第二章 良樹(4)
自分の理想の家庭像は、と問われた時、良樹はすかさずこう答える。
灯りの灯っている家庭、と。
良樹の父・隆次は田舎で小さな整骨院を営んでいた。片側三車線の広い国道から脇道に入り、すこし入り組んだ小道を抜けた先に榊整骨院はある。この辺りには、ここ以外に整骨院はないせいか、立地は悪いにも関わらず、比較的繁盛していた。隆次は榊整骨院の二代目だ。良樹の兄・春隆が次期院長として整骨院を継ぐことになっている。良樹は好きに進路を選ぶことができた。
母・良美は隆次を支え、整骨院で受付と患者応対全般を行っていた。豪快であけすけな性格が患者には評判が良く、治療目的だけではなく、良美と話すことを目的に来院する患者もいた。たいてい、そういう患者は高齢者ばかりで、整骨院の待合室はさながら老人会の集会だ。治療が終わっても長居する患者もいたが、混み合ってこない限り、隆次も良美もさして咎めることはなかった。
自宅と整骨院は遠くはないが、やや離れていて、二人は十分ほどかけて、自転車で通勤していた。車で走るほどの距離でもなかったし、駐車場も数台止められる程度の敷地しかなかったため、隆次たちが車を利用するわけにはいかなかったのだ。二人は毎朝早く出かけ、毎晩遅くに帰ってきた。
どちらかと言えば、かなり贅沢な生活をしていたと思う。
贅沢、と言っても毎日豪華な料理が出てきたわけでもなければ、とびきり高いブランドのものに身を包んでいたわけではない。ただ、欲しい物はいつでも手に入れることができた。小学生だった当時、ブームだったスニーカーも、文房具も、ゲームも――周りの流行に乗り遅れることはなかった。
不自由ではなかったが、だからと言って満たされていたわけではなかった。
自分の首には、いつも家の鍵がぶら下がっていた。兄は青い紐に、良樹は緑の紐に、それぞれ鍵をぶら下げ、肌身離さず持っていた。
良樹より五つ年上の兄もまた忙しく、帰宅した後、制服を着替えてから、塾に行くのが日課だった。放課後友人と遊び、五時に帰宅してから、両親が帰ってくる八時までの間、良樹は一人だ。
「ただいま!」
玄関でそう叫んでも誰もいない。とぼとぼと薄ら寒い廊下を歩き、暗い居間に灯りを灯す。
『温めてから食べて下さい。冷蔵庫にもおかずが入っています。食器は流しへ 母』
短い書き置きは毎度同じ内容だ。良樹は母の指示通りに電子レンジに皿を放り込み、あたためボタンを押す。
「お父ん。お母んに家にいてもらえんのか。仕事なんか誰かに手伝うてもらえばええやん」
一度、隆次に頼み込んだことがあった。「おかえり」の返事が返ってくる家が羨ましかった。温かい夕食が並ぶ食卓に憧れた。
「何言うてんの、良樹! 母さんが手伝えば済む話なんやから! あんたは父さんの仕事の心配らせんでええの!」
台所で洗い物をしていた良美が振り向かずに言う。隆次にしか聞こえないよう、小さな声で話したつもりだったが、整骨院の待合室で培われた良美の地獄耳は、良樹の言葉を聞き逃さなかった。
「せやなぁ……、母さんもああ言うてることやし、大丈夫なんちゃうか」
隆次の返答はしどろもどろで頼りなかった。そんな父の態度に腹が立つ。
男なら、ガツンと言うたらなあかんわ。お母んの尻に敷かれっぱなしで、何や、情けない。
自分が大人になり、家庭を持つ時、こんな親にはならないようにしよう。良樹はその時誓ったのだ。
両親が嫌いなわけではない。むしろ心から愛しているし、感謝もしている。だが、愛しているからといって、同じ所を目指すというのは違う。
俺は「おかえり」の返ってくる家庭を作りたい――。
良樹の願いは単純だが、あまりにも純粋すぎるものだった。
*
社内の空調はやや効き過ぎていて、窓の外の雨空と相まって、余計に寒々しく感じられた。六月に入り、本格的な梅雨を迎えていた。湿気がスーツに絡みつき、肩が重い。空気の密度が増している。
良樹はノートパソコンを閉じ、長時間の作業で疲れた目をぐっと押さえた。手の平の温もりが、乾いた目に心地良い。良樹はホットコーヒーを口元に近づけ、香ばしい香りを堪能する。
デスクの上は散らかっていた。マエダ農機の新商品に関する資料がうず高く積み上げられていて、向かいのデスクに座っているはずの同僚の顔は隠れてしまっていた。カタカタとキーボードを叩く音の合間に、時折電話のコール音が響く。電話を取るのは一年目の社員の役目だ。ぎこちない応対をする新人の声が、しんとしたオフィスでやけに大きく聞こえた。
