第三章 亮(9)
『仕事でミスをした。事後処理で今日は帰れない』
簡潔な一文をスマートフォンのメッセージ欄に打ち込み、良樹は送信ボタンを押した。シュン、という音が送信完了を告げる。
玲と過ごしている間に着信音が鳴ったら興醒めだ、とマナーモードに切り替える。ホーム画面に亮の顔写真が映し出された瞬間、良樹はスマートフォンを鞄の奥底に押し込んだ。
妻がいる。子供がいる。
その事実から目を背け、良樹はコンビニの駐車場で座り込んでいた。とっくに終電は出てしまったんだ、と言い訳のようにぶつぶつ繰り返す。
深夜であるにも関わらず、客の出入りは激しい。飲み会を終えた大学生やタクシー運転手が入れ替わりやって来る。良樹は酔って据わった目で自動ドアを睨んだ。酔っ払いに絡まれるのも御免だ、と通り過ぎる客は皆、良樹の前をそそくさと去っていった。良樹はチッと舌打ちし、どこからか転がってきたコーヒーの空き缶を蹴った。
「お待たせ」
トンと肩に手が触れた。黒いエナメルのハイヒールが視界に入ってくる。
顔を上げると、ベージュのオータムコートに身を包んだ玲が、ビニール袋を片手に良樹に微笑みかけていた。
「ビールとおつまみ買ってきたよ。玲の家で飲み直そ」
玲はしゃがみ込んだ良樹の二の腕を掴み、うんしょ、と引っ張り起こした。
「狭い部屋だけど、ごめんね。それに、ちょっと……ううん、う~んと散らかってるの」
良樹と玲は暗い路地を並んで歩いた。
酔いのせいで地面が歪んで見える。曲がり角で右を曲がったのか、左に曲がったのか、それさえも曖昧だ。どういう道順でやってきたのかあやふやなまま、良樹は四階建ての安アパートの前に到着した。
玲の他に住人はいるのだろうか、と疑いたくなるほど人の気配がない。しかし、ベランダに干された洗濯物たちが、主の存在を声高に主張していた。
管理人による手入れは行き届いていて、古さは感じられるものの、清潔感があった。玲に誘われるまま、良樹はアパートの階段を上る。三階フロアの踊り場の蛍光灯が切れていた。
「やだなぁ、管理人さんに言っとかなきゃぁ」
玲は心底嫌そうな顔をする。彼女もそんな顔をすることがあるのか、と良樹は意外な気分だった。
「夜遅くに帰ってくるんだから、ここの明かりくらい、玲を出迎えてくれたっていいと思わない?」
玲は振り向き、そう言い張る。それから階段を上るのを止め、廊下の方へと進んで行った。
「一番奥の部屋が玲の家。遠慮しないでね」
部屋の前に立ち止まり、玲がハンドバッグから鍵を取り出す。鍵についているクマのマスコットは、どうやら玲の手作りのようで、中の綿が耳の辺りから少しはみ出していた。全身をハイブランドの服で固めている彼女だったが、少女趣味な一面もあるようだ。
玲が扉を開けると、部屋の中の淀んだ空気が一斉に流れ出てきた。出勤前にコーヒーでも飲んでいたのだろうか、室内には微かにコーヒーの香りが漂っている。
「狭いけど、どうぞ」
十畳ほどのワンルーム──シングルベッドとローテーブル、そして小さな化粧台。想像していたよりもずっと狭い部屋だった。
「あまり広い部屋って好きじゃないの。ほら、部屋の隅っこが落ち着くっていう人いるでしょ? 玲、そんなタイプでね」
パサリと玲がコートを脱ぐ。ドレスのスカートがふわりとなびく。
「この部屋ね、クローゼットが大きいから気に入って即決したの。あ、すぐにコーヒーでも淹れるね。その辺に座……」
後ろから、抱き寄せた。
あ、と玲は短く驚いた声を上げる。ほんの僅かに身を捩り、抵抗する素振りをみせたが、すぐにくたりと体の力を抜き、良樹の腕にその身を任せた。
