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第二章 良樹(8)

「今日も遅くなる。夕飯はいらない」


 良樹からのメッセージを見て、千賀子は無言でスマートフォンを伏せた。また外で飲んでくるのだろう。会社の人付き合いのためと割り切って考えてはいるものの、亮のことや家のことを気にせずに酒を飲めるというのは羨ましくもあった。


 夕食の支度をしていた手を止める。良樹の分がいらないのであれば、何も食事を作る必要はない。亮の分さえあればいい。千賀子は食パンの袋を開け、何もつけずにパンの耳をかじった。パンを咥えながら、粥をこしらえる。水を含んでふやけた米を裏ごしし、べちょべちょのそれを器に盛る。冷凍庫からにんじんペーストの作り置きを取り出し、砕いて粥に混ぜ込んだ。


 食育も何もあったものじゃないわね。


 色気のない食卓。ただ生きるためだけの食事。亮と二人で楽しめたらどれほどいいだろう。けれども、離乳食を作ることにも体力を削られ、片付け終えた後は脱力してしまうのだ。


「亮。いただきますしようか」


 ベビチェアに座った亮は、まだ背中が安定していないせいか、ぐらぐらと揺れながら腰掛けていた。たまに勢いよく机に頭をぶつけるものだから、おちおち目を離すこともできない。唯一の救いは、亮が食事自体に関心を持っていることで、気に入った食材は積極的に食べようと、口を大きく開けてくるくらいだった。

 にんじんも亮の好物の一つで、オレンジ色に滲んだ粥を見て、亮は嬉しそうに手足をばたつかせた。


「ほらほら、そんなに暴れると、またお顔をごっつんこしますよ」


 匙で粥をひとすくいし、ふぅふぅと冷ましてから口元へ運んでやると、べちゃべちゃと口の端からよだれを流しながら夢中で頬張った。自分が作った食事を、こんなにおいしそうに食べてくれる。疲れはあったが、亮の満足げな顔に満たされた。嚥下する度、ニカッと笑い、もう一匙とせがんでくる。


 良樹はこんな顔をしてくれなくなった。付き合っていた頃は、見ているこっちが恥ずかしくなるほど、オーバーに手料理を褒めてくれたものだった。だからこそ作り甲斐もあったし、メニューを考える過程も楽しかった。

 今はどうだろう。食事が出されることを当然だと思い、味の感想も言ってはくれない。最近では、「いただきます」「ごちそうさま」さえないことも多い。はき出される言葉は「疲れた」の一点張り。挙げ句の果てには用意されたメニューが気に入らないからと手をつけずに残すこともある。

 千賀子はぎっと奥歯を噛みしめた。せめて、亮のように美味しそうに食べてくれたら。明るい話で食卓を賑わせてくれたなら。


「あー、あー」

「あ……ごめんね、亮。手が止まってたわね」


 米を飲み下した亮が次を催促する。千賀子は急いで匙を取り、亮の口へと運んだ。


「亮、今度は何食べたい? ママがなぁんでも作ってあげるよ」


 我が子の食事は自分で作りたかった。面倒だと感じる時もある。ドラッグストアのベビーフード売り場の前でつい立ち止まり、買ってしまおうかと思うこともある。自分の首を絞めることで心の余裕を失ってしまうくらいなら、便利な物を利用するべきなのだ。それは重々承知していた。

 それでも、憔悴しても、嫌気がさしても、自分で調理しようと思えるのは、亮のこの表情を見たいからだ。

 感謝されることもなくなり、自分の存在意義さえも曖昧で、このまま子供を育てて一生を終えてしまうのだろうかと不安になる。だからこそ、千賀子は良樹ではなく、亮にしがみついていた。


 唯一、自身の存在の意味を見出せる場所。矛盾した考えに混乱しながらも、亮のための時間を奪われてしまえば、それこそ二度と立ち直れないだろう。育児がどれほど苦痛であろうとも、もうここ以外に居場所はないのだ。


「にんじんと、じゃがいもと、かぼちゃは食べたよね。小松菜はまだ苦手かな? 次はとうもろこしでもどうかな。夏になるとね、美味しくなるんだよ」


 実家で食べたとうもろこしの味を思い出し、切なくなった。毎年夏には、多恵の実家の畑でできたとうもろこしが送られていたのだ。祖父母が亡くなり、畑を耕す者がいなくなったため、数年前から夏の贈物を受け取ることはなくなってしまった。

 大粒のとうもろこしを深鍋で塩ゆでするのだ。ほんのり塩味のついたそれは、より甘みを増し、何本食べても飽きることはなかった。ひたすらとうもろこしにかじりつく千賀子を見て、両親は笑っていた。「もっとたくさん食べなさい」と、父は自分の皿からとうもろこしを一本分けてくれたものだ。

 両親の笑顔が偽りのものだったとしても、今の榊家の食卓よりは数倍もましだ。嘘さえない空虚なリビングに、何の希望も持てない。

 あの甘いとうもろこしはどこへいってしまったのだろう。あの時、確かに前歯で身を囓りとり、咀嚼し、味わったというのに。どこまでいってもあの時間が続くと思っていた。正確には、自分もいずれ、あの温かい家庭の風景を再現できると信じていたのだ。


「明日、とうもろこしを買いに行こうか。裏ごしして、出汁でのばして……コーンスープにしてあげる」


 きっと亮は気に入ってくれるだろう。ゆっくり口の中でスープを味わう姿が目に浮かぶ。

 千賀子の頭の中は、明日のレシピのことでいっぱいだった。

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