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第二章 良樹(9)

 昼休み、良樹は松永たちとのランチを断り、一人喫茶室の一角を陣取っていた。小さな丸テーブルの上には、通勤途中のコンビニで購入したおにぎりとサンドイッチが置かれている。喫茶室を利用しているのは女性社員が多く、皆色とりどりのランチボックスを広げて談笑していた。


 昨夜の玲の助言を受け、良樹はスマートフォンの検索エンジンにキーワードを打ち込む。『六ヶ月 赤ちゃん』と入力すれば、育児関連のホームページが面白いほどヒットした。有名子供用品店のコラムから、個人の子育てブログまで、様々なページがあるようだ。良樹は検索結果の一番上に出てきたページをクリックした。


「六ヶ月の赤ん坊の平均的な成長……か」


 離乳食、寝返り、早ければつかまり立ちをする子もいる。乳歯が生え始めたり、おもちゃを持って遊ぶこともできるということに良樹は驚いた。

 良樹の中の亮は、生まれた時と変わらず、今もふにゃふにゃとした頼りない存在だった。親からのアプローチを受けるだけのイメージだったが、知らぬ間に、亮の方から外界に働きかけるような時期になっていたらしい。

 冬の寒い季節に生まれた亮。夏になり、亮もまた青葉の繁った若木の如く、成長しているのだということを思い知らされた。

 千賀子を振り向かせることに必死で、亮のことを何も知らずに来たのだ。父親たれ、と自分に言い聞かせながら、その実、子供である亮のことを自分から知ろうとはしなかった。

 良樹はホームページの別のページへと画面を移した。生後間もない頃から五ヶ月まで、子供というのはどのように成長するのか、目を皿のようにして読み進めた。

 目が見えるようになる、人影を目で追うようになる、少しずつ自己表現も増えていく、首がすわる、手遊びをするようになる、体をそらせてよく動くようになる――。

 亮は変化していたのだ。いつまでも寝たままで、ミルクを求めて泣きじゃくるだけ、と思い込んでいたのは良樹の方だった。亮の成長をこの目でちゃんと追えていなかったことを後悔する一方で、気付けてよかった、と心から安堵する。


 玲の言葉がなければ、今でも良樹は亮を疎ましく思っていただろう。理解しようと努力もせず、理解できないと嘆き、家族が壊れていくと打ちひしがれていた自分。

 亮の存在に戸惑っていたのは自分だけではなかったのかもしれない。亮が分からないと感じていた自分のように、千賀子もまた、目まぐるしいほどの亮の変化に困惑していたに違いない。

 父親にならねばと焦っていたように、母親にならねば、と千賀子が思っていたとしたら。千賀子は当然のように亮をあやし、世話をしていたから気づかなかったが、彼女も彼女なりの葛藤があったのかもしれない。


 話せば分かる、きっと。まだ始まったばかりじゃないか。


 不思議な力が良樹を満たした。千賀子と亮を信じる気持ちが加速していく。

 それもこれも、玲のおかげだ。仲のいい女子社員というものがいなかった良樹は、女性に相談するということがなかった。また、家庭のことを同僚に相談するなどみっともない、というプライドがそれを阻んだ。

 そんな中、玲が現れた。全く自分のことを知らない第三者の玲。長年築いてきた「榊良樹」という殻などそこにはないも同然だった。だからこそ、弱音を吐けたのだ。


「亮と……風呂にでも入ってみるか」


 一緒に風呂に入れば、亮は喜んでくれるだろうか。それとも、「ママじゃない」と泣きじゃくるだろうか。


「それもいいか」


 例え泣かれても、もう戸惑わない自信があった。それもまた、亮の自己表現の一つなのだ。亮が自分に対して何かを訴えていることには違いない。それを――今まで受け止めようとしなかったのは過去の愚かな自分だ。

 良樹は清々しい気持ちで、スマートフォンを胸ポケットにしまった。




 ガサガサとナイロン袋が風に揺れた。夕方から天候がぐずつく、と天気予報では言っていたが、まだ雨が降りそうな気配はない。いやに赤い夕焼け空が良樹の目には眩しかった。

 ただ雨が降ってくるのも時間の問題だろう。遠くの空には雲が垂れ込めていて、じきにここまで迫ってくるはずだ。今日に限って折りたたみ傘を持っていなかった良樹は家路を急いだ。

