第三章 亮(10)
カシュリ、と良樹はビールの缶のプルタブを開けた。隣では気怠げな様子の玲が、すでに缶に口をつけている。乾杯、というつもりだった良樹は肩すかしを食らわされた気分だった。
どことなく情事の残渣が漂った部屋で、二人は裸のまま、黙ってビールを飲んだ。ベッドの上で体を起こして座っている二人に甘い言葉はない。ただ、抱き合ったという事実だけが心の中で転がっていた。
「本当によかったの?」
玲がストレートな言葉を放つ。いいわけない、と身勝手な台詞が口を突いて出そうになったが、一瞬躊躇った後、良樹は缶を傾けて言った。
「何度も言っただろう。いいんだよ、別に」
自暴自棄になっていた。千賀子を裏切ってしまった自分への嫌悪、玲になびいてしまった己の心の弱さ。一方で、先に自分を見捨てたのは千賀子の方ではないか、と開き直る。そして、この出来事を元に、玲に何か──例えば慰謝料や妻との離婚──を要求されるのではないかという恐怖心が襲い来る。寄せては返す心の闇に、良樹は胸をかきむしりたいという衝動に駆られた。
「……玲、何も求めたりしないから安心して。奥さんと別れろ、とかお金渡せ、とか。そんなつもりじゃないから」
ポツリと玲が呟いた。
緊張していた肩から力が抜け、危うく缶ビールを落としそうになる。良樹はホッとした表情を浮かべた。あからさまな良樹の様子に、玲は呆れたように苦笑いした。
「良樹さん、分かりやすすぎだよ。ポーカーフェイス、できないタイプなのね」
「ごめん……」
自分の無神経さにうんざりする。しかし、目的がないならどうして自分に抱かれたのか、という疑問が浮かんだ。
「どうして、俺と……」
「セックスするのに理由なんているの? 玲、ただの女だよ。男の人が欲しくなる時だってあるよ」
「誰でもよかったってことか?」
玲はギュッとシーツを握りしめ、胸のあたりまで引き上げる。膝を抱え、その頂に顎を乗せた。
「それじゃあダメなの? 良樹さんって色々と凝り固まってるのね。誰でも、っていうより、寂しい人がいいの。玲を求めてくれて、めちゃくちゃに満たしてくれるから。良樹さん、寂しかったんでしょ」
キッと良樹は玲を睨みつける。まるで馬鹿にされたような気分だった。玲はシーツの下で足の指をもぞもぞと動かし、ぼぅっとシーツのうねりを眺めている。良樹の怒りを察しているのか、そうでないのか、良樹には分からなかった。
「……面倒くさいの。恋愛とか、結婚とか。だから、玲は一生一人でいたいな」
玲はビールを一気に飲み干すと、空になった缶を床に置いた。
「幸せな家族のイメージができないからかなぁ。……多分、私の家がそうじゃなかったからだと思うんだけど」
不意に自分語りを始めた玲に、怒りのボルテージが下がっていく。その口調がとても淡々としていて、それでいて哀しげで、玲を責める気力が一気に失せてしまった。
「お母さんもホステスだったの。父は客の一人。父に惚れ込んだお母さんが、強引に言い寄ったのが二人の馴れ初め。あ、それ、もういらないならもらっていい?」
玲が良樹の手にある缶ビールを指差す。一口飲んだ後、さっぱり口をつけていなかったそれは、良樹の体温で温くなってしまっていた。
「あぁ、よかったら」
良樹から渡されたビールを、玲は目を細めて受け取る。ちびりちびりと舐めながら、玲は話を続けた。
「とりあえず二人が結婚して私が産まれるんだけど……二人はうまくいかなかった。八畳の狭い部屋、記憶の中の父はいつも怒鳴っていて、物を投げていて……玲の体を蹴ってるの。玲ったら、サッカーボールみたいにゴロゴロ畳を転がって。なんでこんな邪魔なヤツ産んだんだって。お母さんが庇ってくれたけれども、父はお母さんを決して殴らなかった」
「……どうして?」
