第三章 亮(1)
真夏の暑い日差しの中、千賀子は両手にスーパーマーケットのビニール袋を抱えながら歩いていた。抱っこ紐の中の亮は眩しそうに目を細めている。
汗で日焼け止めクリームはすっかり溶け落ちてしまっていた。マスカラをつけてこなくてよかった、と千賀子は心底思う。飾り気のないサンダルから覗く真っ赤なペディキュアは剥げかけていて、中指と小指の爪にはほとんど色は残っていない。
つばの広い帽子を被り、長袖のパーカーを羽織った姿の自分がカーブミラーに映る。おばさんがする格好だ、と言っていた過去の自分を思い出した。昔の自分が今のこの姿を見たら何と言うだろうか。ださいおばさん、と馬鹿にするのかもしれない。
五月頃から、多恵が手伝いに来てくれる頻度は激減した。千賀子の体調も安定し、亮の成長にも問題はなかったため、千賀子自ら辞退したのだ。今では月に一、二度ほどになっていた。
辞退した理由は別のところにもあった。多恵が来ると……かえってストレスだったのだ。良樹との関係を問いただされ、家事にとやかく小言を言う。亮がいる状態で完璧な家事などこなせるはずもないのに、多恵は完璧を求めた。
顔を合わせることが少なくなり、やっと千賀子は落ち着くことができた。月に一度程度の小言なら耐えられる。笑顔を作るのも苦ではなかった。
良樹と口論になったあの日から、良樹は目を合わせてくれなくなった。それも当然だろう。あんな風に声を荒げ、挙げ句の果てに出て行け、と罵ったのだから。
あの晩、日を跨いだ頃、良樹は酔い潰れて帰ってきた。玄関のドアが開き、千鳥足の良樹がそこかしこに体をぶつけている音がしていた。それに気付きながら、千賀子は良樹を出迎えには行かなかった。亮の隣で布団にくるまり、聞こえない振りを決め込んだ。
優しくなれない自分に対する嫌悪で吐きそうになる。しかし、その一方で妙な清々しさを感じていた。心の底の凝りが嘘のように消えていた。
見放されたらどうしよう、という思いが常に産後の千賀子に付きまとっていた。そのせいで、千賀子は良樹に言いたいことを言えずにいたのだ。見放されたとしても千賀子一人ならまだいい。問題は亮のことだった。
生活費は? 養育費は? それらを稼ぐために千賀子が働きに出るとしても、保育所は見つかるのか? そもそも、職場の見学や面接に子供を連れてなど行けない。求職期間中、どこに亮を預ければいいのか――。
考え始めるとキリがなかった。どうしよう、という気持ちに縛られ、頭が痛くなる。良樹に嫌われないよう、機嫌を損ねることのないよう、必死で不満や不安を胸に閉じ込めていた。
だが、良樹に不満をぶつけてしまった今、そんな悩みもどうにかなるような気がした。どんなに悩んでも、なるようにしかならないのだ。
見放されたら、その時はその時だわ。亮と二人でやっていくしかないんだから。
千賀子は強気だった。亮と二人ならばどんな困難でも乗り越えられる。いや、乗り越えなければならないのだ、と強く言い聞かせる。
街路樹の下を通り抜けると、マンションが見えてきた。エントランスを行き過ぎ、郵便箱の前で立ち止まる。銀色の箱がいくつも並ぶ中から、千賀子は自宅の部屋番号が書かれたボックスに手をかけた。暗証番号順にダイヤルを回すと、郵便箱はパカリ、と軽い音を立てて開いた。
広告が二枚、良樹宛のダイレクトメールが三通、ローカル新聞が一部。千賀子は広告をごみ箱に捨て、残りを買い物袋にくしゃりと突っ込んだ。
自分宛の郵便物があるのではないか、と無駄な期待をしてしまうのだ。学生時代の友人から、前の職場の同僚から、以前通っていたカルチャースクールの友人から――連絡してくれるならば誰でもいい。けれども、もう誰も自分のことを思い出しもしないだろう、と分かっていた。こちらから発信しなければ、誰も気に留めてはくれない。育児に奮闘している千賀子の方から外に繋がりを求めるのは難しかった。
