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第一章 千賀子(1)

 深く、静かな眠りの底から意識が浮上していく。

 千賀子はゆるゆると瞼を押し上げ、まだ靄がかった頭で今の状況を懸命に把握しようとした。横たわったまま、眼前へ片手を上げ、握りこぶしを作ってみる。無地のクリーム色に蛍光灯が沈黙している。外からの光はカーテンに遮られてはいたが、眩しく白い。

 少し遅れて、芳しい香りが千賀子の鼻腔をくすぐった。カリカリに焼けたトーストとオニオンスープ、甘酸っぱい苺ジャムの香り。腹がぐぅと音を鳴らし、空腹を訴える。その音を聞いている者など誰もいないと分かっていたが、千賀子はバツが悪いといった表情で腹部に手を当てた。


「あ……」


 昨日までとは違う感触に、ようやく記憶が蘇る。はち切れんばかりに膨張していたはずの腹はすっかりしぼみ、常に内側で感じていた脈動は消え失せていた。腰部に残る鈍痛と骨盤の違和感が、この身に起こった出来事を物語っている。

 自分のこの目で確かめようと、千賀子はベッドサイドにかかってあるリモコンスイッチを押した。ベッドの背もたれが、微かな機械音とともに持ち上がる。ほんの気持ち、ベッドの背を起こし、千賀子は入院着の前紐をほどいた。


「そっか、産まれたんだ……」


 露わになった腹部をさすり、千賀子はしみじみと呟いた。気を失う寸前に見たのは、皺くちゃの顔で声をあげる我が子の姿だ。その一瞬を、千賀子は頭の中で繰り返し再生した。

 しかし、そんな感慨に耽っている彼女にはお構いなしに、胃はこれでもかというほどに鳴り響いた。堪らず香りのする方へ顔を向ける。食事にかけられたラップの上、ピンク色の付箋が貼り付けられていることにようやく気付いた。


『目が覚めたらナースコールを鳴らしてください。 担当ナース・嘉納かのう


 右上がりの文字で書かれたそれを読み、千賀子は急いでナースコールを押した。嘉納は千賀子の担当看護師だ。陣痛間隔が短くなり、不安で震えていた自分の隣でずっと手を握っていてくれた人だ。自分の仕事もあるだろうに、嘉納は千賀子が落ち着くまで声をかけ続けていてくれたのだ。

 ボタンを押してから五分後に、嘉納は病室に現れた。夜勤明けで疲れているのか、後ろに束ねた髪が乱れている。


「榊さん、おはようございます! ごめんなさいね、遅くなって。ちょうど交代の時間帯でね……バタバタしちゃってた」


 遅くなった、と言うほど待たされたわけではないのに、嘉納は律儀に頭を下げた。


「おはようございます……。こちらこそ、お忙しいのにごめんなさい。嘉納さん、上がる時間だったんじゃないですか?」

「いいのいいの、気にしないで。それより、榊さん、自分の心配しなくちゃ。ちょっとお下見せてね」


 気さくなおばちゃん、といった印象の嘉納に、千賀子は親近感を抱いていた。お母さんになるなら、こんなお母さんになりたいな、などと理想の母親像を重ねながら。

 自分の母親が理想の母親らしくなかった、というわけではない。ただ神経質で几帳面な実母にはなんとなく甘えることができず、三十になる今でも未だに母親との距離を測りかねているのだった。その点、嘉納は母とは真逆だった。


「昨日ね、榊さんのご主人、いらっしゃってたんですよ。面会時間終了の夜九時ギリギリまでこの部屋にいてね。榊さん、眠っていて気付かなかったでしょう?」

「え、良樹さんが?」


 良樹は遠方へ出張でいないはずだった。出産に立ち会えなかったのは残念だが、それも仕方ないと諦めていたのに。


「病院から連絡させてもらってね。そしたら、すぐに帰りますって。出先だから時間がかかるかも知れないけれど、必ず帰りますって言ってたんですよ」


 千賀子は部屋の隅に置いてある丸椅子に目をやった。昨夜、そこに良樹が座っていたのだろうか。大事な契約だと言っていたにも関わらず、自分と赤ん坊のために戻ってきてくれていたのだ。それがなんだか少しくすぐったく、誇らしかった。


「はい、おしまい。出血も問題ないみたいだし、ゆっくりとなら起き上がっても大丈夫だよ。え~と……外来診察始まっちゃう前に、一度先生に診てもらおうね。朝ごはん、食べてから行く? それとも先に診察済ませちゃう?」


 嘉納は千賀子の服を丁寧に着せ直し、屈みながら千賀子に問いかけた。


「先に診察をお願いしてもいいですか?」


 おずおずと尋ねる千賀子に、嘉納は合点だ! と威勢良く答えた。

 


