第二章 良樹(1)
照明を落とされた部屋の中、スクリーンが仄白く光っている。映し出されているのは二枚の大型耕運機の写真だ。小さな赤いポインターの点が二つを交互に指していた。
「今回、御社より発売される新製品の広告、A案とB案がこちらになります」
スクリーン脇の壇上で、良樹は取引先相手の担当に説明した。
何やら小難しい顔をした中年の男たちは、良樹が示した映像を食い入るように見つめている。会議室には十五人程が集まっていたが、その中で良樹側の人間は良樹を含めて三人だけだ。良樹はカチリ、とポインタをクリックし、次のスライドへと移る。
「弊社が提案致します広告のコンセプトはよりパワフルに、より繊細に、でありまして……」
良樹にとってプレゼンテーションは慣れたものであったが、今日の相手はいつもとは違う。良樹が受け持っている取引先の中でも大口の相手であるだけに、失敗は許されないという思いが募る。完全なアウェーの状態の中、じわりと嫌な汗が滲み出るのを感じた。
会議の二時間前に遡る。良樹は定食屋で豚の生姜焼き定食を頬張っていた。
「そういえば、先輩、赤ちゃん産まれたんっすよね。どうなんすか、子育て。仕事バリバリ人間の先輩が赤ちゃんあやしてるって、想像つかないっすよ」
良樹の右隣で天ぷら蕎麦をつつきながら、後輩の伊東が尋ねた。
昨年、この会社に入社したばかりの新人社員だ。ニヤけ面と軽い口調が少々かんに触るが、同期の社員の中ではトップクラスの業績を誇っていて、良樹はそんな伊東を純粋に、高く評価していた。
「あー、もう四ヶ月になるかな。ほとんど仕事で構ってやれてないけど。まぁ、可愛いよ、自分の子供だもんな」
「その気持ち、よぉ〜く分かるぞ、榊。俺も仕事でクタクタだけど、休みの日に子供から『パパ、遊ぼ』なんて言われちゃうとさぁ、何して遊んでやろうかばかり考えちゃうんだよなぁ」
テーブルの向かいに座っていた上司の松永が大きく頷いた。
良樹が入社した当初からの付き合いで、電話応対の仕方から取引先相手の特徴など、この業界のいろはを一から良樹に叩き込んでくれた恩人でもある。良樹よりも八年先輩の松永は部長からの信頼も厚く、次期部長候補と呼び声が高い。
「松永先輩のところは女の子でしたっけ?」
「あぁ、来月三歳。可愛い盛りでさぁ」
松永は緩みまくった顔を隠そうともせず、胸ポケットからスマートフォンを取り出した。写真フォルダは愛娘の笑顔でいっぱいだ。松永は何百枚もある写真の中から、特に一押しの写真をピックアップしては良樹たちに見せびらかした。
「本当、可愛らしいですね、娘さん」
良樹は素直にそう答えた。写真から伝わってくるのは松永の深い愛情だ。娘の成長、一瞬一瞬を見逃すまいとする松永の思いが詰まっていた。
正直、良樹はあまり子供のことがよく分からずにいた。可愛いとは思うのだが、ただそれだけだった。
父親としての自覚が未だに芽生えてこないことに焦りを感じ、なんとか父親らしく振舞おうとしても、うまくいかない。生後四ヶ月の子供に意思表示ができるわけもなく、自分がしていることが子供を喜ばせているのかそうでないのか、それさえも分からない。
何をしても空回っている気がしてしまい、結局は千賀子に全てを任せきりになっている自分がいた。自分が余計な手出しをするより、千賀子に任せてしまう方が効率が良いのだ。
その分、外で仕事に励み、一円でも多く稼ぎ出すことが自分にできる唯一のことだと考えていた。
今は分からない子供の可愛さも、もう少し亮が成長したら違って見えてくるのかもしれない。嬉しそうに娘の話をする松永を見て、ほんの少し、希望を持ってみようという気になれた。
「それより、伊東はどうなんだよ、結婚。確か五年付き合ってる彼女がいるんじゃなかったのか?」
