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第二章 良樹(7)

「華」の前に着いた時、ちょうど雑居ビルの看板の明かりがついた。良樹は躊躇いがちにエレベーターに乗り込む。

 店の重い扉を開けると、前回のように黒服が出迎えてくれた。七時という早い時間のせいか、店内に客はおらず、何となく決まりの悪さを覚えた。


「あれ? 榊さん、いらっしゃ~い。今日はお一人ですかぁ?」


 店の奥からひょっこり現れた玲が、良樹に気づく。


「あ、はい……今日は一人で来たんです」

「やだ、そんなにかしこまらないで下さいよぅ。何だか、玲、緊張しちゃうじゃないですか~」


 玲が肩を揺らして笑った。青いドレスは大きく背中が開いた作りになっていて、玲の白い背中が露わになっている。頼りない首筋には、細い金の鎖がキラリと光っていた。


「榊さんのために、今日はお酒、薄めにしておきますね。松永さんと飲むと大変でしょう? 彼、すっごくお酒に強いんだもん」


 松永のことを親しげに「彼」と呼ぶ玲にドキリとした。妙な詮索はやめろ、と理性が制する。


「あ、今、変なこと考えたでしょう? 松永さんは奥様一筋ですから、そんなんじゃありません~。玲が誘ったとしても、きっと完敗だと思うなぁ」


 コロコロと玲は表情を変えながら話す。その活き活きとした様子に、良樹の心はホッと和んだ。


「あのさ、今日は君に……聞きたいことがあってきたんだ」

「あら、何ですか? 玲のことなら何でもお話ししますよ」

「仕事のこと……マエダ農機のことで」


 玲は顔色一つ変えず、良樹の目をまっすぐ見据えた。


「松永さんに何か言われたんですか? 玲に聞いてこいって?」


 いや、と良樹はやんわりと否定した。


「松永さんは関係ない。仕事に行き詰まったところで君のことを思い出したんだ。俺が……自分の判断でここに来たんだよ。君が何か知っているような気がして」


 良樹は手を組み合わせ、コツン、と額に当てた。


「でも、何も知らないならそれでいいんだ。言えないのなら……それでも」


 玲に不必要なプレッシャーは与えたくなかった。本来ならば、自分で調べなければならないことなのだ。彼女に聞くのは筋が違う気もしたし、何よりいいように利用しているような気もした。