   *



 会陰部の傷がジクジクと痛み、うまく歩くことのできない千賀子に嘉納は寄り添い、診察室へ連れて行ってくれた。勧めてくれた車椅子は断り、嘉納に体を支えてもらいながらのろのろと歩く。気を抜くと腰が砕けそうになる。「骨盤が緩んだままだからだよ」と嘉納は言った。

足の爪先を見るのは久しぶりだった。大きな腹に遮られ、自分の足元を見ることができない時期の、なんと長かったことか。

 すでに待合室にはお腹を抱えた二人の妊婦が座っていた。九時からの診察で、一番に診てもらうのだろう。一人は青ざめた顔で、座っているのもやっとの様子だった。千賀子は心の中で彼女にエールを送る。そして案内された診察室の扉をノックした。


「おはようございます、榊さん。昨日はお疲れ様でした。早速、体の方、診せてもらいますね」


 穏やかな言葉をかけながら、医師は淡々と診察をした。最初は抵抗のあった診察にもすっかり慣れ、初診の頃ほど体を硬くすることもなくなった。緊張すればするほど、器具の冷たさや痛みを感じるのだ。無心で天を仰いでいればいい――そうすればあっという間に診察など終わってしまう。


「経過は順調ですね。はい、結構ですよ」


 診察台から下りた千賀子は再び医師の前に座った。


「あの、先生、赤ちゃんは……」

「大丈夫ですよ、元気です。今日から忙しくなりますよ、榊さん」


 医師は千賀子を安心させるように、半ばオーバー気味に頷いた。


「入院前のアンケートで母子同室を希望されてますよね。今日は看護師から赤ちゃんのお世話に関する指導を受けていただいて、明日の朝から同室という段取りにしましょうか」


 ぱぁ、と千賀子の頬に朱がさした。出産後のぽっかりと空洞になった体に、温もりが戻った気がした。


「よかったね、榊さん」


 背後からぽん、と肩に手が置かれた。嘉納がピースサインをするのを見て、千賀子もはにかんだ顔でピースサインを返す。


「まずは朝ごはん、食べないとね。しっかり食べて、スタミナつけて、たくさんおっぱい出さないとね!」


 千賀子は嘉納の目を見て、何度も首を縦に振った。そして、座ったまま医師に深々と一礼し、消え入りそうな声で感謝の言葉を繰り返した。

 自室に戻った千賀子は再度、嘉納に礼を言った。仕事で疲れている嘉納を引き止めるのも悪いと思い、そのままその背を見送ったが、本当は話したいことが山積みだった。

 ベッドサイドの小さなテーブルに置かれた食事はすっかり冷めてしまっていたが、ちっとも気にならない。皿のラップを一枚一枚きれいに剥がし、千賀子はいただきます、と手を合わせた。口元にトーストを運び、はたと一度動きを止める。

 食べても気分が悪くなったりしないだろうか……? 急に固形物を食べて、体は大丈夫だろうか……?

 出産寸前までろくに食事を摂ることのできなかった千賀子にとって、食後の嘔吐は一種のトラウマになっていた。食べてもどうせ受け付けないんだ、という諦めに支配されていた日々が頭をよぎる。だが、ゼリー飲料を啜るだけの食事は、もうウンザリだった。


「ダメ、赤ちゃんのために、食べないとね」


 人生における一つの大きな山場を越えた千賀子にとって、今は体力をつけることが何よりの優先事項に思えた。強くあらねばと自分に言い聞かせ、トーストの端を齧る。


「……おいしい……」


 カリリとした歯触りと濃厚な小麦の香り。舌先に広がるそれに驚きつつ、千賀子はもう一口、さらに一口とパンを口に含んだ。

 喉の渇きを覚え、トーストの皿の隣にあったマグカップを掴む。カップの中で飴色の玉ねぎが踊り、ベーコンの仄かなピンク色が食欲をそそった。味わう時間さえもどかしく、ゴクリゴクリと喉に流し込む。胃が歓喜に打ち震え、千賀子もそれに呼応した。

 食べることができる。たったそれだけのことがどうしようもなく嬉しい。決して特別な食事であったわけではないのに、今まで食べたどんな物にも勝っている。

 縮みきった胃では、出された食事を完食することはできなかった。しかし、バタートーストを半切れ、オニオンスープ一杯とそれだけで千賀子は十分満たされていた。

 食事を終えた千賀子はゆっくりと立ち上がり、持ってきた荷物の中から円形の手鏡を取り出した。そこに自分の姿を映しだし、まじまじと見つめる。

 頬はこけ、セミロングの髪はパサついている。肌も荒れきって粉が吹いている上に、唇は切れて瘡蓋だらけだ。それでも、ほんの少し、血の気が戻った気がする。ほんの少し、快活だった頃の自分に戻れた気がする。


「良樹さん、仕事終わったら来てくれるかな……」


 せっかくだもん、ちょっとくらい、おめかししなきゃ。

 千賀子はポーチから水色のシュシュを手に取り、傷んだ黒髪を丁寧に束ねた。

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