伊東は自分に話を振られるとは思っていなかったのか、啜った蕎麦にむせこんだ。近くにあったお冷やを飲み、胸元を叩くその顔は真っ赤になっている。
「なんっすか、松永先輩、急に!」
「いや、子供の話なんてするからさぁ。結婚のことでも考え始めたのかと思って」
松永はしれっとした調子で答え、小皿の漬物をぽりぽりと嚙みしめる。
「まぁ……多少は……それもあるんっすけど……」
歯切れの悪い言葉に、松永は眉をしかめる。先刻までの余裕ぶった伊東の態度は一変し、叱られた犬のようにしょげかえっていた。
「どっちでも構わないが、あんまり女を待たせるもんじゃないぞ」
「いや、なんていうか……結婚はしたいんっすけど……彼女が子供はまだ早いかなって。彼女、仕事でやりたいこともあるからって」
あぁ、まぁな……と松永は小さく息を吐く。
「確かに、子育てに縛られることも多いよな。ウチはカミさんがしっかりしてるからなんとかなってるけどよ。俺一人じゃあ、どうにもならんだろうな」
松永はそう言うと、カラカラと笑った。
「授かったら、その時はその時だ。あんまり難しく考えるな」
良樹も松永の言葉に静かに頷く。
自分も深く考えすぎなのかもしれない。伊東に向けられた言葉だったが、良樹の心にもそれは強く響いた。
千賀子は賢く、真面目で誠実な女だ。家のことは千賀子に一任しておけば間違いない。
「そう……そうっすよね。彼女にも言ってみます、今の言葉」
伊東は松永に勇気づけられたのか、幾分か普段の調子に戻りつつある。赤みがさした頬は若々しさに溢れていた。
「おぅ、ほら、さっさと食っちまえ。マエダ農機のプレゼン時間に間に合わんぞ」
良樹と伊東はハッと腕時計を見やり、急いで昼食をかきこんだ。
「あぁ、榊くん。A案というのはどちらだったかな」
プレゼンテーションを終えた直後、会議室の最後列に座っていたごま塩頭の男が尋ねた。その低い声色に良樹は居住まいを正す。質問をした男はマエダ農機の広報部長だ。
「はい、A案はこちらになります」
良樹はスライドを巻き戻し、A案の画像を指した。
新製品の耕運機に乗った若者が、爽やかな笑顔を浮かべながら畑を耕している画像だ。画像の上部には「よりパワフルに、より繊細に」とのキャッチコピーが大きな文字で描かれている。
「そのA案で、今人気の俳優を起用しようと思うんだが。その方向で話を進めたいと思っている」
一旦持ち帰り、部署で話し合うといったことは、この会社――マエダ農機ではしない。いつも部長が直感で決めてしまうのだ。それもこの会社の「癖」であり、良樹が松永から叩き込まれた特徴の一つだった。
普通なら急な話に戸惑うものだが、良樹はそのまま話を進めていく。
「それでは、こちらの案の方で決定ということで……」
それから先は、とんとん拍子で話がまとまっていった。
プレゼンテーションの最中に感じていた緊張が、嘘のようにほぐれていく。完全に広告が完成し、それが世に出回るまで油断は禁物であるが、それでもやはり一つの大きな関門を突破することができたという安堵の気持ちは隠せない。良樹は誰からも見えないよう、壇の下で小さくガッツポーズをした。
こうしてまた一つ、良樹は大きな仕事を勝ち取った。社会人としての自信だけではなく、父親としての自信が良樹を奮い立たせる。
仕事のできる父の背は、きっと亮の真っさらな心に何かしらの変化を与えることができる。日々の生活の中、仕事に追われ、子供に関われない自分でも、亮のためにできることはあるのだと――ただそれだけを思った。
「それじゃあ、ひとまずは今日の成功を祝しまして……乾杯!」
週末の居酒屋の混み具合は生半可なものではなかった。団体でひしめき合う中、良樹は松永と二人、カウンターでビールのグラスを持ち上げる。五月ともなれば、額が汗ばむ季節だ。二人は冷えたビールを一気に飲み干し、空のグラスをテーブルに置いた。良樹がすかさず松永のグラスにビールを注ぐ。
