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第三章 亮(5)

「でね、ほうれん草を食べさせてみたら……すっごい顔で吐き出すの! もう筋までちゃんと取ってすり潰したのに〜!」


 深山はカラカラと笑いながら、テーブルの上の紅茶クッキーを摘んだ。このクッキーは千賀子の手作りだ。深山の家に招かれた礼に、と朝一番で焼いたものだった。


 深山の家は整然としている、というよりあまり物がなかった。必要最低限の物だけが揃えられている。白と黒を基調とした家具が並んでいて、子供用品の原色が似つかわしくなく浮いていた。ローテーブルの上のアイスティーは桃の香りがする。千賀子は桃が大好物だったと言ったのを覚えていてくれたようで、わざわざ今日のために用意してくれていた。

 深山の娘・綾はちょうど眠ってしまったところで、しばらくは起きる気配がない。一方の亮は見慣れぬ場所にやって来たせいか、やや興奮気味で、布団の上で「あー、うー」と声を上げながら手足を伸ばしていた。


 初めて深山と出会ってから一ヶ月と少し。九月に入り、時折涼しい風が吹き抜けていく。とは言え、まだまだ暑さは厳しい。容赦なく照りつける太陽のせいで、子供をつれて外で歩くことさえままならない。


「榊さんってお菓子作り上手なのね。私、料理は全然ダメで。簡単なものしか作れないの」

「ありがとう。でもサッと作れたら十分よ。私だって家で作るときはこんなに気合入れないわ。手間暇かけたって、どうせ味の感想なんて言ってくれないんだし」


 憎まれ口さえも笑いの元になった。本当、そうよねぇ、と深山が頷く。


「俺が働いてるおかげでお前らは生活できてるんだ、が口癖なの、うちの人。嫌になっちゃう。じゃああなたが家のことを心配せずに外に出ていけるのは、一体誰のおかげだと思ってるのよって言いたくなる!」


 ぷくっと深山は頬を膨らませた。どうやらこれは深山の癖のようだ。

 もし良樹にそんなことを言われたら──。以前なら黙って耐え忍んだかもしれない。だが、今ならまた怒鳴りつけてしまうに違いない。


「別に嫌なら働いてくれなくったっていいのよ、私が働くから。その代わり、家のことも子供のことも、ぜぇ〜んぶやってよねって感じ」


 自分の思っていることを、まるで代弁するかのように言ってのける深山。行き場のなかった不満が、言葉という音になって消えていく。


「きっと今日、榊さんとお茶したことだって愚痴愚痴言われるに決まってるのよ。今度お友達を招きたいって言ったら文句言われたもの」

「あら、どうして? 私、お邪魔しちゃ悪かったのかしら……」


 おろおろと千賀子は狼狽えた。深山の夫はあまり家に人を上げたがらない質だったのだろうか。悪いことをしてしまったのかもしれない。


「あぁ、違うの。私が昼間、自由にしているのが気に入らないだけよ。ちゃんと家事だってしてるのに……たまに友達とお茶するくらいいいじゃないの。ね?」


 深山はそう言って唇を尖らせた。


「自分だって夜は飲み会に行ったりしているのにね。飲んだくれて帰ってくるより、よっぽどマシじゃない?」

「そうよね。私たち、夜だって休みないもんね」


 夕食を作り、子供に食べさせ、それから風呂に入れる。子供を寝かしつけた後は残った家事を片付けなければならない。

 亮が寝た後に本を読んだり、編み物をしよう。そう思っていても、自分の時間はなかなか取れなかった。


「ねぇ、榊さんってどうやって旦那さんと出会ったの? 恋愛? それともお見合い?」

「え、あ、私? 主人と?」

「うん、そう。だってやっぱり気になっちゃうじゃない」


 興味津々の深山はウフフと冷やかすように笑いながら、クッキーに手を伸ばした。千賀子は遠く窓の外を見やり、良樹と出会った時のことを思い出す。

 あれはいつのことだっただろうか。確か、会社に入社して間もない頃だったと思う。


「私、スポーツ用品メーカーの広報部で働いていたの。ほんと、駆け出しの新社会人の時だったなぁ」


 初めての出会いは、オフィスの会議室。新商品の宣伝のため、広告作成を良樹の会社に委託したのがきっかけだ。その時は、良樹を意識するようなことは全くなく、あくまでビジネスでの付き合いだった。


「私の声が綺麗だっていってくれたの」


 演劇か何かされてたんですか?

 いいえ、どうしてですか?

 あぁ、よく通った凜とした声で、とても綺麗だなと思ったので。


 一言一句違わず、その会話を諳んじることだってできる。良樹のことを異性として意識し始めたのは、それからだった。


「それ、ちょっと榊さんのこと口説くつもりだったじゃないの? 一目惚れしたのは旦那さんの方だったか~!」


 深山は恋の話に盛り上がる女子学生のように目を輝かせた。うっとりと頬を染め、千賀子に話の続きをせがむ。


「そうなのかな? 分からないけれど」

「そうだよ、きっとそう!」


 仕事の打ち合わせで良樹と会うことが増えた。何度目かの約束で、仕事ではなくプライベートで食事に誘われた。待ち合わせはいつもどちらかの会社の会議室だったが、初めて駅前の広場で落ち合う約束をした。

 初めての――いわゆるデートの日、千賀子は普段よりも上等の服を着ていった。もちろん、仕事に支障が出ないよう、派手なものではなかったが。


「付き合って欲しいって言われたのは三度目のデートの時。私はそれに応えて、現在に至る、というわけ」


 話している内にだんだん照れくさくなってきた千賀子は、強引に話を打ち切った。顔は真っ赤だ。人の話は気になるものの、自分の話となれば別だ。


「やだ、榊さんったら、真っ赤だよ」

「もう、違うってば」


 三度目のデートで告白され、恋人同士となったわけだが、良樹は浮かれて仕事に二人の関係を持ちだしてくることは決してなかった。会議室で会う時は仕事の話以外は一切しなかった。そういうところもまた、当時の千賀子が好ましく思っていた点だ。

