第三章 亮(3)
マエダ農機とスターラインコーポレーションの間の事情を聞かされた良樹は、与えられた依頼をこなすことに集中した。これは双方が同意した──ある意味、密約だ。
俺が口出ししてこじらせるような問題じゃない。
良樹は改札口に定期券を押し付けた。ピッという機械音とともにゲートがバタンと開く。くたびれたスーツを着たサラリーマンの群れが市の中心部へと大移動する。朝の人混みに流されるように、良樹は通勤電車へと乗り込んだ。
知らないはずの自分がしゃしゃり出れば、何故知っているのか、と問い詰められるのは間違いないだろう。そうなれば、情報源である玲に疑いがかかるのも時間の問題だ。
『ただ自分の利益のためだけに近づいてくる人には、ぜぇ〜ったい、教えないんだから』
屈託なく笑った玲の顔を思い出し、良樹の顔には自然と笑みが浮かんだ。彼女は自分を信じて話をしてくれたのだ。そんな彼女に迷惑をかけるわけにはいかない。
ガラス窓に映る自分の顔はとてもくたびれていて、目の下にはうっすらと隈ができている。このところ、あまり眠れていない。仕事を終えた後は外で夕食を済ませ、九時ごろまでネットカフェで仕事をした。帰宅してもすぐに自室にこもり、さらに夜更けまで仕事に没頭する毎日だ。その甲斐あってか、企画の進捗状況は上々で、八月中には完成したプランをマエダ農機側に提出できそうな具合だ。
一駅進んだ電車は、腹の内に溜め込んでいたものをぶちまけるように乗客を吐き出した。しかし、いったん空いたと思われた車内に、新たな通勤客が押しかけてくる。再びすし詰めになった車内、良樹は降車扉とは逆側に追いやられた。
松永たちは、厄介な案件を抱えてしまった良樹を気遣ってくれた。何度か飲みに誘ってくれたり、仕事を手伝ってくれようとしてくれたが、良樹はそれらを丁重に断った。松永は何か言いたげだったが、良樹は気づかないふりをした。
大きな仕事を成し遂げたい、というその気持ちに偽りはない。これが成功すれば、社内での自分の地位も、他のクライアントに対する自社の評判も上がるだろう。
でも、本当はそうじゃない。
良樹は自嘲気味に笑った。自身のプライドや功名心ばかりでここまでは動けない。自分はそこまで思い切った人間ではないということは分かっていた。
そうだ、俺は逃げたいんだ――俺の家から。
かつては彼の支えだったもの、千賀子と亮。それはいつしか良樹の心を蝕み、否定していく存在へと化していた。
家にいれば嫌でも二人の姿が目に入る。家にいても、自分はいないもののように扱われるならば、いっそのこと帰らなければいいのだ。
あれ以来、良樹は時折、息抜きのために玲の店へ飲みに行ったりもした。が、玲とはそれだけの関係──客とホステスという枠を超えることはなかった。ただ、玲に話を聞いてもらえるだけで癒される心地だった。
会社の最寄駅に到着した良樹は、真っ直ぐ会社へ向かう。自分の部署のある階でエレベーターを降り、デスクを目指した。
しかし、オフィスに入る前、いきなり背後から何者かに首根っこを掴まれ、強引に引きずられる。
「ちょっ……!」
引きずり込まれた先は、オフィス脇の喫煙室だった。長机の上に灰皿が三枚置かれただけの簡素な部屋。いつも喫煙者で混み合っているこの部屋には珍しく、誰もいなかった。良樹は引きずり込まれた勢いのまま、一番奥の壁に強く背を打った。
「いってぇな! 誰だよ!」
このような手荒い扱いを受け、黙っているわけにはいかない。良樹は相手の顔を憤然と睨みつけ――そして、認識するや否や、あっ、と短く声を漏らした。
「よぅ、榊。最近やけにつれないじゃないか……なぁ」
「松永先輩……」