遠くでパトカーのサイレンが聞こえる。
冷蔵庫のモーター音が、隣の部屋のテレビの音が、換気扇が回っている音が。
そして、夜の音が聞こえる。
良樹は玲の首筋に顔を埋め、胸いっぱいに艶やかな香りを吸い込んだ。きめ細やかな肌が微かに色づく。良樹はたまらず、うなじに唇を這わせた。
「……っ」
玲が小さく息を呑む。その吐息にくらくらと眩暈がしそうだ。
「榊さん、待って。電気を消すから……」
良樹から逃げるように身を滑らせた玲は、壁のスイッチをパチリと押した。一瞬で部屋は暗転し、闇に慣れない目が玲を求めて彷徨う。
玲を探す良樹の手に、ひんやりとした肌が触れる。陶器にも似た感触に、体の芯が熱くなる。
がむしゃらに玲を抱きすくめた良樹は、その小さな体を覆う薄布を剥いでいく。気持ちばかりが先走り、手元がもたつく。ドレスの背中のファスナーに手をかけるが、引っかかってしまい、なかなか下ろすことができない。玲はそんな良樹の手を一旦離し、手の甲に軽く唇を重ねた。
「慌てちゃイヤよ。忙しないのは……好きじゃないの」
そう言い、玲は自分でファスナーを開けた。少し顔を伏せた玲は、恥じらいもせずにドレスを脱いでいく。ジーという細い音が、良樹を一層昂ぶらせた。
「玲……」
ネクタイを緩め、カッターシャツのボタンに手をかける。焦ったせいで、ボタンが一つ、ブチリと千切れ飛んだ。もたもたとズボンのバックルを外している間に、玲は下着も脱ぎ捨て、産まれたままの姿になっていた。
目の前の玲からは、ほんの少し、雌の匂いがする。
良樹は玲をベッドに押し倒すと、その白い裸体を組み伏せ、息を荒げて覆い被さった。
夢中で玲の体を吸う。紅い花弁が白い裸体に散り、その度に玲はすすり泣くような声で鳴いた。時折びくりと体を仰け反らせ、良樹の腕に爪を立てる。
「あぁ、良樹さん──……」
ふと、良樹の手が止まった。
薄青のシーツに横たわり、こちらに手を伸ばす玲を見つめる。
「良樹さん……」
玲の後ろに、千賀子が見えた。
潤んだ瞳で良樹を見上げ、熱を求める千賀子が。
玲は止まってしまった良樹の手を取り、それを自らの内腿へ導く。もう片方の腕を良樹の首筋に回し、良樹を強引に引き寄せると、玲は薄く開いた唇を重ねてきた。
舌が絡み、吐息が絡む。
頭の片隅に千賀子がちらつく。玲と千賀子が重なる。
俺の腕の中にいるのは誰なんだ――。
「いいよ」
良樹の下で、ガラス玉の目をした玲が喘ぐ。
「良樹さん。私、それでもいいの」
パン、と良樹の中で何かが弾けた。
千賀子を抱きたかった。
すれ違う前、幸せだったあの頃のように、ただ千賀子を抱きたかった。自分を求めて包み込んでくれた、優しい優しい妻。
玲を抱けば、虚しくなってしまうのは分かっていた。
「玲……っ」
良樹は玲の体に熱を埋める。玲は小さく呻きながら、良樹を受け入れる。絡み合う部分から蜜が溢れ、むせ返るような匂いに呼吸ができなくなる。
もう戻れなかった。どうしても、この空虚さを誰かに打ち消して欲しかった。
それがまた負の連鎖を生むとしても、消したい過去の一つとなってしまうとしても、目の前の優しい女を抱かずにはいられなかった。
玲は良樹を求め、くびれた腰を浮かせた。ルージュはかすれて唇のラインからはみ出してしまっている。漂っていた香水の香りは汗と唾液の臭いと混ざり合い、つんと鼻をついた。
良樹はさらに玲を求め、体を激しく打ちつける。喘ぎ声は次第に切なげな悲鳴へと変化し、良樹の鼓膜を震わせた。
頭の中が真っ白になる。
怒り、哀しみ、寂しさ。身の中に凝っていた全ての感情を、良樹は玲の体にぶちまけた。




