第3話:乳の神ボインプルン
カロンが先導し、傷付いたアーノルディ、そして彼を担いだ狼男のジーパンが後に続く。
大きな門を潜ると、中は青々とした芝生に覆われた庭園が広がっている。
所々に外で見たのと同じように、鮮やかな花を咲かせる花壇があり、噴水は清らかな水をこんこんとたたえている。
外の解放された景色とはまた違う、整えられた「美」がそこにあった。
「ここは、やっぱり天国なんじゃないか?」
「だからよぉ、姐さんの言うとおりここは天国でも地獄でもねぇんだよ。ただの休憩所みたいなもんらしいぜ。ま、俺も細かい事は知らねぇんだけどな」
ほとんど身動きの取れないアーノルディを荷物のように抱えながら、ジーパンが軽口を叩く。
アーノルディからすれば、こんな庭園を持つ屋敷に住む人間なぞ王族ですら存在しない。
カロンは相変わらず怜悧な表情のまま、すたすたと歩いていく。
屋敷の庭園はかなりのスペースがあり、屋敷に入るドアの所までは数分ほど歩かねばならない。
もっとも、小柄なカロンに歩幅を併せているというのもあるが。
「着いた」
カロンは短くそう言うと、木製のドアの前に立った。
黒檀のように重厚なドアの取っ手に背伸びしながら手を掛ける。
ぎいい、という音と共に、その扉が開かれる。
「凄いな……」
今日、何度このセリフを口にしたか分からず、アーノルディは自分が馬鹿なんじゃないかと思ったが、「すごい」以外の感想が出てこないのだから仕方が無い。
屋敷の中は、アーノルディがこれまで見て来たどんな建物よりも素晴らしかった。
廊下には所々に明かり取りのために窓が取り付けられ、そのいくつかはステンドグラスのような七色の美しいものもあった。
天井は笑ってしまうほど高く、純白の石壁と相まって、まるで屋外にいるような開放感を得られる。
彼を死地に送り込んだ騎士団長はもちろん、王の間だってこの屋敷の廊下にすら及ばないだろう。
「姐さん。この兄さんをどこに運びやす?」
呆けるアーノルディを肩に担いだまま、ジーパンはカロンの指示を仰ぐ。
カロンは振り向くと、そのまま首だけを廊下の奥の方へと向ける。
「あっちの部屋が空いてる。というか、部屋は沢山あるからどこでもいい。間取りはどれも同じ」
「んじゃ、手近な場所でいいですかね。ここでいいですかい?」
ジーパンは廊下を少し進み、ずらりと壁に並んだ扉の一つのドアノブを捻る。
そのままカロンと共に部屋に入ると、アーノルディはこれまた度肝を抜かれた。
「調度品は何も無いけど、ベッドと机はあるし、クローゼットもある。必要な物があれば私に言えばいい」
「い、いや……その……」
「何?」
カロンが無表情のままそう呟くと、アーノルディはジーパンに担がれたままで、逆に不安そうな表情を浮かべる。
「その、俺が本当にこんな所に寝ていいのか? なんか罰が当たりそうなんだけど」
「さっきも言ったけど間取りは全部同じ。どこで寝ても一緒」
カロンはぶっきらぼうにそう言い放つが、アーノルディからすれば、最上級の羽毛布団に覆われたベッドに、自分が寝ていいのか不安になっていた。
万が一、染みを一つ付けた罰金を請求されたりしたら、彼の給料の一年分は吹っ飛ぶのは間違いない逸品である。
「お前さんの考えてる事はまあ分かるが、遠慮なんかすんな。せっかくいい所に来たんだから、ゆっくり楽しく過ごせばいいんだよ」
「うおっ!?」
ジーパンは苦笑しながら、背負い投げの要領でアーノルディをベッドに放り込む。
負傷している者に対し少々乱暴な気もするが、柔らかなクッションのせいで痛みは全く感じない。
「隣は俺の部屋だ。ま、これから仲良くしようや。そんじゃ、お前も疲れてんだろ? 細かい話は明日にでもしようぜ」
ジーパンはそう言いながら、背中越しに手を振って部屋を出ていった。