 玲はそっと体を寄せ、項垂れる良樹の背に手を添えた。香水の香りが強くなる。


「玲、話だけでも聞くよ」


 玲に促されるがまま、良樹は自分のプロジェクトのことを語った。


 マエダ農機との契約、A駅での大々的な宣伝、その利点と欠点、マエダ農機に対する疑問、そして自分が信用されていないのではないかとういう不安。

 良樹は一思いに全てを吐き出すと、氷が溶けて薄まってしまった酒を一気に飲み干した。


「そう……大変なんだね、榊さん。たくさん抱えて、辛いんだね」


 玲は良樹の左手を取り、両手で包み込んだ。


「松永さんには言わないつもりだったの。だって本当に知りたがっているのは松永さんじゃなかったから」

「それはどういう……」


 その言葉に、良樹は思わず顔を上げる。良樹が最後まで言い終わる前に、玲は人差し指で良樹の唇を優しく押さえた。


「玲ね……榊さんの疑問の答え、知ってるよ」


 良樹は目を見開く。動悸が激しくなり、息苦しくなる。


「榊さんだけに、教えてあげる」


  あどけない玲の瞳には子供っぽさは欠片もなく、そこにはただただ知性的な光が宿っていた。

 玲の指先が、ふわりと良樹の唇から離れた。か細い指先から確かな力を感じ、良樹はそのまま口を噤んだ。


「榊さん、ウイスキーの香りがする」


 店内にいる客は良樹だけだったが、玲は誰にもこの会話を聞かれまいと、小さな声で囁いた。


「女優の友渕和希って知ってる? 清純派女優として売り出し中の人」

「あぁ……確か、いくつもドラマの主役に抜擢されてるっていう……」


 芸能関係には疎い良樹でも、名前くらいは知っていた。

 その女優が一体どう関わってくるのだろうか、と良樹は首を傾げる。だが、玲の話の腰を折らぬよう、敢えて聞き返さなかった。


「スターラインコーポレーションに所属している女優さんなんだけどね。……実はマエダ農機のある役員の愛人。誰、とは明かせないけど」


 玲は右手の爪を見ながら、話を続けた。ネイルにはダイヤモンドを模したストーンが散りばめられている。


「CM女王にも輝いた女優さんだし、映画の主演も決まっていて、波に乗りまくってるみたい。で、その友渕和希、スターラインの社長の愛人でもあるの」


 玲は愛くるしい顔で、泥々とした芸能界の裏事情を平然と語った。あまりにも衝撃的な暴露話に、良樹はつい返事をするのも忘れた。


「スターライン所属の芸能人、この前、未成年の喫煙で問題になっちゃったの。今、芸能界では、スターラインのタレントを避ける動きが出てきてるみたい。まぁ、一時的なものだと思うけれどね」

「そう、なのか……」

「そこで、その動きを食い止めるために、友渕がマエダ農機に働きかけたってわけなのね」


 今一つ話が掴めない。良樹は曖昧な調子で相槌を打った。


「マエダ農機さんが広告に起用する予定の若手俳優さん……彼もスターライン所属なの」

「……っ⁉︎」


 愛人の要求を聞き入れ、ここまで話を大きくすることのできる人物だ。役員の中でも、トップクラスの人間に違いない。

 奇妙な繋がりを感じ、良樹の腕には鳥肌が立っていた。


「最初はマエダさんもその俳優を起用する気はなかったそうよ。愛人のおねだり程度じゃあ、ねぇ? でも、スターライン側からの提案で考えを変えた……。広告出演料を減額するって。その代わり、事務所の俳優を使って、大々的に宣伝してくれって取引」


 広告費を大幅に削ることができる、というのは大きなメリットだ。ただ、そのような曰く付きの事務所所属の俳優を起用して、マエダ農機自体のパブリックイメージが悪くなりはしないだろうか。良樹の心に再び疑問が芽吹く。


「スキャンダルを逆手に取ってやろう、って考えなんでしょうね、マエダさんは。一応、最近人気が出てきた俳優さんだし、CMや広告が完成すれば、朝のワイドショーくらいでなら紹介されるはず。事務所側だって、スターライン潰しの風潮を止められるなら、この程度の負担、痛くないんじゃないかな」


 玲はふぅ、と息を吐き、これくらいかな、と呟いた。

 マエダ農機とスターラインコーポレーションとの取引。良樹の疑問が解けていく。高倉の頑なな態度も、上からの命令だったに違いない。


「友渕和希の本命はマエダさんの方かな〜、それとも、事務所社長の方かな? 事務所の我儘を押し通しちゃうくらいだし、玲は社長さんが本命だろうなって睨んでるんだけど」


 くすくすと玲は目を細めて笑った。


「君は……どうしてそんなことを知ってるんだ……?」

 良樹の問いかけに、玲は「え〜」と肩をすくめる。その表情は、初めて玲と知り合った時の、あどけない無邪気なものに戻っていた。


「お客さんの中に、そういう繋がりのある人が何人かいるんだよ〜……って、榊さん、これはオフレコでね」


 玲の変わり様に少々面食らいながら、良樹は分かった、と微かに笑った。

 心の荷がおりていく。胸の中でわだかまっていたものが溶けていく。もちろん、事情が事情だけにスッキリした、というわけにはいかなかったが、謎が解けたことで気分が落ち着いたのは事実だ。靄がかっていた視界が晴れ渡り、仕事に対して前向きな気持ちが戻ってきていた。

 玲と話せてよかった、と心底思った。長らく思い悩んできた疑問が解決できたという点はもちろんだったが、何よりも会話することで仕事のストレスを発散できたことが大きい。もし、玲が何も知らず、マエダ農機への疑念が解消されなかったとしても、やはりいくらか心が落ち着いたに違いない。


『大変なんだね、榊さん。たくさん抱えて、辛いんだね』


 この一言で十分救われる気がした。玲にとっては、良樹の仕事の話に大して興味などなかっただろう。それでも玲はそんな素振りは一切見せず、最後まで耳を傾けてくれた。それどころか、有用な情報まで提供してくれた。


「オフレコだったなら……俺なんかにそんなこと話してよかったのか?」

「玲、言ったじゃない……榊さんは本当に知りたがってる人だって。それに、情報を悪いことに使うような人じゃないって信じてるもん。玲だって、誰彼構わず喋ってるわけじゃないよ。ただ自分の利益のためだけに近づいてくる人には、ぜぇ〜ったい、教えないんだから」