 手元のナイロン袋の中には、パステルカラーの箱や小瓶が幾つも入っていた。生後六ヶ月から食べられる離乳食だ。野菜のペーストや果物のペースト、離乳食用の出汁粉末。すべて良樹が帰りがけにドラッグストアで購入したものだ。


 亮が生まれた時を思い出すな。


 良樹はふふっと笑みをこぼした。あの時、千賀子に頼まれたものを買いにドラッグストアへ走った。ベビー用品コーナーでオムツを買った自分――父親になった喜びで頬を上気させていたっけ。

 そして今、良樹は再びあの日の気持ちを思い起こしていた。


「ただいま!」


 良樹は上機嫌で帰宅した。いつもよりも早い良樹の帰宅に千賀子は慌ててリビングから走り出てくる。千賀子の背中には亮が負ぶさっていて、グズグズと鼻を啜り、泣いていた。


「良樹さん、おかえりなさい。……ヤダ、早く帰ってくる時は連絡してくれないと。ご飯、まだ出来てないのよ」


 エプロンで手を拭きながら、千賀子はキッチンへ戻っていった。


「かーらーすー…………」


 千賀子は童謡を口ずさむ。体を小さく揺らしながら手元では包丁を握っていた。背中の亮は相変わらず手足をばたつかせ、泣いている。


「なぁ、千賀子、これ買ってきたんだ。ちょっと見てくれよ」


 良樹はビニール袋の中身をテーブルの上に広げた。パッケージを一つ一つ、横一列に並べる。


「待って……今、お鍋を見てるから……」

「ちょっとだけだって、ほら!」


 千賀子は一旦コンロの火を止め、良樹の隣へやって来た。


「何、これ……?」

「離乳食だよ。亮、離乳食始めてるんだろ? 色んな種類のもの、食べさせてやらなきゃなぁと思ってさ」


 良樹は得意げに胸を張る。千賀子は小瓶の一つを手に取った。


「今日は早く帰って来られたし、亮を風呂に入れてやろうかなって思ってるんだ。そうだ、亮はもう寝返りするのか? まだならちゃんと練習させないと駄目だぞ」


 良樹は早速箱を開封し、中の小袋を取り出した。


「ほら、これ、お湯で溶かせばレバーペーストになるんだってさ。試してみよ……」

「何なの」


 千賀子はじっと机の上を見つめ、ぽそりとこぼす。

 あまり千賀子はこういうものに詳しくないのかもしれない、と良樹は思い、箱の裏面にある説明書きを指差した。


「いや、ほらさ、簡単に離乳食ができるやつで……」

「そうじゃなくて、こんなもの買ってきてどういうつもりだって言ってるのよ!」


 怒声。


 予期せぬ反応に、良樹は身を固くした。千賀子の声に驚いた亮が、体を海老反りにして泣き始める。


「私はちゃんと自分の手で調理したものしか与えてないの! レトルトなんて買ってこないでよ!」


 ボロボロと大粒の涙を流しながら、千賀子は両手で机の上の品を払いのけた。耳障りな音を立てて、箱や瓶が落下する。勢いづいて落ちた瓶が一つ、パンッ! と割れて、中身が飛び散った。


「どうしていつも勝手なことばかりするの! 私、そんなこと頼んだ⁉︎ それとも私の子育てが信用できないの⁉︎ ろくなもの食べさせてない、って馬鹿にしてるの⁉︎」

「違……」

「気が向いた時だけちょっかい出しに来るのよね、あなたって! 本当に手を貸して欲しい時は見向きもしないくせに!」


 千賀子は大きく肩で呼吸しながら叫んだ。見たことのない千賀子の姿に、良樹は言葉を失った。違う、そんなつもりじゃない……そう言いたかったが、千賀子の怒りに気圧される。


「中途半端なことするくらいなら放っておいてよ‼︎」


 割れた小瓶はかぼちゃのペーストだろうか。かぼちゃの甘いにおいが立ち込める。ハァハァ、と千賀子は息を荒げ、キッと良樹を睨みつけた。


「出てって……」


 嫌だ、と良樹は無言で首を振る。


 どうしてこうなってしまうんだ――。


 言い返してやればよかった。だが、反論できなかった。

 千賀子はぐいぐいと良樹の背を押した。弱々しい力だったが、有無を言わせぬ圧力があった。良樹はなすがまま、リビングの外へと追いやられる。


「顔も見たくない……! 出てってよぉっ‼︎」


 叫びと泣き声の不協和音。

 バン、とリビングの扉が閉まった瞬間、良樹は家の外へと駆け出していた。

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