一つ眼
これで終わりなんだ。
あざ笑っているような空に僕は手を伸ばした。
もうすぐあそこへ行ける。
僕は死ぬんだ。
けれどふと、手が止まる。
「あ、れ……?」
空が『二つ』あった。
それじゃあ僕は、どちらへ行けばいいんだ?
∬
生まれたときから僕はテレビで大げさにやっているような貧乏ドラマの主人公、そのものだった。
母は他界。家族はひ弱な父と野良のねずみ。いつ世間に押しつぶされてしまっても可笑しくない日々の毎日だった。
「それじゃあ父さん、ちょっとアルバイト行ってくる」
「ああ、悪いな。うっ、ゴホッゴホ!」
「ちょ、父さん大丈夫!?」
丁度履きかけていた靴を蹴っ飛ばして、僕は父さんのもとへ駆け寄った。古びて穴だらけの布団には鮮やかな赤が広がっている。
「……っ!」
何度目の前で繰り返されても、慣れない現実に嗚咽がこみあげてきた。余命一か月と宣告された父さんは、もう体が半分死んできている。父さんの患った病はどうにもやっかいで、簡単に治せるものではなかった。唯一の方法があると言うなら、それは多額の金をつぎ込んで行う、大掛かりな手術。けれどそんなお金もなく、銀行にも借金が溜まりっぱなしの僕たちには、どうすることもできなかった。
「……父さん、今日は肉を多く使った夕食にしよう。それを食べて元気を取り戻すんだ」
日に日に軽くなっていく背中をさすると、父さんは少し眉尻を下げて、父さん独特の困った笑みを浮かべた。
「そんな肉、家にあったかい?」
「僕が買ってくるよ。今日は給料日なんだ」
「買ってこなくても大丈夫だよ。それよりお前の将来の金にして……」
「今は父さんの事の方が大事だよ!」
思わず大きな声を出すと、父さんは驚いてゆっくり笑った。
「ありがとう……。俺はとっても優しい子供を授かったよ。母さんに、蒼空の成長を見せてやりたかったな」
頭を弱弱しい力で撫でられて、涙が零れそうになった。それを飲み込んで笑顔を作る。
「夕方までには戻ってくるから」
そして僕は家を出た。
行先はアルバイト店と、僕の死に場所。
∬
「それじゃあ蒼空君、もう上がっていいよー」
店長のかけ声に、接客を切り上げてエプロンを外す。休憩室でジーンズをはきかえると分厚いコートを羽織って僕は店を出た。
時間帯は夕方のチャイムが鳴る午後五時。時計を見ながらあと一時間は大丈夫だろうと、家とは逆方向に歩き出す。
「今日は隣町の端まで川沿いを歩いてみるか」
散歩道を決めて、土手へ登っていく。秋の冷たい風が指先にあたり、手をコートのポケットに沈めた。
土手の頂上に上がると、向こう側には太い川が流れていた。
(少し寒そうだけど、あれくらいなら丁度良く溺死できそうだな)
のんびり自分の死に方を考えてみる。それが僕の日課だ。
一か月後、父が他界したら僕もその後を追うと少し前から決めていた。この世界に残っていてもどんどん圧迫されて、最後には破裂してしまうだけだから。
土を踏みながら歩いていると、いきなり子犬が走ってきて激突した。衝撃によろけながら子犬の顔を見て、ぞっと背筋が凍る。
白い毛並みを持つ子犬の顔には、生々しいほどの赤い模様が描かれていた。それはまるで化け物のようだ。
「すいません、勝手に走りだしちゃって」
飼い主らしき人物が硬直する僕に声をかけてきた。異物を飲み込んだかのような違和感をどうにかやり過ごして顔を上げる。
「いえ、大丈夫です」
作り笑いを浮かべると、全身真っ黒なコーディネイトの女性も笑い返したかのような雰囲気がした。フードを深くかぶっているせいで、本当に笑ったかどうかは分からないが。
「それにしても不思議ですネ」
「なにがですか?」
首をかしげると女性は子犬を抱き上げた。
「この子、私以外の人間には滅多に懐かないんですよ。もし懐くとしたら……」
フードの下から覗いていた瞳と視線が合った。僕は犬に出会った時よりも強い恐怖を覚える。
目は子犬同様、真っ赤だった。
何かがヤバい。そう本能が告げる。
今度こそ本当に、ニタリと女性は微笑んだ。
「また、逢えるかもしれませんね。ふふっ」
できれば逢いたくないと願いながら、曖昧な返事を返して僕はその場を逃げる。いつまでも背中に女性の視線がこびりついているような気がした。
∬
この世には奇妙な才を持って生まれてくる人間がいるという。
僕はただ、それを他人事としてしか認識していなかった。