「あ、あの、榊先輩、お電話です」
「誰から? ちゃんと電話相手の名前と要件の概要、聞いたのか?」
「は、はいっ! えぇっと……マエダ農機の高倉様からで……新商品の広告案について、確認したいことがあるとのことで……」
新人の女子社員は、新しいスーツのポケットから電話の内容をメモした紙を取り出し、初々しい口調で読み上げた。良樹はそれを見て、首を縦に振る。できていなければ厳しく叱るところだが、できているのであれば問題ない。良樹自身も、松永にそう教育されてきた。良樹に落ち度がある時は、鬼の形相をした松永にこっぴどく叱られたものだ。しかし、言われたことをきちんと守って仕事に取り組んでいれば、松永はこちらが恥ずかしくなるほどの勢いで褒めちぎった。
「分かった、取り次ぎありがとう。ちゃんとできているんだから、もっと自信持っていいぞ」
「あ……ありがとうございます! 榊先輩!」
俯き加減だった彼女は頬を真っ赤にして、一礼した。良樹が電話を取ったことを確認し、自分のデスクへと戻っていく。
「お待たせいたしました、担当の榊です。……はい、はい」
良樹はデスクの引き出しから大判の手帳を取り出す。しおりを挟んでいたページをめくり、六月のカレンダーを広げた。受話器を器用に耳と肩の間に挟み、手探りでボールペンを探す。
「はい……今月中にもう一度伺います。ええ、最終決定案をお持ちして。A駅構内にも広告を出したい……ですか。はい、ではそちらの案もその時お持ち致します。はい」
黒い革張りの手帳に走り書きをする。この手帳カバーは新婚当初、千賀子が良樹の誕生日にプレゼントしてくれたものだった。手帳の中身は毎年入れ替えているが、この手帳カバーは変わらない。初めは滑らかだったカバーの手触りも、年季が入り、少しざらついてきている。それは良樹の手にとてもよく馴染んだ。
高倉はマエダ農機の広報部社員だ。高倉とは何度か仕事をしたこともあり、全く知らない相手ではなかった。高倉が言うには、例の新商品の広告を、A駅構内の掲示板で展開したいとのことだ。A駅は在来線だけではなく、新幹線も通っている。人の行き来も激しい大きな駅で、宣伝効果も高く、それゆえに広告料も当然高い。
A駅に広告を出したい、か。でも――。
「おい、さ~か~き~。聞いてんのか」
後ろから肩を叩かれ、良樹の意識は引き戻された。背後には松永と伊東が怪訝な顔をして立っている。
「榊先輩、どっか飛んでっちゃってましたよ。仕事中にどうしたんっすか」
「何度も呼んだのに気付きやしない。どうしたんだ、お前」
良樹はパタパタと手を振り、何でもない、と小さく答えた。
「マエダ農機さんからの電話で……。ちょっとまた仕事が入ってしまったんですよ。それで、考え込んでいただけです」
松永はふぅん、と呟き、目を細めた。ポンと一つ手を叩き、ニカッと笑う。
「それより、榊。今日は暇か? 伊東と一杯行こうって話になってな。榊もどうかと思って」
「榊先輩~、行きましょうよ~!」
猫なで声で、伊東が手を揉む。先輩の財布に甘える気満々でいることが丸分かりだ。良樹は悪戯っぽく笑い、自分の財布の中身をわざとらしく確認した。
「あ~、今日は手持ちが少ないからなぁ。ワリカンならいいぞ、伊東」
伊東はその瞬間、ひっと青ざめ、自分の財布を確認し始めた。
「はははっ、冗談だよ、伊東。松永先輩、今日もいつもの所でいいですか? 何なら俺、予約しておきますよ」
「いや、いい。それは伊東の役目だ。おい、伊東、七時半に店、押さえておけ!」
冷や汗を拭い、伊東はビシッと敬礼のポーズを取った。コミカルな動きに、つい吹き出してしまう。
「了解っす! 俺、今から電話してきますっ!」
スマートフォン片手にオフィスを飛び出す伊東の背を眺めながら、松永がため息をついた。口をすぼめ、ガシガシと頭を掻く。
「あいつ……今は就業時間だって分かってんのかねぇ。トイレ行くついでに電話するとかさ、もうちょっと上手くやれっての」
後でしめてやらなきゃな、と松永は何やら物騒なことを呟いた。
「先輩、それ、人のこと言えませんよ。先輩だって、就業時間中に飲み会の誘いだなんて。伊東に突っ込まれますよ」
良樹は苦笑いしながら指摘する。松永は目を丸くし、ポカンと口を開けた。
「……それもそうだな、違いない。一本取られたな」
松永は少年のように、無邪気に笑うと、ポンポンと良樹の肩を二度叩いた。




