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第三章 亮(6)

 お茶会は互いに負担にならない範囲で開催しよう、ということになった。深山も自分と同じように、さっぱりとした付き合いを求めているらしく、その距離感が千賀子には心地よかった。

 ポンとメールの着信音が鳴り、千賀子は洗濯を干していた手を止めた。ハーフパンツのポケットからスマートフォンを取り出し、メールを確認する。


『今度は榊さんの家に行ってもいいかな? 十月の中頃はどうですか? 深山』


 くす、と千賀子は微笑み、後で返信をしようとスマートフォンをポケットにしまった。

 九月も残りわずかだ。前回のお茶会から日を開けてくれることに、深山の気遣いが感じられる。ほどよく話したいことも溜まっていたし、十月に入っても連絡がなかったら、自分から深山を誘おうと思っていたくらいだ。

 多恵からサツマイモを食べきれないほど貰っていたし、手土産にスイートポテトでも作ろうか。綾の離乳食用に、五本くらいお土産に包んであげよう。亮もサツマイモのペーストを喜んで食べていたし、きっと綾も喜んでくれるに違いない。

 洗濯を終えた千賀子は首に巻いたタオルで汗を拭きながら、リビングへと戻った。空気はカラリと乾いていて、洗濯物もよく乾くだろう。そんな瑣末ことに喜びを感じることができるようになっていた。

 亮は背もたれつきのクッションに座り、千賀子お手製のにぎにぎで遊んでいた。可愛らしいハンカチタオルを使ったそれは、深山から作り方を教わり、数日で作り上げだものだ。


 寝返りができるようになってからの亮は、目まぐるしいスピードで成長した。日に日にできることが増え、目を離すことができない。最近はうつ伏せになったまま、ずるずると移動するのだ。ハイハイが出来るようになるのも、そう遠くないのかもしれないと、千賀子は嬉しく思った。

 そして――亮の成長度合と良樹が家にいる時間は反比例していくことを嘆いた。

 原因は分かっている。が、未だにごめんなさい、の一言が言えない。そして悩めば悩むほど、かつての良樹の身勝手さが思い出され、謝る気が失せてしまうのだった。

 良樹だって悪いことをしたわけではない。ただ、彼の向いている方向が自分のそれとはずれているため、その僅かな違いに我慢がならなくなってしまう。

 離乳食の件でも、決して良樹に悪気があったわけではないのだ。離乳食を作る負担を軽減したいという思いやり、また亮に色々なものを食べさせて、体力をつけてやりたいという親心から、彼はそうしたのだろう。


 それでも、一言でもいい。たった一言でもいいから、「離乳食、買って行こうか?」の言葉が欲しかった。


 夕泣きで亮の機嫌が悪い時間帯に離乳食を食べさせようとしたこともまた、腹が立った。平日の昼間、さらに子供の機嫌の良い時間帯に離乳食で食事の練習をさせるのがセオリーなのだ。

 初めての食材でアレルギーが出たらどうするつもりだったのだろう。夜間に小児救急を受け入れてくれる病院は、近所にはなかった。急患センターまでの距離は遠く、車を飛ばしても二十分はかかる。全てが亮にとっては初めてで、それ故に何が起こるか分からないのだ。

 一言尋ねてくれれば、そう説明したのに、良樹は何も言わずに押しつけてきた。それが許せないのだ。


 結局、一緒に子育てをしようっていう気が足りないのよ。俺が、俺が、俺が――もううんざりだわ。


 言わねばならない、と思う。

 あの日のことを謝って、そして、自分の思いをぶつけなければ、きっとまた同じことの繰り返しなのだ、と。

 このままでは自分と良樹にとってもよくない結果を招いてしまうであろうし、何よりも亮に悪い影響を与えたくなかった。


 千賀子は父と母に思いを馳せた。自分が独立した後、父・洋介の元を去った母・多恵。

 世間知らずな母に、父が愛想を尽かしたに違いないと思っていたが、実際はどうだったのだろうか。

 二人は千賀子の前では仲のよい夫婦だった。喧嘩をしているところなど見たことはなかったし、離婚をすると初めて聞かされた時も何かの冗談ではないかと信用しなかったほどだ。

 洋介と多恵が別れた本当の理由は知らない。けれども、今なら二人の気持ちが少しだけ分かる気がした。

 おそらく――自分たちの不仲を気づかれまいと必死だったのだろう。

 千賀子が真っ直ぐ育つよう、卑屈にならぬよう、仮面の夫婦を演じ続けていたのかもしれない。自分はまんまと騙され、両親の心の葛藤に気づかずに過ごしてきたのだ。

 それを不幸だったかと問われれば、千賀子は否と答えるだろう。

 少なくとも、両親と三人で過ごした時間は千賀子にとっては幸せでかけがえのないものであったし、二人が自分の幸せを願っていてくれたことに感謝もしていた。

 苦しかっただろう、と思う。何度投げ出したくなっただろうか、と切なくなる。

 今の自分と両親の姿が重なり、千賀子の目頭は熱くなった。幸せだった幼い自分と、あどけない顔で遊ぶ亮。


 私たちは、同じなんだね。


 丸い涙の雫が溢れそうになり、千賀子は上を向いた。

 泣いてはいけない。泣くとしても、亮の前じゃない。

 何度も瞬きをして、懸命に涙を乾かす。涙が濡らした跡が冷たかった。くしゃくしゃのタオルの端で目尻を擦り、千賀子はふぅと細く、長く息を吐いた。

 気を取り直して亮に向き直り、ぷにぷにと膨らんだ頬をつついた。


「ふふ……おもちみたいな頬っぺたね。中に一体何が詰まっているの?」


 千賀子は優しいまなざしで亮を見つめた。くすぐったかったのか、遊びの邪魔をされたのが気に入らなかったのか、亮はふんふんと鼻息を荒げて唸った。


「あら、やだ。亮ったら怖い顔」


 心の中の葛藤は寸分たりとも顔には出してはならない。亮の前で不安な顔をしてはならないと心に決めた。


「亮、ごめんね」


 パパとママが仲良しじゃなくて、と付け足しそうになり、ぐっと言葉を飲み込む。言葉など分からないだろう、と思ってはいけない。聞いていないようでも、子供は意外と親の言葉を聞いているものなのだ。


「ママ、ちゃんとするね。頑張るね」


 そう呟き、亮の髪をさらりと梳いた。

 何を頑張るのか、と問われれば、千賀子は答えることができない。けれどもとにかく、頑張らなければならないのだ、と強くその言葉を噛み締めた。

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