ビニール袋の紐が切れんばかりに伸びきったところで、ようやく玄関に到着した。千賀子はその場に袋を置き、先に亮を下ろすためリビングへ向かう。亮を窓際の長座布団の上に寝かした後、再び玄関へと戻った。
冷蔵庫を開け、牛乳パックを押し込んだ。ほぼ空に近い冷蔵庫はひんやりとしていて、火照った顔を瞬時に冷やした。ガサゴソと袋の中を探ると、フニャリとふやけた物に触れた。冷たい牛乳パックの水滴で濡れたローカル新聞だった。
そう言えば、ここのところ、目を通していなかったっけ。
以前は毎月配られる新聞を欠かさず読んでいたものだった。地域のイベント情報が書かれていて、案外面白そうな催しを見つけることができるのだ。しかし、亮が産まれてからは読むことはなくなり、古新聞の山に埋もれてしまっていた。
『七月のイベント情報はこちら!』
ポップな文字が紙面を飾る。はらりと千賀子はページをめくった。
地域の神社の夏祭り、花火大会、親子で虫捕り大会――。良樹との関係が良好であれば、亮を連れて行ったかもしれない。ほんの少し、後悔の念が湧き出る。けれども、あの時間に戻ることはできないし、戻るつもりもなかった。
「お母さんと一緒に、本の読み聞かせ……」
イベント欄の片隅の小さな記事に目が止まった。市民センターのプレイルームにて毎週水曜日に開催されているらしい。対象は小学校入学前の子供たちで、赤ちゃんも大歓迎、と書かれていた。
「市民センターの場所は、っと」
市民センターの最寄駅はここからバスで三十分ほどのところにある。子供を連れて行く距離にしては少々遠く、千賀子は一瞬躊躇った。
亮の荷物を持ってバスに乗り込むだけでも困難を極めるのに、さらに三十分もバスに揺られていなければならない。亮がぐずらずに乗ってくれる保証などどこにもなかった。
そこまでいくのは大変。でも――。
千賀子は窓際で横たわる亮を見やった。風にそよぐレースカーテンが亮の前でちらつく。寄せてはかえすカーテンを不思議そうに眺め、両手を伸ばしてじゃれついていた。掴めそうなのに届かない。亮はふんふんと唸りながら両手両足をばたつかせた。
亮はまだ寝返りをうつことができなかった。体を反らせ、ひっくり返ろうとはするのだが、いつも腕が引っかかって邪魔をする。なんとかそれを乗り越えようと、じたばたともがいている姿も愛らしかった。
亮の世界を広げるためには、外界と触れ合うことも大切なのではないか、と最近思うのだ。自分の都合でこのまま家に引き篭もっていていいのだろうか。知らない物を見、人に出会い、「初めまして」を繰り返して、人は成長していくのだ。見知らぬ世界に戸惑うこともあるだろうが、それもまた亮の糧になるに違いない。
それに、話し相手も欲しかった。「ママ友」などという密な関係ではなく、ほんの時折、お互い気楽に話をできるような相手。
同じ立場の母親たちが、何を思い、何を考え子育てをしているのか。子供のことで悩み、苦しんだことはあったのか。夫との関係に不和が生じたことはなかったのか。その片鱗でもいいから、彼女たちの現実を知りたかった。
それが今の状況を打破できる一助になるのかは分からない。もしかしたら、他の家庭の幸せそうな姿に打ちのめされるかもしれない。それでも、千賀子は話を聞いてみたかった。
「次の水曜日は……明後日か」
行ってみてもいいかもしれない。
千賀子は鋏を取り出し、丁寧に記事を切り取る。短く切ったセロハンテープを記事につけ、冷蔵庫の扉にペタリと貼り付けた。




