第三章 亮(2)
途切れることなく広がる雲は薄く、ほんのりとその向こうの青が滲んでいた。梅雨も明け、晴れの日も増えてきている。
快晴であれば母子ともに体力を消耗するだけ、雨天であれば荷物が嵩張って動きにくい。少し雲があるくらいが、子供を連れて歩くにはちょうどよい。千賀子はマザーズバッグを肩にかけ直し、抱っこ紐の中の亮に手で風を送った。
バスに揺られること三十分。亮がぐずりそうな時は、子供番組のマスコットキャラクターのぬいぐるみで気を紛らわせた。もうそろそろぬいぐるみの効力も切れそうだ……とやきもきし始めた頃、ようやく市民センター前への到着を告げるアナウンスが流れた。
降車ボタンを押し、ポケットからあらかじめ用意しておいた小銭を取り出す。バスが停車したことを確認し、千賀子は席を立った。乗客が数人、千賀子に続いて降車する。その中には千賀子と同じように子連れでやって来た女性もいた。
千賀子はローカル新聞の切り抜きを見ながら、センターの入り口を通り抜けた。絵本の読み聞かせが行われるのは、三階の子育て広場内らしい。入り口のすぐ右手にあるエレベーターに乗り込むと、先刻、バスから降りてきた女性が、ベビーカーを押しながら小走りで向かってきた。千賀子は女性に軽く会釈し、開閉ボタンを押した。
「すみません、ありがとうございます」
「いえ、大丈夫ですよ。何階へ行かれますか?」
「三階へ……お願いします」
彼女も子育て広場へ行くのだろうか、と千賀子は横目でちらりと女性を見た。
ばっさりと短く切りこんだショートカットは、目鼻立ちのくっきりとした彼女によく似合っている。ノースリーブの水玉ワンピースは彼女の膝丈ほどで、とても涼しげだ。一方で可愛らしいそれとは対照的に、足元は履き古したスニーカーという不釣り合いなものだった。
「あの……子育て広場へ行かれるんですか?」
その女性は千賀子に声をかけた。その声は少し緊張気味で、勇気を振り絞って話しかけたのだろうということが窺えた。声をかけられると思っていなかった千賀子は、目を丸くして彼女を見る。そして、返事をしなければ、と慌てて口を開いた。
「え……ええ、絵本の読み聞かせがあるって聞いたもので……」
女性は安堵の表情を浮かべ、微笑んだ。
「よかったぁ。私も行こうと思っていたんです。でも、初めてでよく分からなくて……。あ、私、深山っていいます。よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします。私、榊といいます。私も今日、初めて参加するんですよ」
深山の人懐っこい様子に、自然と千賀子の心も和んだ。
家族以外の人と、会話らしい会話をしたのはいつぶりかしら。
家族とでさえ、このところほとんど会話をしていない。長らく使われていなかった声帯から発せられた声は、心なしか掠れているような気がした。それでも、人と言葉を交わせることが嬉しい。人間らしいことをできた、と心は弾んだ。
三階に到着し、千賀子は深山と連れ立ってエレベーターを降りた。広場にはすでに十数組の母子連れで賑わっていて、常連同士のコミュニティーらしきものも見て取れた。広場は小さな体育館のようで、子供用の室内遊具やままごとセット、読書スペースや赤ん坊用のマットエリアもある。読み聞かせ以外の日も、遊戯場として無料で開放しているとのことだった。
ここへ来る前に深山と知り合えたことは幸運だった。そうでなければ、おそらくなかなかこの場に溶け込めずにいただろう。
「榊さんがいてよかったぁ。ママ友グループ、結構出来てるみたいですね」
深山も自分と似たようなことを思っていたようだ。そうみたいですね、と相槌を打ちながら、千賀子は抱っこ紐を解く。
「深山さんのお子さんはどれくらい? うちは今、六ヶ月なの」
読み聞かせが始まるまではまだ十分ほど時間がある。それまでに深山と少しでも仲良くなりたかった。
「うちは七ヶ月。もう離乳食作りが大変で! 作ってもね、あまり食べてくれないんです」
深山はベビーカーから子供を下ろし、広場の隅に畳んで置いた。二人で子供を抱きかかえながら、広場の中央へと進む。