アーノルディはベッドを汚してしまわないだろうかと相変わらず不安そうだったが、それよりも抗いがたい寝心地に負けてしまいそうだった。
「気持ちいい?」
「あ、ああ。こんなにぐっすり眠れるのは、さっき竜に殺された時以来かな?」
アーノルディは何とか軽口を叩こうとしたが、カロンは相変わらず無表情のままだ。
やばい。滑ったかとアーノルディは内心焦るが、カロンの顔からは何の感情も読み取れない。
「そのベッドにはヒーリングの効果があるから、そのまま寝ていれば明日には動けるようになると思う」
「ヒーリング効果!? つまり、寝てるだけで傷が癒されるって事か!?」
「そういう事」
カロンは平然とそう言うが、アーノルディは今日だけで一生分の驚きを使い果たしそうだった。
治癒の力を持つ道具は彼の住む世界にもあったが、それはどれも高級品である。
少なくとも、アーノルディが使える事は一生無い代物なのは間違いない。
「しばらく寝ているといい。もう少ししたら、何か食べ物を持ってくるから」
カロンはそう言うと踵を返し、アーノルディから去っていく。
だが、彼女の向かった方向はドアではなく、壁の方だった。
ぶつかると思ったその瞬間、カロンはまるで壁に溶け込むように消え去った。
「な、何なんだ一体……」
一人、豪奢な部屋に取り残されたアーノルディは、ただたた目の前に広がる光景に目を瞬かせるだけだった。
色々と知りたい事や考える事が多すぎるが、彼の身体はまずは休息を欲しているようだった。
「後で考えるか……」
アーノルディは結局、考えるだけ無駄だという結論に至った。
あのジーパンという、やたらフレンドリーな狼男も言っていた。
仮にここが天国だろうが地獄だろうが、はたまたそうでなかろうが、楽しんだ者勝ちだ。
アーノルディは自分をそう納得させ、そのまま深い眠りへと落ちていった。
一方、壁をすり抜けたカロンは、真っ暗な闇の中を進んでいた。
足音すらしない暗黒の回廊をしばらく歩くと、その先に一点の光が見えた。
カロンは無表情のまま、そちらへ早足で歩いていく。
「あー……やっと終わった」
カロンが光の中に足を踏み入れると、がらりと景色が変わる。
六畳一間にキッチンとユニットバス付きのワンルームである。
床は年季の入ったフローリングになっていて、雑多な物が転がっている。真ん中には布団が敷いてあり、いつでも寝転がれる怠惰仕様となっている。
「あーもう! 顔がつっぱって仕方ない!」
カロンは、綺麗な髪が乱れるのも構わず、せんべい布団に寝転がり、顔をぐにぐにとマッサージする。
先ほどの人形のような表情とはまるで違い、餅のような肌を不満げに伸ばしたり引っ張ったりしていた。
カロンが寝転がって数分もしないうちに、インターホンの音が室内に木霊する。
すると、カロンは舌打ちをする。
「ちっ、もう来たのか」
だらだらと布団から起き上がり、カロンは足を引きずるようにドアの方へ足を向ける。
彼女に尋ねてくる人物など、今の所一人しか存在しない。
そして、やはり予想通りの人物が、カロンの目の前に立っていた。
「お勤めご苦労様です。罪業を償う作業は順調ですか?」
カロンの目の前には、物腰穏やかな銀髪の美女が立っていた。
顔立ちも美しいが、何よりも特徴的なのはその胸である。
彼女の胸は、顔よりも大きいのだ。
「今日も微妙レアを送ってくれてありがとうございます。ボインプルン様」
ちっとも敬意の籠っていない口調で、少女カロンは悪態を吐くが、ボインプルンと呼ばれた女性はにこにこと笑みを浮かべている。
「まだあなたは穢れを落とせていないようですね。でも大丈夫、私があなたと迷える魂を救いますから」
巨乳女性はそう言って、カロンの住む一室にずんずん入りこむ。
彼女の名はボインプルン。乳の神ボインプルン。
カロンの上司であり、悩みの種でもあり、巨乳でもあった。