第三章 亮(4)
いつの間にか、自然と足がここに向かっていた。仕事を終えた良樹がふらふらと辿り着いた先は玲の店だった。
松永の言葉が頭の中でリフレインし、仕事にも力が入らない。家に帰っても話を聞いてくれる家族はどこにもいない。そうなれば、行き着く先は玲の元以外思い浮かばなかった。
自分は何を心の拠り所にすればよかったんだろう。
支えを求めることはそんなにも身勝手な願望なのだろうか。千賀子に出て行けと罵られるほど、自分のした行動は間違っていたのだろうか。
よかれと思ってのことが全て空回る。何が千賀子のためになるのか。いや、自分がすることは果たして千賀子のためになり得るのだろうか。何をしても結局のところ、こうなってしまったのかもしれない、と自虐の念が首をもたげた。
どこかへ逃げ出したい。
歩調は自然と速くなる。良樹は自身の周囲の何もかもを拒絶したい気分だった。
逃げ込んだ雑居ビルの中は埃っぽく、熱を帯びた空気が滞留していた。エアコンの室外機から吐き出される風は、ねっとりとした吐息のように良樹にまとわりついて離れない。
「いらっしゃいませ」
この店で黒服に案内されるのもすっかり慣れてしまった。だが、今日はいつものベルベットのソファではなく、さらに店の奥にあるバーカウンターへと案内された。カウンターの中では、『華』のママ・響子が良樹に向かって小さく手招きしていた。
この店はクラブには珍しく、隅に小さなバーカウンターがある。空いている時間帯では、響子がここでカクテルを作ってくれ、気軽に話をすることができた。
「ごめんなさいね、榊さん。今日、玲は同伴で……店に来るのも九時頃になると思うわ」
何度か店に通うようになったせいか、良樹の名前も、お気に入りのホステスが誰なのかも、響子の脳内にすっかりインプットされているようだった。それが少し気恥ずかしく、良樹は「ああ、はい」と中度半端な返事をした。
シャカシャカと小気味良い音を立てて、響子はシェーカーを上下に振るう。カクテルグラスに薄青色の液体を注ぎ、グラスの縁にレモンを添えると、良樹の前にすっと差し出した。
「ヒプノティック・マティーニ。夏らしい色合いでしょう?」
「涼しげな色ですね」
良樹は目を細めて、カクテルの美しい色に魅入った。
響子のカクテル作りは趣味みたいなものだ、といつか玲が言っていた。
『クラブって看板出してるけど、ほんとはそんなに堅苦しい店じゃないのよね。スナックっていう方がピッタリだと思うの』
玲は最初に自分がこの店に抱いた感想と同じことを言っていたっけ。
そんなことを思い出しながら、良樹は一人、出されたカクテルをちびりちびりと飲む。フルーティーな甘味と酸味が口の中に広がり、爽やかな香りが鼻腔を抜けていく。鮮やかな青が美しく、良樹はふと目を細めた。
「今日はきっとお店、暇だわ。暑い時期はビアガーデンにお客さんを取られちゃうの」
響子は冗談めかして笑いながら、良樹に話しかけた。高級なスーツを我が身の一部のように着こなしている彼女には、派手な真紅のルージュがちょうどいいくらいだ。華やかなその姿に、良樹は一瞬目を奪われた。
「玲は本当にいい子よ。こんな世界にいるのに、純粋さを決して失わないの。本当に……不思議な子だわ」
響子は心の底からそう思っている。そんな風に良樹には思えた。何と返事をしていいのか、良樹は言葉に迷う。
『あいつはお前が思っている以上に賢くて、したたかだ』
松永はそう言っていたのだ。本当の玲の姿はどちらなのか、自分には分からない。
「本当は、賢くて、したたか……なんですよね」
可愛らしい仮面を被っているくせに、その下では客を掴むための計算でもしているのかもしれない。心を開きかけている自分は愚かだと思われているのだろうか。
そんな良樹の心を見透かすように、響子は笑った。
「そうね、そうだわ。でもね、玲に限らず、女ってみんなそうなのよ。男の人が思っている以上に、女って考えて、強く生きていこうとしている。生き抜くためには、仮面で素顔を隠すことだって必要よ」
響子は空のカクテルグラスを拭きながら続けた。
「それでも玲は純粋な心を決して忘れていない。女性の本質やこの仕事の本質を分かっていて……それでも。何も分かっていない無垢なお子様じゃないわ」
だからかしら、と響子は遠い目で呟く。磨き上がったグラスを片付け、また別のグラスを手に取った。
「汚い部分も嫌な部分も、全部分かって笑ってくれるの、あの子。綺麗事だけじゃ生きていけないって分かった上で、無邪気に応えてくれるのよ」
それはとても稀有なことだ、と良樹は思った。人間の暗い部分を知りながら、無垢であり続けることは難しい。玲はそれをやってのけているというのだ。
「榊さんがあの子をどう思おうかは、榊さん次第よ。榊さんが玲をずる賢い子だ、と思うならあの子はずる賢くみえるでしょう。玲を純粋な子だ、と思うなら純粋に見えるでしょう。玲の本質なんか関係ないのよ。結局、玲を見て、感じているのは榊さんなんだから」
少し説教くさくなってしまったわね、と響子はペロリと舌を出した。
相手の本当の姿など見えることはないのだ。自分がどう思うかで、それはいとも簡単に変化してしまう。結局、自分は誰のことも分かっていないし、また誰も自分のことなど分からないのかもしれない。
千賀子とだって――。
千賀子を知っているつもりで、本当の彼女を分かっていなかったのかもしれない。そして、千賀子も本当の良樹を理解することなどできないのだ。
途端、妻との結婚生活が急に空虚なものに思えてならない。それは偽りの笑顔の上に積み重なった生活だ。
「妻の笑顔は……仮面の笑顔だったんでしょうか」
問うても無駄な問いかけを口にする。響子は首を傾げ、柔らかく笑った。
「仮面を被った奥様は愛せない?」
思いがけない返答に、良樹は目を見開いた。
――分からない。
愛しているという自信がなかった。本当の妻ではなく、偽りの妻だと言われ、それでも千賀子を愛せるだろうか。剥き出しになった千賀子の心を、抱きとめることが出来るだろうか。
針鼠のような棘まみれの千賀子の心。それを抱く覚悟は、はっきりと言って、ない。
傷つくのはもうたくさんだった。甘えていると言われようが、夫失格だと言われようが構わない。誰だって傷つくのは嫌ではないか。
良樹はその本心を隠そうとするように、机上のコースターをじっと見つめる。グラスから垂れた水滴が、紙のコースターを濡らした。
「……そろそろ、玲が来る頃かしら。先客がいらっしゃるから、すぐに玲をつけることはできないと思うけれど……どうします? 待ってる?」
待っています、と答えようとしたが、答える前に良樹は口を閉ざした。
帰る気にもなれず、玲に会う気にもなれない。こんな時はどこへ行けばいいのだろうか、と目を伏せる。
「いえ、今日はもう帰ります。また来ますんで、その時に」
そう、とママは短く返事をすると、側に立っていた黒服を呼び寄せた。
「榊様がお帰りです。出口までお見送りなさって」
良樹はママの申し出を丁重に断ると、飲み代を支払い、そそくさと背を丸めて店を出た。ビルを出たところで玲らしき人影とすれ違ったように思ったが、顔を上げて確認する気にもなれなかった。




