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第二章 良樹(5)

 店内はアルコールとサラリーマンたちの汗、そして肉の焼けるにおいが充満していた。お洒落な居酒屋とは程遠く、傾いた木造建物の壁中に煤と油が染みている。松永、伊東、良樹の三人で飲む時は、たいていこの古びた焼き鳥屋と決まっていた。


「変じゃないですか、松永先輩。マエダ農機がA駅みたいな場所に大きな広告を出すなんて」


 ほろ酔い気味の良樹が一息に言い切る。伊東は良樹の言っている意味が分からないらしく、首を傾げ、しきりに唸っていた。


「きっとA駅だけに留まらないと思います。主要な駅の広告はすべて押さえるつもりなのかもしれません。いくら新商品に力を入れてるからって、どう考えてもおかしいですよ」

「榊先輩、どうしてっすか? でかいところに広告出した方が、宣伝効果抜群じゃないっすか」

「これだから若造はぁ。おい、伊東、広告はでかけりゃいいってもんじゃねぇ。なぁ、榊」


 鳥皮を噛み締め、松永が言う。良樹はハイボールで唇を湿らせ、眉間に皺を寄せた。


「A駅を利用するのは通勤する会社員がメインだろう。果たして、会社員が耕運機なんかに興味を示すと思うか? もちろん、駅の利用者の中には農業関係の職種の人間だっているかもしれない。けれども、でかい広告を出すことは、マエダ農機にとってコストパフォーマンスが悪いんだよ」


 伊東はポンと膝を打ち、そうか! と叫んだ。


「要するに、宣伝効果が薄い、ってことっすね!」

「そう。どうせなら農業関係者が多いエリアで広告を出すべきなんだ。同じ予算でもその方が多くの広告を出せる。わざわざ都会の駅で宣伝する必要なんてない」


 良樹の心中は複雑だった。

 マエダ農機のためを思えば、はっきり意見するべきなのだ。しかし、今まで良樹が請け負ってきた仕事の中で、これほどまでに大きな仕事はなかった。やってみたい、という思いが鎌首をもたげる。


「諸刃の剣ってか」

「……え?」


 ちびりと日本酒を舐め、松永が言った。鋭い視線で良樹の両の目を貫く。


「この仕事、当たればでかい。お前の評価はもちろんだが、社の評判も上がるだろうな。だがなぁ……失敗すれば、刃は己の首に振り下ろされることになるぜ」


 ゴクリと喉が鳴る。松永の声は重く、良樹は気圧された。


「でも……相手の会社の売り上げにまで気を配ることないんじゃないっすか? 俺らはただ、言われた通りに広告を作ればいいだけじゃないっすか」

「馬鹿だなぁ、お前は。信用問題ってやつよ。ヒット商品の広告を作った会社、って評判が次の仕事を呼ぶんだ。言われるがまま作ればいいってわけじゃねぇ」


 丸裸になった竹串を串入れに放り込み、松永は砂ずりに手を伸ばす。二、三切れを一気に口に入れ、串から豪快に肉を引き抜いた。


「なんか……ややこしいことになってきちゃったんっすね、榊先輩」


 まぁな、と良樹は嘆息した。締め切りまでにはまだ時間がある。もう少し考えてから答えを出そう。良樹は場の空気を変えるよう、無理矢理笑顔を見せた。


「なんとかするさ。それより伊東、お前、彼女とはあれから進展あったのかよ」

「おぉっ! そうだそうだ、詳しく話せ」

「え、なんっすか。今度は俺っすか⁉︎ やめてくださいよ、先輩ぃ〜」


 年長者二人の圧力に困惑する素振りを見せながらも、伊東はどこかくすぐったそうにしている。

 これはいい知らせが聞けるかもしれない。良樹は伊東のグラスにビールをつぎ、伊東の話に耳を傾けた。





「せんぱぁ〜い、もう一軒行きましょうよぅ〜」


 泥酔した伊東を、両脇から松永と良樹が抱える。通りには伊東のように酔い潰れた男が倒れ込んでいて、同僚たちが困り果てた顔でタクシーを呼んでいた。


「お前……先輩より先に潰れるなんて、論外だぞ」

「まぁいいじゃないか。祝酒ってやつだ」


 伊東の結婚の知らせを聞き、松永も上機嫌に鼻歌を歌っている。どうやら前回のマエダ農機との会議後に、恋人に結婚を申し込んだらしい。彼女はそれを受け、本格的に結婚に向けて準備を進めていく予定だ、とのことだった。