「お母さんはホステスだから。大事な大事な商品だから。お母さんの稼ぎを当てにして、父は仕事を辞めちゃった」
今の玲からは想像もつかない壮絶な内容に、良樹は絶句した。
「どう考えてもロクでもない男なのに、お母さんは絶対に別れようとしなかった。あの人は寂しいの、ただ理解してもらいたいだけなの、分かってあげて……コレがお母さんの口癖」
無音の世界に、玲の自嘲めいた声が響く。
「お母さんは父を愛していた。でも父はそうじゃなかった。結局別の女に乗り換えて、お母さんを置いていった」
「お母さんは、どうしてるんだ?」
玲は疲れたのか、ほとんど残っていないビールを良樹に返し、良樹に背を向けてコロンと横になった。
「玲が高校生の時、肝臓を壊して死んじゃった。卒業した後、玲はすぐにこの世界に入ったの。響子ママはお母さんと戦友みたいなものだって言ってて……玲のことを受け入れてくれた」
「響子ママは……玲がホステスになることを反対しなかったのか?」
「したよ。勉強したいことがあるなら援助するからって。でも、玲が押し切ったの。お店で働かせてくださいって」
だって、勉強したいことなんてなかったんだもの、と玲は小さく独りごちる。そして、良樹の方へと向き直り、座ったままの良樹を見上げた。
「良樹さんは幸せだね」
「何を……」
「本当は今のままじゃダメだって思ってるんでしょ、奥さんとのこと。家族でいようと思えるだけでも、家族の形を保っていようと思えるだけでも、幸せだよ」
良樹は口をつぐんだ。
そうだ、自分は千賀子と亮と……家族でありたいのだ。決して離れたいと望んだわけではない。家族でいたいのに、うまくいかず、それゆえに苦しんでいるのだ。
「玲は家族でいたくなかった。理解なんてもっと無理」
俯いた玲の長い髪が良樹の腕をくすぐる。髪の毛先は傷んでいて、枕に一本、はらりと毛が落ちた。
「人間って、どうして相手を全部理解しようとするんだろう。他人のことなんて、分かるわけないじゃない……。お母さんだって、父のことを全部知ろうとしなければ、あんなに苦しんだりしなかった」
カーテンの向こうで明かりがよぎる。通り過ぎた車のヘッドライトだろうか。その光に照らされた玲は泣いているようにも見え、良樹は思わず手を伸ばした。が、玲はそれを押しのける。
「ほんの少し分かり合えたらそれでいいじゃない。欲を出したら、きっと、ずっと辛い……。そう思わない?」
良樹を見つめる目は何かを懇願している風に見えた。良樹には玲の言葉が痛いほどよく分かった。
千賀子を理解し、支えなければという使命感にも似た感情。それが千賀子にとっては言い様のないほど窮屈で押し付けがましいことだったのかもしれない。
妻のことをすべて知り、理解することが解決の唯一の方法だと思っていた。そもそも、自分は妻を理解しようとしていたのだろうか。
亮を産み、変わってしまった千賀子を前に、変われなかったのは自分ではないだろうか。母になるために、彼女は変わらざるを得なかったのだ。千賀子そのものの本質は同じであれ、母ではなかった頃の彼女ではあり得なかったのかもしれない。
理解できないことを嘆くのではなく、理解できないこともあるのだということを知ること。それもまた、一つの理解の形であるということ。
良樹はうとうとと微睡み始めた玲の横顔を見つめた。まぶたがピクピクと揺れ、夢と現実の狭間で呼吸をしている。
「ねぇ、そう思わない?」
うわ言のように玲が呟く。玲の頬にかかった髪を、優しく指でよけてやり、良樹はふるふると首を横に振った。
「分からない。俺には……分からないよ」
「……そっか、そうだよね」
そう言って、玲は微笑む。
良樹の返答に満足したのか、玲はきゅっと体を丸めると、穏やかな寝息を立てて眠りについた。




