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第一章 千賀子(9)

 うららかな春の日差しが差し込む。その陽気だけでリビングは十分明るく、空調も必要ない季節の到来を物語っていた。桜の蕾が膨らみ、日本列島の南の地域では開花宣言が発表されたというニュースもちらほら聞く。

 千賀子は湯気の立ち上った昼食に箸をつけた。鮭の塩焼きと出し巻き卵、豆腐と大根の味噌汁に白米、たくあん。

 ありふれたメニューだが、出来立ての食事をゆっくりと食べることのできる時間が取れていなかったことに気づく。


「生後三ヶ月だと、もうすぐ首がすわってくるのかしらね。こんなにふっくらしてきちゃって」


 多恵が亮の足裏をくすぐる。足を引っ込める亮を見て、多恵は相好を崩した。


「一番大変な時期に手伝いに来られなくてごめんね。なんとかシフトの調整もできたから、これからは週に一、二回はここに来られると思うわ」


 千賀子は味噌汁の椀に口をつけながら、うんうんと頷いた。懐かしい母の味が体に染みる。


 亮が生まれてから三ヶ月、昼食と言えば、納豆ご飯か卵かけご飯だった。台所に立つ気力がなかったこともあるが、温かい食事を作っても温かい内に食べられる保証がなかったのだ。さっと食べることができ、かつ冷めても美味しいものと言えば、それくらいしか思いつかなかった。

 一度、カップ麺で食事を済まそうとした時、三分間の待ち時間の間に亮が泣き出してしまったことがある。結局、亮が泣き止むまで相手をした結果、ふやけて伸びきったラーメンをすする羽目になってしまった。それ以来、千賀子は温かい昼食を用意することを止めた。

 レトルトや出来合いのものではない食事はいつぶりだろうか。千賀子は鮭の身を白米の上に乗せ、大きく一口頬張った。


「勤め先のスーパーのパートさん達が何とか時間を合わせてくれたの。みんな家庭があって大変でしょうに……本当に助かったわ」


 ふぅん、と千賀子はぞんざいに返事をした。余裕があるときならば、よかったね、と素直に相槌を打てただろうが、今は違った。荒んだ心が千賀子の思考回路を組み換えてしまったようだ。ふと多恵に対する本音が溢れそうになる。


 お母さんはいつもそう。八方美人で、みんなの顔色を伺って……大変なのは他所だけじゃない。うちだって大変だってはっきり言えばいいのに。


 もっと早くに手伝いに来て欲しかったという不満が積もり積もっていた。今まで家庭にこもりきりで、外でろくに働いたことのない多恵だ。


 離婚前、父が経営する運送会社でも多恵が手伝っているのを、千賀子はついぞ見たことがなかった。そんな世間知らずな多恵であれば、仕事場で都合のいいように使われているのかもしれない。亮を出産後、三ヶ月も休みが取れなかったのはそういうことだろうと勝手な推測をする。


