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第二章 良樹(2)

 朝五時に設定している目覚まし時計のアラームが、今日は鳴らない。最近はろくに取れていなかった睡眠を、これでもかと言うくらい満喫した。


 昨夜は少し飲み過ぎてしまったようだ。仕事も一つの区切りを迎え、松永との話に花が咲いた。あの後、話題は伊東のフィアンセの話になり、それから会社の部署の女性陣の話になり……後はよくある与太話ばかりだった。若い頃は難なく飲めていた酒の量も、年齢のせいか体にこたえていた。もう思っているほど若くはないのかもしれない、と苦笑いする。

 良樹は朦朧とした意識の中、枕元のスマートフォンに手を伸ばした。ロック画面に大きく表示されている時計は八時三十七分を示している。さすがにこれ以上寝れば体が怠くなる。それにきっと千賀子に怒られる。以前は千賀子と一つのベッドを分け合っていたが、今は一人だ。寝過ごしそうになる良樹を隣で優しく揺り起こしてくれた千賀子を懐かしみながら、良樹は渋々掛け布団を引き剥がした。


「頭、痛ぇ……」


 心臓の音に合わせ、ドクドクと脈打つように痛みが襲い来る。よく歯磨きをしてから眠ったはずなのに、口からは酒の臭いがした。

 千賀子に嫌な顔される前に、一風呂浴びるか。

 良樹はガシガシと頭を掻きながら、風呂場へと向かった。




 風呂から上がり、リビングに入る。ソファでは千賀子が亮にミルクを飲ませているところだった。近頃は暑くなってきたせいか、千賀子は黒いタンクトップにジーンズという出で立ちだ。化粧っ気のない顔に浮かんだ笑顔は作り物めいて見えた。


「良樹さん、おはよう。昨日も遅かったのね。朝食はテーブルの上に用意してあるから食べてくださいね」

「ああ、悪いな」


 良樹は席につき、朝食の皿にかけられていた布巾を取った。ハムエッグとミニトマト、トーストにコーヒーという簡単な朝食だったが、最近では休日の朝は手作りの食事が出てくる。平日は良樹の方が朝は早い。コンビニのパンやおにぎり、時折駅構内の立ち食い蕎麦屋で朝食を済ませるようにしていた。簡素なものであっても、やはり手作りのものは嬉しい。良樹はブラックコーヒーを啜った。


「続いて、今朝のピックアップです……」


 ニュースキャスターの声と、ミルクを飲む亮の息遣いだけが響く。良樹と千賀子の間に会話はなかった。

 千賀子は千賀子なりに忙しいのは分かっている。けれども、どうしても昔と比較してしまい、良樹の表情は自然と固くなる。


 お仕事大変なの? くらい聞いてくれてもいいじゃないか。


 以前の千賀子ならそうしたはずだ。その一言をきっかけに仕事の愚痴を言うことができた。千賀子に愚痴を聞いてもらった後は、またいつも通り、リフレッシュした気分で仕事に臨むことができるのだ。


「はい、亮、ごちそうさまね。たくさん飲んだね」


 空になった哺乳瓶を片手に千賀子が微笑む。その瞳には亮しか映っていない。

 どれほど家族のためだと懸命に働いたところで、亮にとっては母親が一番なのだ。男はいつだって蚊帳の外なのかもしれない。そう思うと、自分の人生に虚しさすら感じてしまうのだった。


「良樹さんも、早く食べてしまって下さいね。洗い物が残っているんですから」


 良樹の顔も見ず、千賀子が言い放つ。その言い方に、つい棘のある言葉が飛び出した。


「疲れてるんだから、朝メシくらいゆっくり食べさせてくれよ」


 しまった、と直後に口をつぐむ。恐る恐る千賀子の顔色を伺ったが、千賀子の表情は能面と見紛うくらい無表情で、薄気味悪かった。


「……そう、ごめんなさい。ゆっくり食べてくださいね」

「あ、あぁ……」


 良樹はハムエッグを口に押し込んだ。何もつけずに食べたハムエッグは味気ない。目玉焼きにかけるのは醤油か、ソースか、と千賀子と言い争ったのは付き合い始めの頃だったか。


 一体自分は何に怯えているんだろう。 

 亮の誕生をきっかけに変わってしまった家族の関係に? 千賀子の態度に?

