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第三章 亮(7)

 それは突然の出来事だった。


 十月に入り、徐々に肌寒くなってきた頃。街路樹の銀杏が散り始め、道に黄金色が降り注ぐ頃。


「マエダ農機との契約を……白紙に戻す……って」


 朝一番に部長から直々に呼び出された良樹は、その残酷な通達に言葉を詰まらせた。


 なぜそのようなことになったのか? 今まで進めてきていたプランはどうなるのか?


 何を問いかけても、部長は答えない。ただごにょごにょと口籠り、はぐらかし続けた。良樹は分かりました、と短く呟くと、部長に背を向け、むくれた顔で歩き出した。

 今まで費やしてきた時間と労力は何だったのか、と怒りが沸き起こってくる。あまりにも一方的な契約の打ち切りに、良樹は憤慨した。

 自分の行動にどこか問題があったのかもしれないと振り返ってみるも、それらしきことは記憶にない。順調にプロジェクトが進んでいたと思っていただけに、失望もまた大きかった。

 不貞腐れた顔でオフィスを歩く良樹に、誰も声をかけようとしない。おはようございます、の挨拶さえもだ。ただ一人、例外を除いては。


「よぉ、榊。朝っぱらから景気悪そうな顔してるじゃねぇか。もうちょっとマシな顔してみろよ」

「…………松永先輩。おはようございます」


 茶化すような口調で声をかけてきたのは上司の松永だった。いつもならば受け流す軽口も、今日は洒落になっていない。良樹は空気の読めない上司にいささか苛立ちながらも、ぶっきらぼうに挨拶を返した。


「もうすっかり社内の噂だぜ。マエダ農機との契約の件」


 松永が良樹にこそりと耳打ちする。良樹は途端にカッと顔を赤らめ、俯いた。


「まぁ……お前に落ち度があったわけじゃないけどな。これ見てみろよ」


 俯く良樹の前に、一冊の雑誌が差し出された。原色の見出しが表紙を毒々しく彩った雑誌──良樹でも知っている有名なゴシップ誌だった。

 その表紙の一番上にでかでかと踊る文字列が良樹の目を奪う。何度も契約書で目にしていた文字。そして、誰も知り得ないはずの見出し内容。


『清純派女優・友渕和希の素顔! 夜はマエダ農機重役の愛人⁉︎ スターラインコーポレーションの光と闇』


 良樹の脳裏にふと玲の言葉がよぎった。


『お客さんの中に、そういう繋がりのある人が何人かいるんだよ〜』


 その時は、そうなのか、と聞き流していた。しかし、今になってようやく気づく。玲が関わっていたのは、ゴシップ記者だったのかもしれない、と。


「お前が玲から聞いた内容は……これだったんだな」


 松永は真剣な表情で良樹を問いただした。


「すっぱ抜かれたマエダ農機側がビビったんだろうな。とりあえず起用する予定だった俳優ともスターラインとも縁を切りたいってとこか」


 都合のいい奴らだよなぁ、と松永はやけにのんびりと言った。

 パラパラとページを繰り、モノクロ写真が掲載されたページを見る。そこに写っていたのは、仲睦まじい様子でホテルから出てきた友渕和希と恰幅の良い中年男性のツーショットだった。大きなサングラスをかけた友淵と男が身を寄せ合い、さらには乗り込んだ車の中でキスを交わしている様子まで撮られている。二人が交際しているという動かぬ証拠だった。


「マエダの社内では自粛ムードが漂ってるらしいぞ。大々的に宣伝するのも見送るそうだ」

「そんな、今さら……」


 新商品発売の一月に合わせ、良樹はすでに準備を進めていた。もうほとんど微調整くらいで済む程度には企画を固めていたのだ。

 良樹はぐしゃり、と写真の載ったページを握りつぶした。こんな記事一枚で良樹が費やしてきた情熱はすべて白紙になってしまった。


 これに全て賭けていたのに――。


 目の前がホワイトアウトしそうだ。立っているのもやっとだった。

 社としての金銭的損失は少ないだろう。いや、一方的な契約の打ち切りに違約金が発生し、プラスが出る可能性もある。


 しかし、信用面ではどうだろうか。

 広告デザインを委託したデザイナー、ポスターやパンフレットの印刷を請け負った印刷会社、写真撮影を依頼したスタジオスタッフ、広告掲載を快諾してくれたテナント──たった一枚の広告を作るのにも、数多の人間が関わっている。

 元凶であるマエダ農機が謝罪するのは当然のことであるのだが、良樹もまた、この企画の責任者として、これら全ての関係者に頭を下げ、謝罪せねばならないのだ。


「弊社の信用はガタ落ち、ってとこか」


 皮肉めいた松永の言葉も、良樹の耳には入ってこない。ポタポタと冷や汗が紙面に滴る。

 自分の判断ミスで、社の信用が落ちてしまった。あるいは、金銭面でのダメージの方がまだよかったかもしれない。

 あの時──玲に話を聞いた時、こうなる可能性を予測しておくべきだった。そこまでは行かずとも、納得してしまうべきではなかった。

 もしかしたら、あの言葉は玲なりのサインだったのかもしれない。裏があるのだ、という警告。


「……なんだよ……っ、これ……」


 松永の前にも関わらず、良樹は素のまま悪態をついた。言っても仕方のないことばかりが口をついて出そうになる。

 松永はすっと手を伸ばし、良樹の手から雑誌を取り去った。


「榊一人だけにケツを拭かせたりしねぇよ。俺たちだって同罪だ。お前に背負わせすぎた」


 優しい一言にすがりつきそうになる一方で、そうだよ、俺にばかり背負わせて、と罵りたくもなる。このまま松永や他の面々の前で自制心を保っていられる気がしなかった。


「……謝罪回り、行ってきます」


 良樹は松永に背を向け、自分のデスクに置いてあった鞄を引っ掴む。


「おい、無理すんなよ。とりあえず、方々へは電話で説明して、明日謝罪に行くアポを取れば……」

「そんな悠長なこと言ってる暇ないでしょう、先輩。アポの電話は移動しながらでもできます。とにかく一箇所でも多くお詫びに行かないと」


 松永の目も見ないで、良樹はきびきびと支度をする。迅速な対応を要しているということ以上に、ただただ、このオフィスに身を置いていたくなかった。


「あぁ、松永先輩。もしマエダの高倉さんから連絡があれば……すみませんが、先輩が応対お願いします」


 そう言い残し、良樹は逃げるようにオフィスを後にした。

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