第二章 良樹(6)
どこをどう通って行ったのかは覚えていない。タクシーは自宅マンションの前に近づくと、ハザードランプを点滅させながら停車した。
「じゃあな、榊。ここからなら帰れるだろう。俺は伊東の家まで回っていくから」
松永は熟睡している伊東を親指で指した。
「はい、松永さん、すみません。え……と、タクシー代……」
鞄から財布を取り出そうとした良樹を、松永が止める。
「いいって。今日は俺が無理やり付き合わせたようなもんなんだから。それより、日ぃ跨いじゃったからなぁ……奥さん心配してるんじゃねぇか。早く行け」
良樹はもう一度すみません、と謝りタクシーを降りた。二人を乗せたタクシーが見えなくなるまで、良樹は深く頭を下げる。エンジン音が遠ざかっていき、ほとんど聞き取れなくなってから、良樹はやっと体を起こした。
心配してるんじゃねぇか、か。そうだといいんだけどな。
雨が降った後であるからか、気温はさほど高くなく、酔いを醒ますにはちょうどいい風が吹いていた。良樹はポケットからスマートフォンを取り出し、画面を確認する。千賀子からは電話どころか、メールもない。どうせいつものことだ、と寝てしまっているのだろうと思うと、家へ向かう足取りは重くなった。
「ただいま」
待つ人のいない玄関で、良樹は小さく呟いた。自分勝手だとは分かっているが、「おかえり、お疲れ様」の一言が恋しい。良樹はクタクタになった革靴を脱ぎ、スリッパに履き替えた。
足元から視線を上げると、リビングに続く扉の隙間から光が漏れていた。良樹の胸の内で、期待が大きく膨らんでいく。
千賀子が自分の帰りを待っていたのだろうか。亮が産まれてもう五ヶ月。自分に目を向けてくれる余裕ができたのかもしれない。育児に奮闘する千賀子を前にはどうしても言えなかったことがたくさんあるのだ。
俺だって家族なんだ。亮だけじゃなく、俺にも目を向けてくれ、俺がここにいるってことを忘れないでくれ――!
思いが通じたのか、と。心の叫びが届いたのか、と。良樹は足早にリビングへと急ぐ。
「た……ただいまっ」
ガチャリ、とわざと音を立てて扉を開けた。千賀子は本でも読んでいるのだろうか、それともインターネットか。いや、もしかしたら疲れてテーブルでうたた寝してしまっているかもしれない。それでも、自分を待っていてくれたのであればそれで十分だ。
しかし、千賀子からは何の返事もなかった。テーブルに向かい、千賀子は何かに没頭していた。時折、チョキチョキ、と鋏の音がする。
「千賀子?」
良樹の呼びかけに、ようやく千賀子が反応する。まるで良樹の存在を「今」思い出したかのように、あぁ、とそっけない返事をした。
「おかえりなさい、遅かったのね」
そう言うと、千賀子は再び自分の作業に戻る。良樹はムッと眉根を寄せ、千賀子の向かいに回り込んだ。テーブルの上には、裁縫道具や布の端切れが乱雑に置かれていた。
「もう亮も五ヶ月でしょう? そろそろ離乳食を始めなきゃと思って、スタイを作っているの」
千賀子は手元の布をチクチクと縫い合わせる。全体的に青い色調の布が多い。車や電車、ライオンや象といった男の子らしい柄のものだ。
千賀子の脇には、完成したスタイが三枚広げられていた。四枚目も完成間際だが、千賀子はスナップボタンの取り付けに苦戦していた。
「あぁ、そうか」
亮の成長を全く把握できていなかったことにショックを隠せなかった。人間として、知らぬ間に成長していたのだと思い知らされる。
それと同時に、裁縫に夢中で自分を見ようともしない千賀子に苛立ちを禁じえなかった。
亮、亮、亮。亮のことばかりだ。
自分は稼いだ金を吐き出すだけのATMではないのだ。自分を労わる気持ちはないのか、と疑問に思う。
育児は疲れるのだ、というのなら、早く体を休めればいいのだ。裁縫のために夜更かしをして、忙しいのだと言い張るのは本末転倒な気がした。スタイ程度、一枚の値段などたかが知れている。手作りをする方が、手間も時間もかかる上に、下手をすれば、材料費の方が高くつくのではなかろうか。
それに千賀子は手先が器用な方ではないらしく、出来上がったスタイはお世辞にも見栄えのいいものだとは言えなかった。これならば、市販のものの方がずっと可愛らしい。良樹には、千賀子のしていることがまったく無駄な作業に思えてならなかった。
そんな暇があるなら、話を聞いて欲しいのに。
良樹は思い切って、千賀子に話しかけた。
「あのさ、最近でかい仕事任されたっていっただろ? それがさぁ……」
ネクタイを解き、椅子にかける。千賀子はふと顔を上げ、良樹の目を見た。
「仕事の話? 少し待って、もうちょっとで完成するの。それより、ネクタイ、そんなところに放りっぱなしにしないで下さいな。皺になっちゃうわよ」
ピシリ、と良樹の心にひびが入った。千賀子はそのまま視線を手元の落とし、無言で針を進める。