「でも、三ヶ月もするとだいぶ体の方も落ち着いてくるでしょう。そろそろ千賀も動き始めなきゃね」

「動き始めるって?」


 つい口調がきつくなってしまう。自分の体と心がどんな状態であるか、自分が一番よく知っている。多恵に指図される筋合いはなかった。


「お掃除もお料理も、よ。あまりにも手抜きだと良樹さんが可哀想でしょ? 私が千賀を産んで一月くらいの時は、もう家事を始めていたわよ」

「へぇ……」


 多恵は千賀子の方を見ない。孫の亮の側につきっきりで、亮の顔から視線を逸らそうとはしなかった。


「さっきキッチン借りた時に見たんだけれど、食器乾燥機に水垢が溜まってたわよ。流しにもゴミが引っかかっていたし……」


 一体、何が言いたいのだろう、と千賀子は顔をしかめる。

 自分の怠惰を咎めたいのだろうか。だが、そうではないことは千賀子が一番よく知っている。

 多恵は単に、思ったことを口にしているだけだ。そこには悪意や悪気といったものはなく、純粋に多恵の目に映ったことを言葉にしているだけなのだ。


 いっそ、悪意に満ちていてくれた方がいいのに……。


 好意からくる言葉だけに、千賀子は多恵を責めることができなかった。


「できるだけ気をつける。ごちそうさま」


 千賀子は空になった皿を重ね、台所へと運んだ。


「あと、お手洗いも汚れていたわよ。軽くお掃除しておいたけれど、日頃から綺麗にしておきなさいね」


 背を向けた千賀子に多恵は続ける。


「良樹さんはお仕事で疲れて帰ってくるんだから。良樹さんのために、千賀が安らげる家を作ってあげなきゃ駄目よ」


 良樹の名を聞き、千賀子の体は凍りついた。その名さえも聞きたくない。


 お母さんは黙ってうちにご飯を作りに来て、掃除して行ってくれたらいいのよ。それ以上のことは望まない。だからもう何も言わないで。


「じゃあ……私はどこで安らげばいいの……」


 亮と二人きりの家は安らげるどころか、息苦しいだけだった。良樹が帰宅すれば尚更だ。

 多恵が来てくれている時ならば少しは落ち着くだろうと思った自分が愚かだった。二人でお茶を飲みながら、育児についての悩みや夫への愚痴を打ち明け、笑い話にできればそれでよかった。家という牢獄の中で、一筋の光になってくれれば――それでよかった。

 しかし、最後の頼みの綱であった多恵もまた、自分の理解者とはなってくれそうにない。牢獄の鍵が一つ増えただけだ。


「千賀? 何か言った?」

「別に」


 わざとガチャガチャと音を立て、荒々しく食器を洗う。


「千賀、もっと丁寧に洗いなさい」


 多恵の言葉が届かないよう、千賀子は蛇口を目一杯捻り水を流した。





 午前三時、亮の泣き声で千賀子は目を覚ました。千賀子は気怠げに体を起こし、ミルクを準備する。

 泣きじゃくる亮の声を聞き流し、千賀子は人肌に冷ましたミルクを亮の傍らに置いた。パジャマの前ボタンに手をかけ、上から三つ、ボタンを外す。


 初めて母乳を拒否されて以来、亮が千賀子の乳を吸うことはなかった。だが、千賀子はそれ以降もずっと、ミルクを与える前には必ず、亮に母乳を与えるようにしていた。強引に亮の口にねじ込んだところで、決して受け入れてはもらえない。亮がそっぽを向けば、すぐに止めるようにしている。

 拒絶されることは百も承知だった。吸われることのない乳房はしぼみ、母乳は枯れかけていた。両手で力を込めて絞り出せば、やっと滲み出る程度の母乳しか残っていない。それでも、千賀子は諦められなかった。

 そして、どうせ今回も無理なのだろうと――そう思っていた。


 ちろりと乳首に亮の下唇が当たった。控えめに動いていた口が大きく開く。亮は顔を左右に振りながら、千賀子の乳房の先を口に含み、ほんの少し歯茎で噛んだ。


「……痛っ……」


 亮は乳を求め、乳首を食み、強く吸った。加減を知らない赤子は、自らの最大の力をもって乳房を掴む。乳が出ないことを不思議に思ってか時折口を離すが、手で触れ、乳房の位置を確かめると、再びかぶりついた。

 乳首がじんじんと痛んだ。乳房の奥がつんとする。母乳が出てくる感覚がした。何故、今になって乳を吸おうと思ったのだろうか。だが、亮を前にそんな疑問はすぐにかき消えた。理由なんてどうでもよかった。


 痛い……痛い……、でも……。


 千賀子の唇は震え、嗚咽が漏れる。


「私をお母さんだと……思ってくれるの?」


 亮だけが自分を認めてくれる。他の誰もが千賀子を否定する中、亮だけは母親としての自分の存在を認めてくれる。滲んだ視界の向こうにいる亮を見つめながら、千賀子は深く心に刻み込んだ。


 この子を守るためならば、私は何でもしよう。心を殺してでも、亮を守り抜こう。

 たとえ義両親たちが無理難題を押しつけてこようとも、たとえ実母が心ない言葉を吐き棄てようとも。

 たとえ夫が私の心を顧みず、欲望のために私を求めようとも。

 亮のために、すべてを堪えぬこう。


 空腹を満たすことのできなかった亮は、千賀子の乳首から口を離し、ミルクを求めて泣き出した。

 普段は耳障りだった声だが、今は苦にならない。胸奥の小さな余裕が千賀子を穏やかにする。


「ミルクもありますよ、たくさん飲んで早く大きくなってね」


 心の底から亮の成長を祈った。この家に戻ってきてから初めてのことだった。

 こくこくと喉を鳴らしながら、亮はミルクを飲む。ミルクの減りは早く、瞬く間に亮はその白い液体を胃の腑におさめた。そして、満たされた表情を浮かべながら、ぴちゃぴちゃと口を湿らせた。千賀子は亮の手を握り、額に優しく口づけた。


 まだまだ夜は深い。この静かで穏やかな時間がいつまでも続けばいいのに、と千賀子は瞼を閉ざした。

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