松永はいつものように飄々としていたが、その目は笑っていなかった。自分が何か大きなミスでもしでかしてしまったのか、と小さく身震いした。
「マエダ農機の仕事、受けたそうだな。あれほど慎重だったお前が、一体どういう風の吹き回しだ」
「……別に……やってみようと思っただけです。それ以外には何も……」
「お前、玲から何か吹き込まれたのか」
「……っ!」
「やっぱりな」
松永は胸ポケットから煙草を取り出し、ライターで火をつけた。馬鹿正直に表情に出してしまった自分が憎らしい。良樹は俯き、銀の灰皿を見つめた。
「確かに俺はあの日、玲から情報を引き出すためにお前たちを連れて行った。だからお前が自分で玲から情報を得ようが何をしようが構わんと思ってる」
だけどなぁ、と松永は声を低くした。
「玲に妙な恩義だとか、そういうのを感じるならやめろ。最悪、玲を犠牲にするつもりでやれ」
「そんな……そんなことできるわけじゃないですか!」
松永の残酷な物言いに良樹は食ってかかった。情に厚い人だと思っていたのに、と松永をにらみ据える。
「情報を提供してくれたからこそ動けるんです。彼女を犠牲にするなんて……できるわけないじゃないですか!」
松永ははぁ、と短く息を吐くと、煙草の灰を灰皿へ落とした。
「情報を提供してもらったからこそ、引けなくなった、の間違いじゃねぇのか」
自分の頭の中を見透かす松永の瞳が恐ろしい。
「真面目に考えるな。手を引く理由を聞かれれば、適当にはぐらかせばいい。そんなことくらいで玲に何か迷惑がかかるだなんて、考える必要なんかない」
脳裏に玲の顔がよぎる。自分を信じてくれたからこそ話してくれたのだ。
「あいつにとってはお前は客の一人に過ぎん。万が一、お前がボロを出して、玲が疑われることになっても、それはお前の責任じゃねぇ。情報提供する相手を見誤った玲のミスだ」
「どうしてそんな言い方しかできないんですか⁉︎ 彼女は俺を信じて……」
「榊、自惚れるなよ」
ピシリと松永が言い切った。煙草を咥え、眉根を寄せる。目を細めて煙を吸い込み、首を傾けた。
「あっちはプロだ。客と話をし、酒を飲む。ボロを出すような男に、迂闊に口を滑らせた玲の方がどう考えても悪いだろう。俺はお前なら割り切って玲と付き合える……そう思ってあそこに連れて行ったんだがな。どうやら、そうでもなかったみてぇだな」
「割り切って玲さんを利用できる、の間違いでしょう」
カッとなった良樹は、失礼を承知で反論した。そうとも言うな、と松永は大口を開けて笑った。良樹の威嚇など、幾つもの修羅場をくぐり抜けてきた松永にとっては、周りを飛び回る小蠅程度のものでしかないのだろう。良樹の言葉をひらりと交わし、何事もなかったかのように落ち着き払っている。
壁の時計を一瞥した松永は最後に言っておくが、と煙草を灰皿に押し付けた。
「玲に入れ込みすぎるなよ。あいつはお前が思っている以上に賢くて、したたかだ。口では何とでも上手いことは言える。客を獲得すること……それがあいつの仕事だからだ」
自分にかけてくれた言葉も、あれはビジネスライクなものに過ぎなかったのだろうか。そこにほんの僅かでも本心はなかったのだろうか。
そうではないと信じたい。それが彼女の仕事だったとしても、自分に向けてくれた言葉は真実だったと信じたい。
「まずはお前自身のことを考えろ。俺は事情を知らんが……マエダの仕事、あまり気が進まねぇな」
単なる勘だけどな、と付け足し、松永は喫煙室を後にした。パタンと乾いた扉の音ともに、良樹の緊張の糸はプツンと切れた。
「どうして今更、そんなこと言うんですか……先輩」
良樹はその場にずるずると崩れ落ち、頭を抱えて項垂れた。




