表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/36

序章 ゴール

 鼓膜を突き破らんばかりの音量で、アラートががなり立てる。頭蓋内に反響するそれは、否応にも気力を削いだ。音を遮断するために耳を覆うことさえできず、千賀子はイヤイヤをするように首を振った。


「お母さん、もっとお腹で呼吸して! 赤ちゃんに酸素が届くように!」


 分かってる、分かってるから……何度も言わないで。

 この警告音は、お腹の赤ん坊に酸素が行き渡っていないことを警告するものだ、と助産師が言っていたことをおぼろげに思い出す。


「赤ちゃん、苦しがってるわよ! しっかりして!」


 初めてこのアラートを聞いたのは何時間前からだっただろうか。そして、助産師のこの台詞ももう何度聞いただろうか。

 不意に音が止んだ。それと同時に、千賀子を襲っていた痛みの奔流も遠ざかっていく。肺に酸素が流れ込み、やっとの思いで呼吸らしい呼吸ができる。

 母親に対する外的刺激を緩和し、体をリラックスさせる目的で、分娩室内ではソフロロジーの音楽が流れていた。照明の光度も控えめに設定されており、壁も柔らかな若草色だ。

 今の千賀子にはそれら全てが無意味なものだった。この身を引き裂く苦痛を前に、そんなものは慰めにもならない。耳につくのは慌ただしい医療スタッフたちの気配と、カチャカチャと金属器具が触れ合う音だ。そんな中、千賀子は再び襲いくるであろう痛みの波を思い、ただただ恐怖で身をすくめることしかできなかった。

 千賀子の華奢な体は限界を迎えていた。もともと体格は小柄であったのだが、酷い悪阻のために、ほとんど骨と皮だけの体になってしまっている。体を支える筋肉はほぼ失われ、骨の浮いた手では分娩台の手すりをしっかりと掴むことさえままならない。

 痛みと痛みの間、束の間の休息。気を抜けば、今度は睡魔が千賀子を襲う。どろりと瞼が質量を増し、重いベールが意識を包んでいく。

 眠い……眠い……。もう頑張ったんだし、眠らせて……。

 下腹部がピクリと強張る。これは拷問のような、あの痛みの予兆だ。「ああ……」と小さく呻き、千賀子は鼻から息を吸い込んだ。意識を手放すことができるのならば、とうに手放している。けれども、そうはさせてくれないのだ。誰を恨めばいいのかは分からないが、強いて言うのであれば、この苦痛から自分を解放してくれない全てのものを恨みたい気分だ。


 ――ビリリリ、ビリリリ、ビリリリ……


 アラートが遠のく。意識が遠のく。指先が冷たくなっていく。


「榊さん、お母さん! 次の波が来たら、大きくいきんでね!」


 開いた足の向こうから、初老の医師の顔が覗いた。憔悴した千賀子の顔を見やり、視線が合ったことを確認すると、頷きながら千賀子の股に視線を移した。


「頭、出てきてるから。次で終わりにするよ!」


 医師の一声が千賀子を呼び覚ました。細腕一本で崖にぶら下がっていた千賀子の手を、逞しい力で引き寄せるかのように。

 そうだ、私がやらなきゃいけないんだ……!

 弱気な千賀子はもうどこにもいなかった。

 そこにいたのは貧相な体つきの、みっともない生き物であったかもしれない。血走った目と饐えた汗の臭いのする、醜悪な獣であったかもしれない。けれどもその瞳には、どんな飢えた猛獣をも竦ませてしまうほどの、野生の光が宿っていた。

 産まねばならない、という原初の本能が千賀子の体に力を与えた。爪が白くなるほど手すりを掴み、カッと目を見開いた。

 先刻まで耳障りだったアラートも、今では千賀子を奮い立たせるものへと変化していた。もがきながらも、宿した命が生きている証拠なのだ。千賀子の決意に応えるように、子宮のうねりは激しくなり、収縮し、今まで以上の鈍痛が千賀子の体を突き抜けていった。

 咆哮、静寂、そして産声。


「フ……フギャアアアアア! オギャアアアアァッ!」


 歓喜の声が、生命の音が、渦巻き、こだました。


「榊さん、元気な男の子ですよ!」


 助産師が満面の笑みで、虚ろな目をした千賀子の傍らに寄り添った。千賀子は焦点の定まらない目で泣き声のする方を一瞥する。

 そこに小さな生命が誕生したことを確かめると、千賀子はほんの少し口の端を緩め、そのまま意識の崖縁から手を離した。



   *



 よりによって、こんな日に妻が産気づくとは思わなかった。出産予定日はまだ二週間ほど先のはずだったのに。

 良樹はチッと舌打ちし、ネクタイを緩めた。もうすぐ、新幹線が駅のホームに到着するおっとりとした車内アナウンスに苛立ちが募る。

 着いたら、すぐにタクシーを拾おう。午後七時、帰宅ラッシュのこの時間帯では病院前を経由するバスは混み合っているはずだ。呑気に列の最後尾に並び、指をくわえながら、サラリーマンでぎゅうぎゅう詰めのバスを何本も見送ることなどできない。