 良樹に夢中になるのに、さほど時間はかからなかった。てきぱきと仕事をこなす良樹が男らしくて、頼もしくて、そして誇らしかった。

 深山と自分を比較するわけではないが、良樹は自分が家にいる間のことに関しては、何も言わない。そもそも、千賀子のすることに難癖をつけたことなどほとんどなかったのだ。

 言葉遣いや子育てへの意識の低さに苛立ちはするものの、よく考えてみればそれ以外に不満はなかった。


 私、もしかして恵まれている方なのかしら。


 ふとそんな思いがよぎる。とは言え、だから良樹を全面的に許そう、という気にはなれない。

 意固地かもしれない。それでも、譲れないのだ。


「あ、見て、榊さん。亮くん、寝返りしそう!」


 クマのキャラクターが描かれた敷布団の上で、亮が身を捩る。足を交差させ、懸命にもがく。


「あ……!」


 あれほどできなかったのに──。


 亮はころり、と転がりうつ伏せになった。首を持ち上げるも、すぐに力尽き、布団に顔を埋める。

 元に戻れないことが気に入らないのか、亮は途端に大声で泣き出した。千賀子は慌てて近づき、ぎゅっと亮を抱き寄せた。


「えらいねぇ、できたねぇ、亮」


 母に抱かれ、亮は満たされたように笑った。下ぶくれのふくよかな顔が笑顔でくしゃくしゃになる。亮の口からだらだら垂れる涎を、首元のスタイで拭った。不恰好な手作りスタイを身につけた亮の、何と愛おしいことか。千賀子は上機嫌な亮を再び布団の上に寝かせた。


「すごいね、榊さん! 亮くんもすごいねぇ〜!」


 千賀子の側に寄ってきた深山がちょいちょい、と亮の足裏をくすぐった。


「亮くん、コツ掴んだのかな。ほら、またひっくり返りそう」


 それから、亮は得意げな顔で何度も転がってみせた。寝返りはできても、仰向けに戻れない亮を、千賀子はその都度抱き上げ、仰向けに寝かせた。


「いちいちテーブルに戻るのも面倒でしょ? 亮くんの側でお茶の続きしましょうよ」


 深山はシルバーのトレイに紅茶とクッキーを載せ、床にそっと置いた。座布団を千賀子に差し出し、座って、と促す。


「ありがとう、深山さん。そうそう、市民センターの側に新しいパン屋さんができたのは知ってる? この前、食パンを買って行ったんだけどね……」



 頬がつりそうなほど笑ったのは久しぶりだった。鏡台の前で千賀子は化粧水をたっぷりとコットンに含ませ、ゆっくりと顔を揉んだ。

 結局、深山と話し込んでしまい、帰宅したのは四時頃だった。スーパーにも寄らず、急いで夕飯の支度をしたため、全体的に手抜きのメニューが目立ち、出来上がりの雑さに苦笑した。

 外を移動するのも、他人の家を訪問することも、今の千賀子にとっては相当なエネルギーを要するものだった。亮を寝かせ、片付けを終えた後、入浴を済ませ、やっと一息ついたところだ。全身クタクタで、体の内側で熱がこもっているような気さえする。しかし、そんな疲労感さえも心地よく感じた。

 化粧水をつけるのも久しぶりだ。手入れされず、放置されていた皮膚が喜んでいるのが分かる。鏡台の奥に追いやられていたローションパックの封を開け、顔全体が隠れるよう貼り付ける。じわじわと皮膚に水分が浸透していく。


「ただいま」


 玄関で声がした。良樹だ。

 聞こえなかったふりをしようと、千賀子はぐっと俯いた。が、その瞬間に深山とのやり取りが思い出された。


 ――別に、受け入れるわけじゃないわ。


 そう胸中で呟き、千賀子はパックをしたまま立ち上がった。


「おかえりなさい」


 ドアを開け、その隙間から顔をのぞかせる。小さなその声は良樹にも届いたようで、驚いたのか、良樹はびくりと肩を震わせた。

 良樹が通り過ぎた廊下は、ふんとアルコールの臭いがする。おそらく、今日も外で飲んできたのだろう。だが、そんな良樹にいつもよりも腹が立たなかったのは、深山のおかげだった。


「何だ、起きてたのか」


 居間のドアノブに手をかけたまま、良樹は千賀子の方へと振り返った。


「ええ。でも、私、パックが終わったらもう休みます」

「そうか」


 数週間ぶりの良樹との会話は単調だった。そそくさと視線をそらせた良樹の背に、千賀子は声をかける。


「お酒の臭いがするわ。……飲み過ぎないでくださいね」


 一気に言い切り、千賀子はバタンと扉を閉めた。

 正面から良樹の顔を見て話すことはまだできない。きっとまた怒鳴ってしまうだろうし、些細なことでも苛立ちを隠せないだろう。


 それでも、少しずつでも、本当は――優しくなれたらって思ってるのよ。


 コントロールの効かない感情が体を支配し、どうにもならない。

 パックをしていてよかった、と千賀子は鏡の向こうの自分に触れる。ペリペリとパックを剥がし、丸めてゴミ箱に捨てた。

 鏡に映った顔は、苛立ちと困惑と、それから苦しみに満ちていて、とてもではないが、良樹に見せられるものではない。千賀子は歪んだ自分の顔を覆い、深く息を吐いた。

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