「めでたい! 先輩っ、もっと飲みましょうっ!」


 自分が何を口走っているのか、全く理解できていない伊東の頭を、良樹は軽く叩いた。


「もうやめておけよ、飲み過ぎだ」


 窘める良樹を、松永がまぁまぁ、と宥める。


「もう一軒くらい構わんだろ。なぁに、無茶呑みできるような店じゃねぇ。大人の社交場、ってとこだ」


 松永はニヤリと口の端を歪めた。


「銀座みたいな高級なところ、ってわけにはいかねぇけどな。もうすぐ着くぞ。俺の行きつけのクラブだ。ここは俺の奢りってことにしておくから、心配すんな」


 そう言い、松永は飲み屋街を抜けた先にあるビルを指差した。雑居ビルの看板には居酒屋やバーの店名が連なっていて、その内の一つに「クラブ 華」の文字が見える。黒地に白抜きの文字はあまり目立たず、他の店の看板に比べ、圧倒的に地味だった。


 松永に促され、良樹たちはビルのエレベーターに乗り込んだ。やかましかった伊東はすっかり大人しくなっている。おそらく、睡魔と戦っているに違いない。

 階数表示が三階を示し、チーン、と古くさい音を立てて止まった。エレベーターの扉が開いた先には、黒い扉があり、金文字で店の名前が書かれた看板がぶら下がっていた。松永はその扉を何の躊躇いもなく開ける。


「いらっしゃいませ、松永様」

「おぉ、今日は会社の後輩も連れてきたんだが、空いてるかい」

「ええ、もちろんです」


 黒服を纏ったウエイターが松永を席に案内する。店内はこじんまりとしていて、想像より堅苦しくなく、クラブというよりスナックに近いという印象を抱いた。

 奥から二番目のテーブルに案内された良樹たちは、ワインレッドのソファ席に深く腰掛けた。こういう類の店は、初めてだ。緊張で身を硬くしながら、良樹は店内を見回した。


「おいおい、そんなに緊張すんな。酒飲んで、綺麗なおネェちゃんとお話しするだけの店だ」


 それに、と松永は続ける。


「こういう所では普段聞けない話も聞けるからな」


 それは一体どういうことですか――そう尋ねようとしたが、良樹の問いは甲高い嬌声にかき消された。


「松永さん、いらっしゃい。最近ご無沙汰してたからぁ……玲のこと忘れちゃったのかなって心配しちゃった!」

「玲ちゃ〜ん、すまんかった。ちょっと仕事が忙しくってな」


 玲は甘ったるいで松永にすり寄った。くるりと良樹たちに向き直り、底抜けに明るい声で挨拶をする。


「お連れ様も、ゆっくりしていってくださいねっ。可愛い女の子たちつけますので……っと、そちらの方、眠っちゃったんですかぁ〜?」


 あまり会話したことのないタイプの彼女に、良樹は目を瞬かせた。松永の堂々とした様子から、いかに松永がこの店に通っているのかがよく分かる。

 玲は松永と良樹の間に腰掛け、手際よく酒を作り始めた。透明な氷をグラスに入れ、ウイスキーのボトルの蓋を開ける。その間に、もう一人ホステスがつけられる。新人なのか、玲のように手際はよくない。張り付いた笑顔で玲の話に相槌を打っているだけだった。