「いやぁ、デカい仕事の後の酒は格別だな。榊もよくやった。マエダの広報部長もお前の案、えらく気に入ったみたいじゃないか」
「まだまだこれからですよ、先輩。ようやく案が通った段階なんですから」
「でもな、通らんことには話にならんじゃないか。そういう意味で、榊はよくやったよ」
松永のこういう所が、後輩から慕われる所以である。所謂、飴と鞭の使い分け、というものが上手いのだ。部下の手柄は手放しで褒める。いつか松永がそう言っていた。
「伊東の奴も来られたらよかったんだがな。フィアンセとの約束となれば、彼女ほっぽらかして野郎と飲むわけにいかんからなぁ」
運ばれてきたビール瓶の中はすっかり空になってしまった。良樹も酒は飲める口だが、松永はそれ以上だ。うっかり松永のペースに巻き込まれてしまえば、潰されてしまうことは目に見えている。良樹はゆっくりとグラスに口をつけた。
「今頃彼女にプロポーズでもしてるんじゃないですか。昼間、伊東にしては珍しく真剣でしたし」
松永は付き出しの冷奴に箸をつけた。少し醤油が足りなかったのか、目の前にある醤油差しを手に取り、数滴垂らす。白い豆腐に黒っぽい染みが滲む。
「だったらいいんだがなぁ。家庭を持つと、気分が引き締まるからな」
良樹は一瞬曖昧な返事をし、静かに目を伏せた。
そんな言葉を何の躊躇いもなく口に出せる松永のことが羨ましかった。果たして自分は同じ言葉を伊東に言ってやることができるだろうか。良樹にその自信はなかった。
松永の言葉より、伊東のフィアンセの気持ちの方が理解できるのは何故だろうか。子供がいるとやりたいことができなくなる――。気を抜けば、子供の可愛さより子供の存在故の不自由さに行き着いてしまう。それを考えるにつけ、自分の父親としての、一家の大黒柱としての自覚のなさにうんざりしてしまうのだ。
「榊、お前、昼間も何か考え込んでるようだったが……」
「え、そ、そうですか?」
この複雑な心境を表に出すまいと、「いい父親」を装っていたのがばれてまったのか?
良樹の笑みは引きつっていた。
「仕事のことか? 今回のプラン、お前が全面的に仕切ってるだろう。何か悩みでもあるのかと思ってな」
「あぁ……仕事の……仕事のことですね」
松永は、良樹が家庭のことで悩みを抱えているとは思わなかったようだ。良樹はそれに安堵しつつも、どこか後ろめたさを拭いきれない。
「ん、それ以外に何かあるってのか? なんだ~、嫁さんに愛想つかされたってか? まぁ、お前に限ってそれはないだろうけどな、愛妻家の榊くん!」
「ははは、なんですか、それ」
一瞬見透かされたのかと、背筋が凍った。
情けないな――俺は。松永先輩のようになりたい。でも、なれない。
千賀子との甘い日々が脳裏をよぎる。
二人でテレビを見ながら、番組で紹介された店をチェックしては、週末に飲み歩いた。雨の日は二人で一本の傘に入り、家の近くのレンタルビデオショップで映画を借りた。週末はドライブで遠出した。いつも車内のBGMは千賀子の好きな海外バンドの曲だった。
そして、夜は互いに貪るように抱き合い、心地よい疲労感の中、眠りについた。
そんな日々を懐かしく思いながら、もう二度と子供が産まれる前には戻れないのだとまざまざと思い知らされる。
それだけではない。二人の時間が変わってしまっただけではなく、千賀子もまた変わってしまった。
仕事も忙しく、家にいる時間が少ないなりに、千賀子とコミュニケーションを取ろうとはしているつもりだ。
しかし、千賀子の態度はどこか遠い。無視をされたり、邪険に扱われているというわけではない。良樹の呼びかけにはきちんと応じているし、家事も完璧ではないながらもこなしてくれている。それなのに、千賀子の心はここにはないような気がしてならないのだ。
