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第三章 亮(8)

 結局この日、面会のアポを取れたのは、三箇所だけだった。駅前の和菓子屋で最上級の菓子折りを揃えて駆け回った。

 愚痴愚痴と不平不満をぶつけられたりもしたが、「榊さんの所とは長い付き合いだから」と理解してくれる人もいた。

 たった三箇所回っただけなのに、もう夜の九時を回っている。最後に回った撮影スタジオのスタッフからのクレームが長引き、こんな時間になってしまった。タイムカードには明日記録をつけよう、と良樹は会社に戻ることなく、そのまま帰路についた。

 けれども、足は無意識の内に家から遠ざかる。もちろん、向かう先はもう決まっていた。


「いらっしゃいま……あ、榊さん!」


 玲は良樹を認めると、花開くように笑った。


「玲が案内しますね。こちらへどうぞ」


 良樹を案内しようとする黒服を押しとどめ、玲は良樹の腕に指を絡ませた。髪をアップにした玲のうなじから香水が薫る。シックな茶色のドレスが、いつもより玲を大人びて見せていた。

 複雑な気持ちを整理しきれぬままやって来てしまった。良樹は体を強張らせ、口を引き結ぶ。

 様子が違うことに気づいたのか、玲が俯きがちな良樹の顔を覗き込む。不思議そうに自分を見つめる玲の目から逃れようと、良樹は顔をそらした。


「榊さん?」

「例の……マエダ農機の話、誰から聞いたんだ? 芸能記者か?」


 つい語気が荒くなってしまう。だが、客の不機嫌など日常茶飯事なのか、玲はさして気分を害した様子もなく、良樹から身を離した。


「誰かは言えないよ。秘密だもの」

「あの話が週刊誌の記事になった時……どう思ったんだ。面白かったか? 予想通りだったか? ……こうなること、分かってたんだろう」


 こんなのはただの八つ当たりだ。

 自分の不甲斐なさが招いた結末を、他人のせいにしようとしている。良樹はコントロールのきかない感情を押し殺そうと必死だった。が、止めどなく溢れる絶望が、良樹の口を強制的にこじ開ける。


「馬鹿な奴だって思ってるんだろう。どうして手を引けと一言言ってくれなかったんだ。そこまで事情を知っていたならどうして……!」


 ドンと膝を叩く良樹の前で、玲は普段通りに酒を作る。マドラーがくるくるとグラスで回る度、カラカラと水の澄んだ音がした。


「玲たち……夜の世界の女はね、たった一言で男の人の世界をひっくり返す力を持ってるの」


 コトリ、と良樹の前にグラスが置かれた。


「夜の仕事だって冷たい目で見られる時もあるよ。けれども、お客様の指名次第で、考えられないほどの富を築くことだってできる」


 玲は良樹にしなだれかかり、ネクタイに指を絡めた。


「こうやって、囁くだけでいいの。知っている情報を流して、ライバル会社の弱みに付け込んでやれ、って」


 身を固くした良樹から、玲は悪戯っぽく笑いながら離れた。でもね、と玲は続ける。


「玲、そうしないの。あくまで、情報を与えるだけ。その先のことはお客様次第。情報を活かすも殺すも、お客様次第」


 その口調はとても穏やかで、不思議なことにあれほど波立っていた良樹の心を落ち着かせた。


「人によって考え方は違うと思うけれど、玲はそう思ってる。夜の世界に生きる玲たちは、昼の世界に疲れた人たちを癒すのが仕事──。決して昼の世界に干渉しすぎちゃダメだ、って」


 玲は自分のグラスに口をつけた。酒の弱い玲は、客の相手をする時は薄めた酒しか飲まない。琥珀色の液体が、トロリと玲の口元へと流れ込んだ。


「玲は昼の世界に何かを望むつもりなんてないの。事実を語って、ただ見守るだけ」

「でもそれは……とても無責任じゃないか……」

「それは、そっちだって同じじゃないの?」


 ギクリとした。良樹は返事をすることができず、硬直する。


 俺だって、玲を利用しようとしたクセに。


 口を閉ざした良樹を見て、玲は何もかもを見透かしたように微笑む。


「ね……。誰のせいでもないよ。運が悪かっただけ」


 響子が言っていたのはこういうことだったのか、と良樹は身をもって思い知った。


『何も分かっていない無垢なお子様じゃないわ』


 本当にその通りだった。玲は何もかもを分かっていて、それでいて分からないふりをしているだけなのだということ。そこには悪意など欠片もないのだということ。

 良樹は玲の胸で泣きたい気分だった。

 玲の情報がなくても、きっと自分はこのプロジェクトを押し進めて行っていただろう。そして、失敗していたはずだ。どれほど迷い、躊躇ったとしても、手を引くという選択肢は良樹にはなかったのだ。


 どの道、自分には成功する未来はなかった――。


 良樹は力なく項垂れ、目を閉じた。どっと急激に疲れが押し寄せる。


「俺って本当にダメな奴だよな。自分のミスを人に押し付けてさ……」


 自分の欠点ばかりが浮かんできては、良樹を責めたてる。


「そんなこと、ないよ」


 少し鼻にかかるような声で、玲が囁いた。その声は良樹の鼓膜を柔らかくくすぐり、神経を伝って全身へと駆け巡った。鳥肌が立ち、背筋にぞわぞわとしたものが這い回る。


「またやれるよ。今は、時期が悪かっただけ。辛いことばかりずっと続くわけじゃないんだよ」


 つと玲の指が良樹の手の甲をなぞる。その仕草はまるで慰めてくれているようで、そして甘えているようで、良樹の体は熱を帯びる。


「今日は飲もうよ。また明日頑張ればいいじゃない」


 玲が良樹の右腕をぎゅっと抱き寄せる。あたたかな膨らみが触れ、さらに熱くなる。


「なぁ……仕事、何時に上がるんだっけ」

「ん、閉店は一時」

「もう少し早く上がれないのか」

「……アフターってことなら、ママに頼めば一時間くらいなら早く上がらせてもらえるかも。今日はお客さんも少ないし」


 でも、と玲は良樹の肩に頭を預ける。


「おうちに帰らなくてもいいの? 奥さんもお子さんも、帰りを待ってるんじゃないの?」


 一瞬、千賀子と亮の顔がちらつく。

 俺なんかを待っているわけないじゃないか。

 良樹は家族の幻影を振り払うように頭を横に振った。


「いいんだよ、別に」


 いいんだよ、ともう一度心の中で繰り返す。空虚な心が何かを渇望する。それが何なのか分からないまま、良樹は玲の手を握った。


「……分かった。ママにお願いしてくるね」


 良樹の指に玲のそれが絡まり、そして離れていった。立ち上がった玲は、ママを呼んでもらうため、黒服の方へ歩き出す。が、何を思ったのか、良樹の席へと戻ってきた。

 そして、酔って赤らんだ良樹の頬に、すっと顔を近づける。


「待っててね」


 バーボンの吐息が良樹の耳朶をくすぐる。

 玲は髪を耳にかけ、硬直する良樹を横目で一瞥すると、再び黒服の元へと歩み寄っていった。

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