「お客様、お名前は? あたし、玲っていうんです」

「あ……榊です。こっちの寝てしまったやつは後輩の伊東です」


 良樹は視線を泳がせながら答えた。玲の緑色のドレスは、胸元が大きく開いている。スカートの丈は踝まで、しかし、右側に深いスリットが入っている。

 松永さんはこういう派手な人が好みなのか。

 どこを見て話せばいいのか分からない。良樹のどぎまぎとした態度に、玲はくすりと笑った。


「榊さん、こういうところ、初めて? もっとリラックスしてよ〜。お話するだけなんだから、ね?」

「あ、はぁ……」


 正直、良樹はこの手の女性が苦手だった。無駄にテンションが高く、きゃらきゃらと馬鹿っぽく笑う。松永に連れてこられたのでなければ、早々に帰っている。

 松永は玲の肩に手を回し、面白おかしく話をしていた。最近の仕事での失敗談、上司に対する愚痴、家族の話等々。


「でさ、玲に聞きたいことがあるんだけどさぁ〜」

「なぁに〜、改まっちゃって。松永さんったら変なの」


 良樹はちびりちびりとグラスを傾ける。玲はゆるく巻いたロングヘアを耳にかけた。


「マエダ農機のことなんだが」


 飄々とした松永の瞳の奥が鋭く光った。

 松永の問いかけに、一瞬玲の表情は固まった。しかし、すぐに口元に手をやり、やだぁと笑った。


「松永さんったら、なぁに、マエダ農機さんのことって。玲、知らないわ」

「そうですよ、松永さん、彼女にそんなこと……。すみません、玲さん」


 良樹は慌てて玲に謝った。松永は酔って口を滑らせただけに違いない。玲にマエダ農機のことを尋ねたところで、彼女が内情など知るわけないのだ。

 松永は、ふぅん、と何やら不満げな声を漏らす。


「まぁ、急ぎの話でもないから構わないが……な」


 ぐぅぐぅと良樹の隣で呑気に寝息を立てている伊東が小さく身動ぎした。何かいい夢でも見ているのか、その顔には薄っすら笑みが浮かんでいる。


「そういえばぁ、松永さん」


 その場の空気を変えるように、玲がわざとらしく手を叩く。


「今度ぉ、学生時代の友達と温泉に行こうって計画してるんですけど、松永さんはどこがオススメですかぁ?」

「お、温泉か。そうだなぁ……」


 松永と玲は何事もなかったかのように、旅行の話に花を咲かせた。


 今のやり取りは一体なんだったんだ――?


 良樹の疑問だけがその場に置いてけぼりになる。松永の口振りでは玲が何かを知っている風だったが、一方の玲は知らぬ存ぜぬの態度を貫いている。玲が嘘をついているのか、そうでないのかは定かではないが、良樹には――失礼な物言いにはなるが――玲がビジネスの類に精通しているとは到底思えなかった。特に、今回の件は、松永や良樹でさえも疑問に思っていることだ。一介のホステスである玲が何かを知っているとは考えにくかった。

 黙り込んで考え込む良樹に、玲がそっとしなだれかかる。


「榊さん、どうされたんですか? お酒のペース、落ちてますよ」


 玲はスッと良樹の手から、酒の入ったグラスを取る。そして、空いてしまった手にレモンの浮かんだ水が入ったグラスを持たせた。


「本当はたぁくさん飲んで行って欲しいんですけど……いい飲み方をしなきゃ、お酒は楽しくないですもんね」


 自分も少々飲みすぎたのかもしれない。良樹の瞼はどろりと重みを増し、両手両足はじんわりと熱を帯びてきていた。

 爽やかなレモンの黄色がゆらゆらと水中を揺蕩う。仄暗い店内で、その黄色だけが良樹と現実を繋いでいてくれるような心地がした。


「あぁ……本当ですね、飲みすぎたのかもしれません」


 玲の真っ赤なルージュが艶めいている。良樹はグラスを口元に近づけ、レモンの香りを胸いっぱいに吸い込むと、冷たい水をゴクリと飲み干した。

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