 良樹の胸がチクリと痛んだ。本当は、自分の利益のためだけに玲に近づいたに過ぎなかったが、玲は良樹を信じてくれている。それが痛かった。


「ね、今、榊さん、罪悪感感じたでしょ? 玲、何でもお見通しだよ。それは榊さんがいい人の証拠」


 玲はそう言って、耳に髪をかけた。その仕草が、妙に大人びていて、良樹は見てはいけないものを見てしまったような気がした。


 松永さんがこの店に、玲を目当てに通うのは、玲が単なる『情報提供者』じゃないから、かな。


 松永の口振りでは、過去に何度か玲から情報を得ていたことが分かる。しかし、玲に対する感情はそれだけではないはずだ。

 月並みな言い方だけど、玲にあるのは癒しなんだ――。

 良樹にはそう思えてならない。玲と会話をし、酒を飲む。ただそれだけのことが、どうしようもなくホッとするのだ。


 自宅に帰っても、妻は疲れきり、自分になど見向きもしない。テレビを見ながら笑おうものなら、もの言いたげな表情でこちらを一瞥される日々。泣きじゃくる子供は自分の手では泣き止んでくれず、結局何もできずに放っておくより他にない。家のどこにも居場所はなく、結局自室にいるのが一番気楽だった。そうなると、夜、千賀子を求める回数も自然と減っていく。

 仕方ないことだと自分に言い聞かせても、空虚さだけが募っていく。ただでさえ仕事で家にいる時間の少ない良樹だったが、休日もあまり家族と関われずに過ぎていった。

 そんな乾ききった生活をいつまで続けていけばいいのだろうか。


「……榊さんの奥さんは幸せだね。こんなに一生懸命仕事して、家族を支えてくれる旦那さんがいて」

「本当に、そう思うのか?」


 千賀子は決してそんなことを思ってはいない。ともすれば、そんな自虐的な言葉が口をついて出そうになる。


「思ってるよ〜。玲のお父さんも、榊さんみたいに一生懸命な人だったらよかったのに」

「それでも……千賀子とは……妻とはすれ違ってばかりだ。子供のことばかりで、俺のことを顧みようとしない」


 自分がどれだけ歩み寄ろうとも、必死で足掻こうとも、千賀子は理解しようとしない。それが辛かった。玲の柔らかな雰囲気に、つい愚痴が溢れた。


「ねぇ、奥さんもそうだけど、子供さんにちゃんと歩み寄ってる?」

「それはもちろん! 俺は亮に関わろうとっ……!」

「亮くんっていうんだ。亮くんはおいくつ?」

「……六ヶ月」

「六ヶ月の赤ちゃんって、どういうことができるか、知ってる?」

「いや……」


 そう言われてみれば、亮、というより、六ヶ月の赤ん坊がどういった状態か、ということを良樹は知らなかった。


「じゃぁさ、そこを調べてみる、なんてどうかなぁ? 例えば……離乳食も始めなきゃいけない時期だよね。あとは、寝返りなんかもできるようになるのかな。そうすればさ、亮くんの成長を、少し違った目線で見られるかもしれないよ」


 ね、と玲は八重歯を見せて笑った。


「それに、奥さんだって、そんな良樹さんを見たら、一緒に子育て頑張ろうって思ってくれるかもしれないじゃない?」


 玲の言葉が良樹に未来を見せる。そうかもしれない、と幾分か前向きな気持ちが生まれた。


「うん……そうしてみるよ。ありがとう、玲さん」

「玲、でいいよ。それより榊さん、時間大丈夫? もう九時になるよ」


 ハッと腕時計を見ると、長針が九時を指し示すところだった。

 普段であれば、もう少し飲んでいこう、と思うところだ。どうせ帰っても一人なのだ、と。だが、玲のおかげで、家に帰ろう、という気になりつつあった。


「そうだな、うん、今日はこのくらいにしておくよ」


 良樹はそう言い、席を後にしようと立ち上がった。その時――。


「待って」


 玲が突然良樹の手を掴み、引き止める。振り返った良樹と玲の視線が交わった。


「榊さん、よかったら、また……飲みにいらしてね。玲、お店で待ってるから」


 その一言を玲は一息に言い切ると、すぐに手を離し、黒服を呼んだ。

 玲の笑顔も言葉もビジネス用のものに過ぎない。売り上げを伸ばさなければならないのは玲も同じだ。

 それでも――自分の訪れを心待ちにしていてくれているというのは、悪い気はしなかった。

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