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第二章 良樹(3)

「動物園前駅まで、だよな。俺が切符買ってくるよ」


 駅に着いた良樹たちは、券売機の前で路線図に目をやる。動物園前駅の表示を見つけ、運賃を確認すると、良樹は券売機から少し離れた場所に千賀子たちを待たせ、切符を買いに向かった。


 ゴールデンウィークも終わり、人出も少しは減っているのではないかと思っていたが、その見通しは甘かったようだ。気候のいい五月中旬、家族連れ、学生グループやカップルで駅はごった返していた。雑踏の中、ベビーカーを押しながら人にぶつからないよう歩くのは困難を極めた。

 目的地へと向かう電車に乗り込み、良樹はほっと胸を撫で下ろす。ここまで来るのに随分と時間がかかってしまった。動物園の開演時間である十時はとっくに過ぎていた。

 車窓の外の景色は飛ぶように流れていった。眩しい緑が日常の喧騒を忘れさせる。初夏の香りが満ちた景色から、良樹は隣に立っている千賀子へとゆっくりと視線を移した。


 千賀子は薄くファンデーションを塗っただけの、簡単なメイクしかしていない。服装も長袖の白いTシャツにスキニージーンズ、スニーカーといった色気のないものだ。以前の千賀子であれば、メイクも完璧に決め、シンプルながらも洒落た服で出かけたはずだ。近所のコンビニに行く時でさえ、お洒落に気を抜いたことはなかった。

 そんな千賀子に、良樹は問いかけてみたことがある。近場に行くだけなのに、どうしてそんなに外見にこだわるのか、と。ジャージにサンダルをつっかけて買い物に行く良樹から見れば、千賀子のこだわりは理解ができなかったのだ。


「だって、綺麗な私が隣で歩いている方が、良樹さんだって自慢できるでしょう?」


 千賀子は頬を染め、そう答えた。その時の千賀子を、どれほど愛おしいと思ったことだろうか。千賀子が美しくあろうとしてくれているのは、自分のためなのだ、と世界中に自慢したい気分だった。


 その頃に比べ、今の千賀子はあまりにも輝きを失っていた。背筋をぴんと伸ばし、真っ直ぐ前を見て歩く千賀子の姿に惚れ込んだはずだった。

 今の彼女はそうではない。常に背を丸め、道路の隅を申し訳なさそうに歩く千賀子。美しい顔で、自分と肩を並べて歩いてくれていた彼女はどこにもいない。

 千賀子のことは、今も出会った頃と変わらず、心の底から愛していると言うことができる。その気持ちに嘘など微塵もない。だが、女性としての千賀子が影になり、母親としての千賀子が表に現れてくるにつれ、寂しさばかりが募ってくる。


 女性と母親の両面を求めるのは――そんなに酷なことなんだろうか?


 千賀子には女性であり、母親であって欲しいのだ。そのどちらかが優位であってもいけない。どちらも同じだけ、千賀子の本質であることを望んでいた。


 もうすぐ降車駅に到着する。千賀子は目を覚ました亮に麦茶を飲ませてやっていた。鞄から青いチェック柄の帽子を取り出し、亮の小さな頭にかぶせる。クマの耳がついていて、子供服屋で千賀子が一目惚れして買った帽子だ。


「亮、お外は暑いですから、お帽子をかぶりましょうね」


 千賀子は優しげな声色で亮に語りかけ、亮と視線を合わせるようにしゃがみ込んだ。良樹は立ったまま、千賀子の後頭部を一瞥する。

 昔は手入れの行き届いていた髪は傷みきっていて、細く裂けた枝毛が嫌でも目についた。





「動物園なんて何年ぶりだろうな。亮も喜んでるみたいだったし、来てよかったよ」

「リニューアルしたばかりみたいだったわね。キッズスペースも多くて、本当に助かったわ」


 閉園時間である夕方五時ギリギリまで、良樹たちは園内で過ごした。動物園は一部リニューアルされたばかりのようで、古い動物舎の中にちらほら新しい建物が混じっていた。

 亮は初めて目にする動物たちを見て、驚きと戸惑い、興味の入り交じった眼差しで周囲を見回していた。ベビーカーの中で昼寝をすることもできたようで、特に困ったことも起こらず、良樹たちも十分動物を見る余裕があった。


「それより、晩飯、ここでよかったのか? チェーン店の居酒屋なんかで。もっと美味い店、探してもよかったんじゃないのか」


 駅前にある居酒屋のテーブル席で、良樹はスマートフォンを手にする。インターネットで検索すれば、この界隈の有名店などすぐに調べることができた。


「いいのよ、あまり人気のお店は入りづらいじゃないの。これくらい賑やかなお店の方が、気が楽だわ」


 千賀子はウーロン茶で唇を湿らせた後、サラダの大皿から良樹と自分の分を、小皿に取り分けた。疲れ果てた亮は、千賀子の横ですやすやと眠っている。座布団に大判のタオルを敷けば、簡単な布団になる。千賀子は少しずれたブランケットを、亮の体にかけ直した。