 新幹線が停車し、ドアが開くと同時に、良樹は両手に荷物を抱えこみ、一目散に駆け出した。迷惑そうに良樹を睨みつける人をかき分け、改札口に切符をねじ込む。もつれた足でタクシーに転がり込み、運転手に行き先を告げた。


「A産婦人科へ……急ぎでお願いします!」


 白髪の運転手は小声で「はい」と返事をし、車を発進させる。良樹の尋常ではない様子を見て、それ以上話しかけようとはしてこなかった。

 ビルのネオンが目障りなほど明滅するのを、良樹はこれほど疎ましいと思ったことはなかった。千賀子が苦しんでいるというのに、街は普段通りに振舞っている。駅のホームに降り立った時には晴れていた空から、粉雪が舞い始めた。苛立っても仕方のないことだとは分かっていたが、どうにも舌打ちが止まらない。

 出産には必ず立会う、と妻に約束していたのだ。初めての出産で不安がっている妻を、少しでも支えたかった。「側にいることしかできないけれど」と俯きながら言った自分に、「それで十分だよ」と微笑み返してくれた千賀子。悪阻で痩せ細った手が自分の手に重ねられた瞬間、何があっても一人にしないと固く心に決めていた。

 契約のため、出張で地方へ出向くことになったと伝えた時も、千賀子は何も言わなかった。たった三日間だけとはいえ、家に一人取り残されてしまうことは大層心細かったことだろう。それでも愚痴の一つも言わず、手を振って送り出してくれた。

 窓の外を流れる景色に紛れ、この十ヶ月の記憶が良樹の眼前にちらついた。

 妊娠が分かり、嬉しそうにマタニティー雑誌を買ってきた千賀子。「気が早い」と照れ笑いを浮かべる良樹の隣に座り、ページを開いていた千賀子。幸せそうな妊婦たちの写真を見て、「私も体重管理に気をつけなきゃね」とはしゃいでいた千賀子。

 しかし、千賀子にそんな幸せな時間は訪れなかった。物を口にしては嘔吐し、逆流する胃液にむせながら涙する日々を、虚ろな目でやり過ごしていた。「もうすぐ悪阻が終わるはずだから」という言葉が、いつしか千賀子の口癖になっていた。

 仕事のストレスで、悪阻で苦しむ千賀子につらく当たってしまったこともあった。良樹の言葉を受け、ただ謝る千賀子を見て次第に気付いたのだ。反論しないのではない――反論するほどの力ももはや残されていないのだということに。


「お客さん、着きましたよ。二千六百円です」


 一瞬で現在に引き戻され、良樹はあたふたと尻ポケットに手を突っ込んだ。財布を取り出し、千円札を三枚、運転手に手渡す。釣銭はいらないと吐き捨て、タクシーから転がり出た。

 夜間出入り口のインターホンを押すと、年若い女性職員の声が返ってきた。ドアの電子錠が開き、良樹は足早に受付に向かう。何度か千賀子の妊婦健診に付き添ったことがあったためか、受付の職員は良樹のことを覚えていた。


「榊千賀子さんのご主人ですね。赤ちゃんには今面会できませんが、千賀子さんのお部屋にはご案内できますよ。すぐに担当看護師に連絡しますね」


 職員は院内PHSを胸ポケットから取り出し、呼び出しボタンを押した。受話器を耳に押し当てる寸前、「ああ」と思い出したように呟くと、良樹に微笑みかけた。


「可愛らしい男の子ですよ。赤ちゃんもお母さんも……元気です」


 それは神の託宣に等しかった。緊張の糸がほどけ、良樹は膝からその場に崩れ落ちた。


「そうですか……男の子ですか……。子供も千賀子も……無事なんですね……」


 滂沱と涙がこぼれ落ち、リノリウムの床を濡らす。冷え切った両手で顔を覆い、良樹は周りの目も憚らずに泣いた。


   *


 これで苦しみは終わりだと、二人は信じてやまなかった。

 千賀子は生命の危機さえ覚えるほどの肉体的苦痛からの解放を、良樹は傍観していることしかできなかった孤独からの解放を、それぞれ信じていた。


 新たな家族を迎え、三人で明るい未来を築いていくのだと、信じてやまなかった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