「こんなところがあるって知ってたら、もっと早くに利用してたのに~。広場があるってこと、最近知ったばかりで」
「私もそう。一昨日、新聞で見たの」
「子供と二人で家に籠ってるよりずっといいよね。真夏は外に長時間出られないし、これからはここに来ようかな」
深山は子供の目を見て、ここで遊ぼうね~、と優しく声をかけた。
家からは遠いけれど、ここに来た方が私にとってもいい気晴らしになるかもしれない――。
千賀子は広場を見回した。体を動かせる環境の方が、亮も動こう、という気になるに違いない。
「は~い、皆さ~ん。ご本の時間ですよ~」
職員が絵本を持って現れた。子供たちが集まり、小さな輪になる。
千賀子も、亮を膝に抱きかかえ、深山とともに輪に加わった。
二十分ほどで読み聞かせは終了した。千賀子はマットの上に亮を寝かせ、広場のおもちゃを片手に亮をあやす。その横では深山が笑っていた。
「綾、こっちだよ~、こっち見て~」
深山の子供・綾は腹這いになり、必死に顔を上げていた。綾は寝返りを打てるようになってから、遊び感覚でコロコロと転がるという。
「すぐうつ伏せになろうとするから、かえって目が離せなくって」
深山はそう言い、綾の頬をくすぐった。
「それにしても……みんなお母さんたち、お化粧もちゃんとしてスゴイなぁ。私なんか下地塗ってファンデ塗って、それでおしまいだよ。私これでも、今日は外に出かけるからって精一杯の格好してきたつもりだったんだけどなぁ。お洒落なお母さん多くって、尊敬しちゃう」
千賀子も自分の姿を見下ろして、その余りにも素っ気ない格好――紺色のTシャツと白いパンツスタイル――にため息をついた。せめてきちんと化粧くらいはしてくるんだったと顔に手を当てる。
中には、祖母と三人で遊びに来ている母親もいた。祖母が子供と遊んでいる間、母親は同じような友人と子育てトークに花を咲かせているようで、綺麗に化粧をし、流行りの洋服に身を包んでいた。
一方の自分はというと、何ヶ月も美容室に行っていないせいで、髪は伸び放題だ。朝は化粧をする間もなく家事に追われ、気づけばもう昼近くなっている。服は見た目よりも機能性が重視され、お気に入りだったスカートやワンピースは箪笥の肥やしになってしまっていた。
自分磨きは努力次第、などとはよく言うが、努力だけではどうにもならないこともある。千賀子はそれを痛感した。
「私の実家は遠いから……お母さんに手伝ってもらうのは無理なんだよね。この辺、子供も多いでしょ? 保育園に預けて働きたかったんだけど定員オーバーでさ。落ちちゃったんだよね、一斉入所」
「そうなの? 実家はどの辺?」
「ん~、S県。産後は一ヶ月だけ、お母さんに泊まり込んでもらってた。里帰り出産すればよかったんだけど、産後、赤ちゃん連れて飛行機で帰るのも……って思って」
「そうなんだ。私も里帰りしてないの。主人が子供と過ごしたいって言って聞かなくて」
「えらいな~、榊さんって。実家のお母さんに手伝ってもらったりしたの?」
「う~ん、少しだけ。私の両親、離婚していてね……母は働いていて忙しいから」
ハッと深山が手で口を覆った。分かりやすいその態度に、千賀子は思わず吹き出した。
「やだ、深山さんったら、そんなに気にしないで。今時、離婚なんてそう珍しいことでもないし。うちの両親の場合は熟年離婚ってやつ」
「そ、そうなんだ……。っていうかさ、何で笑うの~。私、本当に悪いこと聞いちゃったって思ったんだから」
深山は可愛らしく頬を膨らませた。あぁ、と千賀子はくすぐったくなる。とても楽しいのだ。他人のさり気ない仕草も愛おしくなるほど、人との繋がりに飢えていたのだ。
「ごめんなさい、つい。人と話すのが久しぶりで……なんだか、嬉しくなっちゃって」
千賀子の素直な告白に、深山は顔を輝かせた。
「本当? 私も……楽しい!」
深山は千賀子の手をぎゅっと握る。
「ねぇ、榊さん。私、榊さんと友達になりたいわ。……駄目、かな?」
「ううん、こちらこそ、是非お願いします。改めてよろしく。深山さん」
深山の手の温かさに凍てついた心が溶けていく――千賀子にはそんな気がした。