「なんだかさ、二人でゆっくり飯食うなんて久しぶりだな」


 店に入る前に、亮にはたっぷりのミルクを飲ませてある。当分は目を覚ますことはないだろう。

 誰にも邪魔されずに千賀子との時間を過ごすことができる。良樹にはそれが嬉しかった。

 できることならこれを機に、互いに思っていることを包み隠さず話し合いたい。そして、少しでも結婚した当初の気持ちを呼び起こすことができれば――。

 良樹はサラダの盛られた小皿を受け取り、思い切って口を開いた。


「俺はさ、仕事ばっかりでなかなか家のことも手伝ってやれなくて……千賀子には悪いと思ってる」


 唐突な話の切り出しに、千賀子は目を丸くした。


「どうしたの、良樹さん。急にそんなこと言い出すなんて」

「いいから聞いてくれよ。亮のことだって……どうして泣いてるのかなんて分からないし、どうやって接したらいいのかさえも分かってない」


 真剣な良樹の言葉に、千賀子は唇を引き結んだ。良樹の目を真っ直ぐ見つめ、最後まで一言一句聞き逃すまいと耳を傾ける。


「だから、思っていることがあれば言って欲しいんだ。困っていることでも……何でもいい」

「別に私、思っていることなんて何も……」

「駄目だ。いつも千賀子はそうだから。そうやって最後まで一人で我慢するんだ。言ってくれよ、俺、言われなきゃ分からないんだよ」


 察してやることができればいい、そう思う。千賀子の顔色や口調から、千賀子の思いを汲み取ることができるのが一番だ。だが、自分がそこまで器用な人間ではないということを、良樹は知っていた。


「わたし……」


 千賀子が伏し目がちに言う。話しづらいのか、なかなか続く言葉は紡がれない。 カラリ、とコップの中の氷が音を立てて崩れる。良樹のビールはすっかり気が抜けていた。


「私、亮を保育園に通わせて……パートで働きたいと思っているの」


 え、と良樹は呻いた。幼い頃の記憶が蘇る。


 肌身離さず、首にぶら下げていた家の鍵。灯りのついていない居間。走り書きのメモ。ちゃぶ台の上の冷え切った夕食。


「保育園の一斉入園者募集が十一月にあるの。それまでに働き口を見つけて、書類を整えたいの」


 千賀子は青ざめた良樹の異変に気づかず、淡々と事務的な口調で語り続けた。


「保育園の月謝もバカにならないから……そんなに家計に貢献できる、ってわけじゃないけれど。月々、亮の口座に少しくらいなら貯金してあげられると思うわ」

「どうして……」

「どうしてって、亮のために……」

「そうじゃなくて!」


 バンッ、と良樹はテーブルを叩く。箸置きの上の箸が、振動でコロコロと転がり落ちた。


「良樹さん、お箸が……」

「箸なんてどうでもいい! そうじゃなくて、俺の稼ぎじゃ足りないのか⁉︎ そりゃ確かに贅沢できるほどの稼ぎはないけれど、それでも、生活に不自由しない程度の金は入れてるはずだろ⁉︎」

「そんなこと言ってないわ。ただ、少しでも亮に……」


 千賀子はなぜ良樹が怒っているのか、分からないといった様子で目を見開いた。


「亮はまだ四ヶ月だぞ⁉︎ 来年の四月でもまだ一歳三ヶ月じゃないか。甘えたい盛りの子供をあずけて……可哀想だと思わないのか⁉︎」


 千賀子はふと俯き、唇を噛んだ。


 ――しまった、言い過ぎた。


 今にも泣きそうなほど唇を震わせている千賀子に、良樹は優しい言葉をかけた。


「千賀の気持ちは分かる。亮のためだっていうことは痛いほど。……でも、子供には母親が必要なんだよ。俺、もっと仕事頑張るから。そう、今でかい仕事を任されててさ、うまくいけば社内の俺の評価だって上がると思う。そうすれば、きっとボーナスにも反映されるんじゃないかな」


 金の心配など、妻にはさせたくないのだ。ごくごく一般的な生活に、ほんのたまに贅沢ができる程度の収入はあるつもりだ。


「千賀は金の心配なんてしなくていいんだ。亮のことだけを考えてやってくれ……頼む」


 良樹はテーブル越しに頭を下げた。ぐすっ、と鼻をすする音が聞こえる。

 泣いていのだろうか。だが、この角度からは涙の滴は見てとれなかった。


「……分かりました。もう言わないわ」


 くぐもった千賀子の声に、良樹は顔を上げた。目元が赤いが、涙は流れていない。千賀子の顔を見て、良樹は安堵した。


「良樹さん、グラスが空きそうだわ……。飲み物を注文しましょうか」

「あ、ああ。千賀も何でも頼めよ!」


 いつも通りの千賀子だ。いつも通りの――。


 良樹はグッとグラスの底に残ったビールを飲み干した。

 炭酸の抜けたビールはのどごしが悪く、いつまでも喉の奥に苦味が張り付いているような気がしてならなかった。

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