第一章 千賀子(2)
午前中は看護師からオムツ交換や体温測定、授乳の仕方を教わった。昼食を摂り終えた千賀子は何度目になるか分からない呼び出しを受け、初めての授乳に挑んだのだった。
授乳を終え、授乳室を出た千賀子の顔は暗いものだった。血管が浮き出て見えるほど腫れ上がった乳房を服の上からさすり、横目で新生児室を見やった。
見舞い客が赤ん坊を見ることができるよう、廊下と新生児室は分厚いガラスで隔てられている。面会時間の開始と同時に、ガラスを覆っていたカーテンは開け放たれ、足首に母親の名を記したタグを巻かれた赤ん坊が並んでいるのが見て取れた。
左から二番目にいる赤ん坊――それが千賀子の子だ。他の子よりもやや小さな体を捩らせ、欠伸をしている。満腹になった赤ん坊は、うとうとと微睡み始めた。
その愛らしい仕草に心が和む。親の欲目だとは分かっているが、自分の子が一番器量好しだ。泣き声さえも可愛らしい。
「また来るからね」
千賀子は赤ん坊に向け、そっと呟いた。明日になれば、一日中一緒にいることができる。病院のセキュリティー上、母子同室を希望していても、夜九時には赤ん坊を新生児室に返すようにとのことだったが、少しでも長く子の側にいられるのであればそれでいい。
千賀子が浮かない原因は二つあった。一つは短い時間とは言え、赤ん坊と離ればなれになること。もう一つは――母乳量のことだ。赤ん坊を満腹にさせることができたのは、母乳が足りない分を粉ミルクで補ったからだった。
「出産直後で、母体が母乳を作り始めて間も無いですし、仕方ないですよ。これから赤ちゃんにたくさん吸って貰えば、どんどんお乳が出るようになりますからね」
看護師のその言葉を信用していないわけではない。だが、自分と同じ日に出産を終えた母親たちが、隣で溢れんばかりの乳を与えているのを見て、千賀子は早くも自信を失いかけていた。
千賀子の体にも変化はあった。張りつめた乳房は恐ろしいほどの熱を帯び、衣服が擦れるだけでも痛んだ。じわりと滲み出る母乳がブラジャーを汚す。下着と乳房の間にタオルを挟んでいないと、すぐに衣服まで浸透してしまうのだ。
それなのに、赤ん坊に十分量の母乳は出ていない。授乳前後の赤ん坊の体重を比較してみても、その数値に変動はなかった。ちゃんと母乳を与えることができていれば、授乳直後の体重は増加しているはずなのだが。看護師の話では、母親の乳首の形状や赤ん坊の口の小ささ、吸う力の弱さにも原因があるのだという。それらすべてを一挙に解決することは難しく、徐々に慣らしていかねばならないそうだ。
この程度のことで一喜一憂していてはいけないと分かっている。この先、喜びも困難も――いくらでも待ち受けているのだ。
それでも、心が沈んでいくのを、止めることはできなかった。
*
自室の前に着き、千賀子はスライドドアのノブに手をかけた。薄く扉を開けると、中から声がした。誰かの病室と間違えたのだろうかと不安になる。
「三〇五号室、だよね……」
思わず千賀子は壁の部屋番号を確認し直した。声に出した部屋番号と一致している。
まだ午後二時、面会時間が始まったばかりだ。こんな時間帯に自分の見舞いに訪れる人はいないはずだった。
もしかしたら、誰か、病室を間違えているのかしら?