元々、千賀子は不平不満をあまり口にしない女性だ。黙って嫌なことが行き過ぎるのを耐え、胸の底にしまっておくタイプだった。だから、今、何に対し不満を持っているのか、自分の何が気に入らないのか、良樹には皆目見当がつかなかった。
夜、二人で体を重ねれば、少しは心が通じ合えるのではないかと千賀子を抱いても、かつての反応とは違った。産後三ヶ月ほどは、頑なに良樹に応じようとはしなかったが、出産の傷も癒えたのか、その後は黙って良樹を受け入れてくれた。
しかし、千賀子の上げる高い声が演技じみて聞こえてしまう。どんなに激しく抱いても、どんなに優しく抱いても、いつも反応が同じで、まるで人形を抱いているような気さえした。確かに千賀子を抱いているはずなのに、千賀子を抱けていなかった。
ふとした瞬間、愛しい亮がとてつもなく憎らしくなる。
二人の生活が変わってしまったのも、千賀子が千賀子でなくなったのも、すべて出産が発端だった。二人の絆をより深く、強く結びつけるはずだった亮が、二人の仲を引き裂いている。家族としての繋がりは強固になるどころか、綻びだらけだ。
千賀子と亮、どちらも愛したかった。亮を恨むなど、子供じみた八つ当たりだとも分かっていた。
千賀子を亮に奪われた。要するに嫉妬からくる感情なのだ。そんなつまらない理由から息子を憎むなど、父親としてあるまじきことだ。それでも、醜い感情は溢れ出てきてしまう。どうにも止められなかった。
良樹は松永から顔をそらすように、メニューに視線を落とした。ページをめくり、注文を考える振りをするが、目が滑る。食欲をそそるはずの料理写真も、良樹の目には無機質に映り、食欲は落ちていく一方だった。
「先輩、グラス空いてますよ。何飲みます?」
「お、次、いっちまうか? 俺は焼酎、ロックで。芋にするかな。」
「じゃあ俺は次もビールで。すみません、注文お願いします」
良樹はカウンター越しに声をかけ、注文する。料理の盛り付けの最中だった板前が振り返り、「はい、少々お待ちを!」と白い歯を見せた。
「おう、榊、一本タバコ吸ってもいいか?」
「どうぞ。先輩、タバコやめるって言ってませんでしたか?」
銀色の灰皿を松永に手渡し、良樹は肘で松永を突いた。
「あー……、家じゃあ吸ってねぇよ。外でだけだ。家で吸うと、カミさんがうるさいからなぁ」
へへっ、とやんちゃ坊主のように松永は笑った。シャツの胸ポケットからタバコの箱を取り出し、慣れた手つきで火をつける。大きく一息煙を吸い込み、松永は恍惚の表情を浮かべた。
「さすがに子供のいるところでは吸えないからな。こうやって外でちょっとばかし息抜き、ってとこかな」
松永は目を細め、さらに一口、タバコを吸う。
「一日仕事、帰ったら子守。休む暇なんてほとんどないんだ。たまの贅沢でタバコ吸うくらいいいだろう。カミさんだって俺に内緒で有名パティシエのスイーツなんてもん取り寄せてるんだからよ。俺は一口も食ったことないけどな」
チリチリとタバコが燻る。長く伸びた灰が重力に引っ張られ、項垂れた。松永は灰をこぼさないよう、慌てて灰皿を引き寄せる。
「榊もあんまり根詰めるなよ。何か力になれることがあるなら言ってくれ。なに、マエダとは何度も仕事してるからな、相手のことはよぉく分かってるつもりだ」
「分かりました、何かあれば……一番に先輩に相談します」
良樹はそう言い、刺身を一切れ、口にした。
「任せておけ。そうだ、また今度飲みに連れて行ってやるよ。おネェちゃんのいる店なんてどうだ、おい」
「やめて下さいよ、先輩。嫁に叱られちゃいます」
「ははっ、いいねぇ、妬いてくれる嫁がいるってのは」
「はいっ、焼酎とビール、お持ちしました」
「おお、来た来た。ほら、榊もいいから飲め! 今日は俺の奢りだ」
松永は上機嫌に焼酎のグラスを傾けると、舌先でちろりと透き通った酒を舐めた。