もうダメだ、と心が叫ぶ。この程度で音を上げてどうするんだ、と別の心が叫ぶ。
壊れかけの吊り橋の向こうから、二つの心がせめぎ合いながら、良樹の元へと近づいてくる。どちらか一方しか歩けないほどの幅の狭い橋を、二つの心は我先にと競い合う。落ちてしまえば二度と上がっては来られないであろう谷間、その下には轟々と急流が渦巻いていた。
そして――諦めないという気持ちが、橋から足を踏み外した。
真っ逆さまに落ちていく心が、ドボンと水底に沈んでいく。
この家に、俺の居場所なんかないんだ。
良樹は風呂に入ってくる、と小さく呟き、くたびれたネクタイを手に取った。
*
「えぇ、ですから、駅の巨大広告を利用するのは少し……」
取引先――マエダ農機の高倉に電話をかけてから、もう小一時間は経過していた。A駅の中央口、その正面にある掲示板に掲載する予定の広告案をメールで提出し、高倉から確認の返信を受け取った後、良樹はすぐさま先方に連絡したのだ。
A駅に広告を出すべきか、否か。最終的に決定するのはもちろんマエダ農機側だったが、メリットだけではなく、デメリットも説明しておくべきだと判断したのだ。
良樹の話を一通り聞いた高倉の返事は、広告を出す、とのことだった。
「……分かりました。では……」
どこか釈然としないものを感じながら、良樹は淡々と事務的な話へと移る。
俺はもしかして、担当として信用されていないんだろうか?
新人時代から、松永の部下として、マエダ農機とは長い付き合いだった。だが、付き合いがあった、と感じているのは自分だけなのか、と不安になる。一方的に懇意になったつもりでいて、その実、それは中身を伴っていないものなのかもしれない。
どうしても巨大広告を出す、というのなら、そこに拘る理由を知りたかった。それを伝えられていないのは、自分が信用されていないからに他ならない。あるいは、特に理由がないのならば、自分の忠告に、少しでもいいから耳を傾けて欲しかった。
「はい、七月五日、午前十時にそちらに伺います。……はい、よろしくお願い致します」
高倉と時間を取り決め、良樹は受話器を静かに置いた。
納得がいかないまま、仕事の話が進んでいくのは何とも気持ちが悪かった。しかし、それが先方の望んでいることであれば仕方がない。「でかい仕事がもらえてラッキー」くらいの気楽な気持ちで仕事に取り組める伊東が、この時ばかりは羨ましく思えた。
冷房が効いたオフィスは肌寒く、良樹はぶるりと身震いした。休憩がてら温かいコーヒーでも飲みに行こうか、と良樹は背広を片手に席を立つ。オフィスに備え付けのコーヒーメーカーの前を素通りし、ガラス扉を開いた。普段はオフィスでコーヒーを淹れるのだが、考え事をしたい時は決まって、砂糖とミルクがたっぷり入った缶コーヒーを飲むのが良樹の常だった。
ベンダーコーナーの自動販売機に小銭を投入しようと、良樹は背広のポケットに手を突っ込んだ。ジャラジャラ、と小銭が手に触れる。それだけではなく、分厚い紙が良樹の指先に触った。首を傾げながら、それを引っ張り出す。
「……名刺?」
それは、松永に連れられて行ったクラブの名刺だった。「クラブ 華」の文字と、店の電話番号、そして、裏に小さく玲の名と携帯番号、メールアドレスが記されていた。
こんなものを受け取った覚えは全くなかった。酔って記憶にないだけかもしれないが、もしかすると玲がこっそり忍び込ませたのかもしれない。千賀子に見つからなくてよかった、と胸を撫で下ろした。
一番甘いカフェオレを購入し、良樹はプルタブをカシリ、と開けた。甘ったるい液体がドロリと口の中に流れ込む。舌全体で感じられるのは砂糖の甘さばかりで、コーヒーの風味はほとんどない。だが、この纏わりつくような甘さが、行き詰まっている時にはよく効くのだ。
『でさ、玲に聞きたいことがあるんだけどさぁ~。マエダ農機のことなんだが』
『なぁに、マエダ農機さんのことって。玲、知らないわ』
不意に良樹の頭の中で、二人の会話がフラッシュバックする。あの日から、一週間が過ぎていた。
玲のことなどすっかり忘れていた良樹だった。が、今思えば、あの時の玲は一瞬、表情を固くした気もする。松永がわざわざ玲に仕事の話をしたのも、よく考えれば不自然だった。
もしかして、彼女、何か知っているのか――?
そう思えば、松永が敢えて良樹たちをクラブに連れて行ったのも合点がいく。松永はしたたかな男だ。決して無駄なことをするような人間ではない。
それならば、もう一度、玲に会いに行ってみる価値はあるかもしれない。
終業時間の五時半まではあと一時間ほどだ。今日だけは適当に言い訳をして、残業から逃げようと決意する。
良樹は空になった缶をダストボックスに放り込み、バサリ、と背広を肩にかけ、名刺をポケットに突っ込んだ。




