目のお茶会をした時も、なんだか深山は浮かない顔をしていたように感じる。もしかしたら、あの時からすでに悩み事があったのかもしれない、と思い至った。

 深山は水筒のコップに注がれた紅茶を飲んだ。そして、コップをテーブルの奥へ押し退け、思い切った様子で口を開いた。


「榊さんは……離婚を考えたことある? ……シングルマザーって……どう思う?」


 離婚、というフレーズに、千賀子は一瞬固まった。が、すぐに平静を装い、深山の問いに慎重に答える。


「どうって……特にどうも思わないわ。そうなってしまう、やむを得ない事情があったんでしょうし、それが最善の選択だったってだけじゃないかしら」


 離婚を考えたことがないと言えば嘘になる。

 良樹を怒鳴りつけてしまったあの日から、何度も何度もそのことについて考えた。

 けれども、あれから三ヶ月が過ぎた。自分自身の行動について見つめ直す時間も十分あったし、育児に不慣れだった当初よりは随分と心に余裕もできた。未だに気が狂いそうなほど苛立つ時もあったが、そういう時は一旦亮から離れ、深呼吸をするようにしている。育児の悩みを共有できる深山の存在は大きかった。


「そ、だよね……やむを得ない事情だってあるもんね……」


 どこか安心したように呟く深山の隣で、千賀子は黙って頷いた。深山の事情に土足で踏み込みたくはなかった。夫婦の問題は、他人が想像している以上にデリケートなものなのだ。誰かに助けて欲しいともがく一方で、無様な夫婦の姿を見られたくないという見栄が邪魔をする。千賀子にできるのは、深山が自発的に語れるような環境を作ることくらいだった。


「お茶、お代わりどうぞ」


 千賀子は空になったコップに紅茶を注ぐ。温かい液体で満たされていくコップに一雫、透明な涙が落ち、波紋を作った。


「ごめん……私ったら、ごめんね……」


 深山は鞄を探りながらハンカチを探す。深山が見つけるよりも先に、千賀子は自分のハンカチを深山に差し出した。


「まだ使ってないハンカチだから。よかったらどうぞ」


 ぐずぐずと鼻を啜りながら、深山はハンカチを受け取った。


「……聞いてもらってもいい? どこから話せばいいか分からないんだけど」


 千賀子はええ、と答え、そっと深山の背を撫でた。


「離婚を、考えているの。もう主人とはやっていけない、って。そう思って」


 深山は目を潤ませた。千賀子はぽかんと口を開けたまま、目を丸くした。――何も言えなかったのだ。


「主人は昔から感情の起伏が激しい人だった。さっきまでは上機嫌だったのに、些細なことで不機嫌になってしまうような人で。付き合っていた頃は、そんな子供っぽいところも可愛いなぁ~……なんて思ってた」


 きゃあきゃあとはしゃぐ綾が、ふと深山の方を振り返る。そんな綾に、深山は笑って手を振った。


「でも、綾が産まれてからは違った。ただでさえ綾にかかりきりなところに、主人の顔色を気にしなきゃいけないなんて、本当に苛々して。大人なんだから、そのくらい自分でできるでしょ! って何度も言ってやりたかった……」

「そうね……分かるわ」

「発狂してしまいそうだった。榊さんに出会うまで、ずっと。綾に手を上げてしまいそうになったことも数え切れないほどあった。自分ばかりが否定されて、いっそのこと死んでしまいたかった……!」


 パタパタと落ちる涙が、深山の手の甲を濡らした。しかし、次の瞬間、深山は口の端を吊り上げ、歪んだ笑みを浮かべた。


「それなのに、あの人ったら……鬱病になってしまったの。仕事と家庭のストレスが原因なんだって。精神科で診断されたって。気の毒だとは思ったけど……本音は呆れた~って気持ち。主人からもお義母さんからも、私が悪いって責められた」


 あ~あ、と深山は間の抜けた声を上げ、天を仰いだ。


「お義母さんもお義母さんなのよ。一緒に支えてあげましょう、なんて言うどころか、この鬼嫁! って罵るんだもの」


 くつくつと肩を揺らしながら語る深山を見て、千賀子は深山夫妻の絆が元に戻ることはないと悟ってしまった。

 まるで他人のことを語るような深山の口調から、夫とのことはすでに過去の事であると言っているようにも聞こえる。


「主人とお義母さんに我慢できなくなったっていうのも理由の一つなんだけど、現実問題、治療のために仕事を休む主人と生活できないっていうのもあるの。一円でも貯蓄したいのに……お金も時間も主人の療養のために消えてしまうなんて、綾のことを考えたら、ね」


 千賀子は俯き、瞼を伏せた。


「離婚を切り出すのは私の方からだから、慰謝料なんていらないの。その分、主人自身の治療費に充ててくれたらいい。だけど……綾は私が連れて行く。私が働いて、稼いで、綾を育てるつもり」


 えぇ、と千賀子は小さく相槌を打った。深山の気持ちは痛いほど分かる。だから、考え直してみたらどうか、とは言えなかった。

 綾は無邪気にオモチャを振る。音が鳴るのが楽しいのか、顔を真っ赤にして笑っている。その隣で亮が綾の袖を引き、二人はもみくちゃになって倒れ込んだ。

 キャッキャとはしゃぐ二人の姿を見ながら、深山と交わしたたくさんの話を思い出す。

 スーパーの特売の話、簡単な料理レシピの話、人気のパン屋の話、そして育児や家庭の話。

 彼女と話をできるのはあとどれくらいだろうか。

 千賀子は深山との別れが近づいているのを──薄々感じていた。

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