第1話:魂の安息地
「俺は……一体?」
全身に走る鈍い痛みで、アーノルディは目を覚ました。
周りは白い霧で覆われ、ほとんど見通しが利かない。
ただ、柔らかな下草が生えている所から、ここが屋外である事だけは理解出来た。
しかし、先ほどまで燃え盛る溶岩地帯に居たはずの自分が、何故ここに居るのかさっぱり理解出来なった。
未だに朦朧とする意識を覚醒させようと、彼はかぶりを振る。
そして、徐々に記憶が戻ってくると、恐怖に身を震わせた。
「そ、そうだ! 竜は!?」
身を起こし逃げようとしたが、傷付いた彼の身体はそれを許さない。
ほんの少し身をよじっただけで、再び地面に仰向けに倒れ伏す。
「……居ないのか?」
恐るべき魔物が居ない事を確認すると、彼は安堵のため息を吐く。
「ちくしょう、何が竜だ! 何が騎士団だ……っ!」
竜が居ない事を認識すると、次に襲い掛かってきたのは、数えきれない程の負の感情。
屈辱、絶望、苦痛……一生分のマイナスを一瞬にして叩きこまれたようだった。
アーノルディは騎士見習いの若者だ。田舎から上京し、魔物の軍勢と戦う騎士としての道を歩み始めた――はずだった。
騎士は困難かつ危険な職業ではあるが、同じくらい名誉でもある。
だが、その希望と緊張は、彼の就任からわずか一時間足らずで打ち砕かれた。
『今すぐに竜と戦ってこい。一人でな』
それが、騎士団長に下された最初で最後の命令だった。
騎士団には稀有かつ強力な団員が数多く在籍している。
その彼らが集団でやっと一体倒せるのが竜という種族である。
それを、たった一人、しかも何のサポートも無しで倒せというのだから、それはつまり『死ね』という事である。
だが、アーノルディはそれを引き受けた。引き受けざるを得なかった。
初日で騎士団を辞めたら、田舎から送り出してくれた家族はどれほど嘆くだろう。
そう考えると、彼は騎士として死ぬ以外の選択肢が無かったのだ。
そして、竜の住む領域に一人で飛び込まされた彼は、何の抵抗も出来ずに叩き潰された。
そこで記憶は途切れ、気付いたらこの場所で倒れ伏していたのだ。
「くそぉ、くそぉ……!」
アーノルディの瞳に大粒の涙が浮かぶ。
その涙の理由は、身体の痛みよりも踏み砕かれた誇り、希望の喪失によるものが大きかった。
「けが人、発見」
「だ、誰だ!?」
突如話しかけられ、アーノルディは反射的に身を起こそうとしたが、やはりまだ駄目だった。
白い霧の向こう側、ぼんやりと輝く光のようなものがアーノルディの視界に映る。
人魂のようなそれは徐々にこちらに近づいてくるが、彼にはどうにもならない。
だが、近づいてくると、それが人魂ではなく、何か光を放つ物体であり、人間のような物がそれを持っているのが見えた。草を踏む軽い足音と共に、その正体が明らかとなる。
(……天使?)
アーノルディの頭にそんな単語が浮かぶ。仰向けになったままのアーノルディを覗き込んだのは、この世の物とは思えない程に整った顔立ちをした少女だった。
年の頃はまだ十代前半程度だろうか。霧の中でも輝いてみえるような美しい金の短髪。空よりも澄んだ蒼い瞳。そして、染み一つない白磁の肌は雪の妖精のようだった。ビロードのように滑らかな黒のローブを羽織り、その黒さがより彼女の白さを際立たせる。
少女はアーノルディをじっと眺めている。そこには憐れみも侮蔑も感じられない。
「君は、何者だ?」
「私はおじ……カロン。この『安息地』の管理人。あなたのような迷える魂を救う役目を担う者」
「カロンか。迷える魂を救うという事は、俺を天国へ連れて行ってくれるのか? それとも、地獄行きかな?」
アーノルディは自嘲するように薄く笑った。
騎士としての誇りも、未来も、命すらも失ったのだ。
彼が持っていた唯一の誇りである剣もいつの間にか消え去っている。
これ以上何を失えというのだろう。
目の前の少女――カロンが天使なのか死神なのか、アーノルディには判別が付かない。
けれど、ただの少女ではない事だけはよく分かる。
「どっちも違う。私の役割は、あなたのような使い捨てられた魂を救う事」
「使い捨てられた、ね」
言い得て妙だとアーノルディは苦笑する。
確かに、まさか任務初日で名誉の戦死を遂げるとは思っていなかったのだから、確かに使い捨ての駒のようなものだ。
アーノルディはそう言うが、カロンは相変わらず能面のような表情で覗き込んでいる。
こうして見ると、本当に彫刻のようだ。
アーノルディはその美貌に、己の痛みすら忘れる程だった。
カロンはアーノルディを少し観察した後、目の前で不思議な動作をした。
空中で人差し指をくるくると回転させ、そちらに視線をずらす。
まるで何かを操作しているように見えるが、それが何の意味があるのかアーノルディにはよく分からない。何かのまじないなのかもしれない。
「アーノルディ。聖ローレル騎士団所属。田舎から騎士になるために上京。新米だけれど気まじめで、いつかは王国最強の騎士になりたいと思っている。両親と妹が一人。硬派なイメージを作りたいけど、実は可愛いものが好きで、家族に内緒で森で小鳥を飼っている」
「なっ……!?」
アーノルディは仰天した。出会って間もない少女が、自分のプロフィールを寸分違わず言い当てたのだ。特に最後の小鳥の件は誰にも言っていない。自分だけの秘密だというのに。
驚愕するアーノルディとは対照的に、カロンはまるで何かの説明文でも読み上げるように淡々と言いきった。
最後に、「レアリティ☆1」と謎の単語を付け加えたが、カロンはそれ以上何も言わなかった。
「君はやっぱり普通の人間じゃないな?」
「今は普通じゃない。とにかく、私は役割を果たす。それだけが今の私に出来る事」
そう言いながら、カロンは両手をアーノルディに差し出した。
どうやら助け起こしてくれるらしい。
アーノルディが手を差し出すと、小柄なカロンは綱引きのような動作で、両手でアーノルディを起こす。
何とか立ち上がったものの、すぐに倒れてしまいそうなアーノルディを支えるように、カロンが下に滑り込む。
「何とも情けない光景だ。君は俺をどうする気なんだ?」
「安息地に連れて行く。そこで傷を癒し、旅立ってもらう」
「安息地? さっきも聞いたが、ここは天国とか地獄じゃないのか? それに、俺は死んだんじゃ?」
「違う。あなたは死んでない。でも、あなたの肉体はもう存在しない。だから私の主があなたを呼び寄せた。ここは他の世界に行く道にある休憩所のような場所。高速道路の休憩所みたいな場所だと思えばいい」
「拘束道路? どらいぶするー?」
「……何でもない。ゆっくり歩くからついてきて」
そう言って、カロンはアーノルディを支えながら、霧の中を歩いていく。
霧の向こうに何が待っているのか分からない。
だが、一人で歩く事すらおぼつかない今のアーノルディは、ただ黙って謎の少女カロンに従わざるを得なかった。