千賀子は恐る恐るドアを開けた。
「千賀ちゃん! おめでとうさん! 男の子やってなぁ!」
「千賀ちゃん、体は大丈夫か⁉︎」
「おい、親父もおかんも、そんな大声出したら千賀子がびっくりするやろうが!」
迫力のある声に気圧され、千賀子は思わず後ずさった。
「お義父さん、お義母さん……それに、良樹さん?」
予想外の来客に千賀子は目を丸くした。三脚のパイプ椅子を並べ、狭い病室内で三人は談笑していた。
良樹はまだ仕事中のはずだ。しかし、良樹の姿は、毎朝見慣れたスーツ姿ではなく、ベージュのセーターにジーンズというラフな出で立ちだった。
「良樹さん、お仕事はどうしたの?」
「ああ、有給を取ったよ。随分たまってたからさ、思い切って一週間休むことにした。同僚の奴らには悪いことしたけど、子供が産まれたって言ったら、仕事なんか後回しにしろって送り出してくれたよ」
大阪出身の良樹は、両親に対してだけ関西弁になる。千賀子に向き直った良樹の口調から訛りは消えていて、その頬はうっすらと紅潮していた。
わざわざ自分と子供のために休みを取ってくれた。たったそれだけのことが嬉しい。それだけで何もかも頑張れそうな気がする。千賀子は胸を打たれた。
「それよりなぁ……千賀ちゃん、ほんまにええんか? 良樹から聞いたんやけど、里帰りせぇへんて」
義母の良美が千賀子に問いかけた。真っ赤な口紅でペラペラとまくし立てた。化粧気のない自分の顔が急に恥ずかしくなる。千賀子はそれを悟られまいと、ぎこちない笑顔で取り繕った。
「ええ、良樹さんと話し合いはちゃんとしました。二人で頑張っていきましょう、って」
「せやけど、日中は良樹、家におらへんのやろ? 一人で大丈夫なんか? せめてお母さんに泊まり込んでもらうとか……」
「おかん、千賀子と二人で決めた言うたやろ。それに、産まれたての可愛い時期に俺だけ子供の側におられへんのて、寂しいやないか」
良樹はその話は打ち切りだと言わんばかりに、強引に割り込んだ。
「まぁ、ええやないか。二人で決めたことに、わしらがとやかく言うことないやろうし」
義父の隆次の言葉に、良美はしぶしぶ引き下がる。
「せやな……。それに、千賀ちゃんのお母さんも、離婚して大変やろし……」
「おかん!」
自分自身を納得させるように良美が放った一言を、良樹が鋭く制した。途端、何とも言えない気まずい空気が漂う。所在無げに視線を泳がせる良美が気の毒になり、千賀子は即座に口を開いた。
「お義母さん、気になさらないでください。私、気にしてませんし、本当のことですから」
そう言って千賀子はしゃがみ込み、膝の上で組まれた良美の手に自らのそれを乗せた。
千賀子の母・多恵は、千賀子が大学を卒業した後に離婚した。千賀子がスポーツ用品を扱う会社に就職が決まり、入社してから一月も経たない時のことだった。
父・洋介との間に何があったのか。二人は離婚の理由を千賀子に語ろうとはしなかった。多恵は引越し費用と離婚後の住居を整えるための僅かな費用を洋介に請求しただけで、生活費等の援助は一切拒絶した。現在、多恵は知り合いの紹介で、スーパーの惣菜売り場で働いている。
良樹の両親ほど遠方にいるわけではなかったが、多恵も千賀子たちの住居から車で一時間半はかかる距離に住んでいた。多恵の力を頼ったとしても、女一人暮らしの安アパートで赤ん坊と千賀子を居候させるだけの余裕はなかった。
「シフトが入っている日は仕事で手一杯だけれど、週一くらいなら手伝いに来ると母は言ってくれてますし。大丈夫ですから」
不安がないと言えば嘘になる。だが、そうするしかないのだ。実母を頼れないからといって、義両親の元に転がり込むことなど到底できなかった。
「そうか、千賀ちゃんがそう言うなら……。そうや、千賀ちゃん、これ」
良美は思い出したように傍らの紙袋に手を入れ、ゴソゴソと何かを取り出した。百貨店の包装紙に包まれた小箱を、千賀子は首を傾げて受け取った。丁寧に包装を剥がし、中の箱のラベルを見る。千賀子でも知っている、有名な健康食品専門店の店名が記されていた。
「それな、おっぱいがよぅけ出るようになるハーブティーなんやて。今は粉ミルクもええのが売ってるけどな、おっぱいが一番やで」
ポンポンと良美は自分の胸を叩いてみせる。
「良樹はなぁ、おっぱいさえあれば、それでええっちゅう子やったわ。ミルクなんか一滴も飲まんかったでなぁ」
当時の子育てを振り返り、良美は自慢気に胸を反らせた。気恥ずかしそうにやめろよ、と言う良樹のことは完全に無視だ。
「やっぱり、自分が腹痛めて産んだ子やもん。自分のおっぱいで育てな、な?」
屈んでいた千賀子を立たせ、良美はベッドサイドに千賀子を座らせた。
「はい、ありがとうございます。今晩から飲んでみますね」
良美の笑顔が、千賀子の胸に刺さる。
自分のためを思って言ってくれているんだから。お義母さんは育児の先輩なんだから……間違いないんだから。
けれども、心に刺さった棘はなかなか抜けない。抜こうと爪を立てると、より深く棘は埋没していく。
母乳の出ない乳房が疼く。その疼きはしばらく取れそうになかった。