 このままではいけない。自分までもがつられて変わってしまえば、家族の崩壊は止められなくなってしまう。何としても繋ぎ止めなくては。家族の形を築き直さなければ。


「な、なぁ、千賀子。今日は天気もいいことだし、三人でどこか出かけないか?」

「なぁに、どうしたの、急に」

「そうだ、遊園地なんてどうだ? いや、遊園地はまだ亮には早過ぎるか……。動物園にするか。うん、それがいいな」


 良樹はペラペラとまくし立てる。千賀子は何か言いたげにしていたが、構っていられない。


 そうだ、これが家族サービスってやつなんだ。


 良樹は急いで朝食を食べ終えた。身支度をするために、勢いよく立ち上がる。


「さぁ、準備しようぜ。早く行かなきゃ混むだろう?」

「待って、良樹さん。まだ片付けも……」


 良樹は片手を上げ、千賀子の言葉を制する。


「片付けなんて、帰ってきてからすればいいじゃないか。汚れた皿は水に浸しておけばいいだろう」


 それに、と良樹は言葉を続けた。


「いつも千賀子は頑張ってくれているんだし、今日は外で美味いものでも食いに行こう。亮はミルクがあれば充分なんだから」


 自分が腐ってはいけない。変わってしまった千賀子も、幼い亮も受け入れ、愛さなければいけないのだ。

 俺は父親なんだ。家族を支え、導いていかなきゃいけないんだ。いつまでも子供じみた感情に振り回されないよう、強くなろう。

 良樹は千賀子の肩にそっと触れた。


「……分かりました。良樹さん、先に支度してて下さい。私は亮の支度を先にしますから。入れ替わりで私も準備しますね」


 千賀子は良樹の手を静かに解き、亮の衣装ケースから余所行き用の服を取り出す。


 俺のことは――どうでもいいのか。


 閉じたはずの心の扉の隙間から嫉妬心が漏れ出る。良樹はそれを無理矢理奥へねじ込み、亮に向かってとびきりの笑顔を作ってみせた。




 ベビーカーに亮を載せ、良樹たちはマンションを出た。

 子供のための荷物がほとんどを占めている。ベビーカーに吊り下げているマザーズバックははち切れんばかりに膨らんでいて、バッグの重みでベビーカーが倒れそうになるほどだ。


「こんなに何が入ってるんだ?」


 てっきりミルクとオムツさえあればいいと思っていた良樹だ。純粋な疑問だった。


「哺乳瓶の替えとミルク用のお湯、亮のお茶、着替えと……あとは抱っこ紐、ガーゼハンカチ、ウエットティッシュ、オムツ用のポリ袋に……」

「あぁ……もういい、聞いた俺が間違ってた」


 想像以上に荷物が必要だということを知り、良樹はお手上げだ、という風に両手を広げた。

 最寄り駅までは徒歩で向かう。バスを使ってもよかったが、この辺りの路線は利用者が多い。近くのバス停からでは座ることはおろか、ベビーカーを載せることさえもできないだろう。ベビーカーを畳んだところで、混み合った車内、亮を抱き、荷物を抱えることは不可能だ。幸い、駅までは少々遠いが、歩いていけない距離ではない。良樹はそれでもバスを利用しようとしたのだが、千賀子はバスに乗るのは絶対に嫌だ、と拒んだ。


「どんなに謝ったって、やっぱり子供連れを迷惑だって思う人はいるでしょう? 私だって、子供が産まれる前は迷惑だなぁ、って思うことがあったもの」

「でも、そんなこと言ったって仕方ないじゃないか。ベビーカーも荷物も必要なんだからさ」


 良樹の言葉に、千賀子は小さく首を振った。


「いいのよ、歩いていけるなら歩けばいいじゃない。ほんの少し、私たちが我慢すればいいんだから。どうしても、って時はちゃんとバスにも乗ってるわよ? 予防接種で病院に行く時とか……。子供が大きくなるまでの辛抱だわ」


 広い歩道を千賀子と亮と、並んで歩いた。こんな風にゆっくりと千賀子と会話をするのは久しぶりだ。それだけで、荒れた心が潤っていく気がした。

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