宮殿での日常
「アキラ~」
扉が勢い良く開かれる音がしたと同時に、元気な声が聞こえ、次に猛烈な腹部への衝撃が来た。
「はぅっ」
一瞬で目が覚める。
もうすこし、優しく起こされてみたいものだが、子供相手にそれを言っても始まらない。
「おはよ~」
元気いっぱいに目の前の幼女が言うので、
「ぐ……おはようございます、殿下」
と朝の挨拶を返す。
水色の髪をリボンで結わえた、朝から元気いっぱいの幼女、第三皇女ユリア・メルヴェル・ド・ソルタニア殿下は、ぼくがこの宮殿に来てから、毎日のように押しかけてくる。後ろで控える御付の侍女は困ったように笑うだけである。
ヤンボル高原での戦闘以降、イズミットは不気味に沈黙している。
一説には、あの時にドラゴンを召喚した為、魔力を使い切った召喚魔道士が復帰するのに時間がかかっているとか、召喚したドラゴンの暴虐に多数の召喚魔道士が巻き込まれたとか言われている。
真偽はともかくとして、あれ以降、召喚魔法の波動が計測されていないとか、サライさんが言っていた。
ナウザーと異界をつなぐといった世界そのものに働きかける魔法なので、発動の有無は距離があってもわかるのだそうだ。
イズミットの動きが予想と変わったのか、ぼくと《重なって》いるところのセーラ皇女の意識は計画を変更したようだ。
定期的に、ぼくから「位置」を奪うと無事を知らせる手紙を書いている。
その後、ぼくが転移魔法で受け取ったと称して、担当の侍女に渡す。
ぼく、セーラ皇女、漆黒の戦士ダークの入れ替わりに必要な「位置」の制御については、ぼくは譲る事はできても、能動的に取得する事はできない。
目下のところは、ダークのメインウェポンをどうするかと言う事になる。
ドラゴンとの戦いで大剣にひびが入ったままの筈で、遠からず、あの剣は失われる事になる。
流石に、ダークに入れ替わって鍛冶屋に行くなどと言う事は論外だし、そもそも、ダークとワンセットになっているような異界の武器がナウザーの人間に修理可能とも思えない。
ちなみに、あれから何回も呼びかけてもダークは全く応えない。
いっしょにナウザーに来た、いわば同期なのに付き合いの悪いやつである。
などと考えていたら、セーラ皇女の意識から呆れたような気配を感じた。
まぁ、そんな事情でダークに使わせる武器としての魔道具を色々と考えているのだが、魔力皆無のぼくが魔道具の設計などできるわけもなく、そちらは、手詰まりに近い状態だ。
「アキラ~、セーラ姉さまからの手紙来た~?」
ユリア殿下が期待に満ちた表情で聞いてくる。
美幼女と言う形容の見本で、長じた時は傾城の美姫になるのだろうか……と、思ったが、この美幼女が第一位の皇位継承者であることを思い出して、傾城してもらうと困るなぁ、などと考える。
ソルタニアの皇位は少し変わっていて、皇位継承権は女性のみ認められる。
ただし、統治する権利は皇位継承した女性の配偶者に与えられ、女性は原則、統治への関与は禁止されている。
女王と王配と言うのとも異なる独自のシステムだ。
統治者を競争原理で取捨選択するというような方針が根底にあるようだが、いまひとつ理解できていない。
ソルタニア皇家は見事に女系なので、それも要因のひとつかもしれない。
第一皇女セーラには、継承権が無い。
魔法に関わるものには政治的な権利が一切与えられないと言う事で、これはナウザーでは当たり前と考えられているようだ。
では第二皇女はどうかというと……
「アキラ~。ねぇ、お手紙来てないのぉ」
ぼくは、ユリア殿下にとって、セーラ皇女からの手紙のポストと言う存在なのだろう。
「申し訳ありません、殿下。昨夜はセーラ殿下からの便りは頂いておりません」
「ぶ~」
可愛らしく頬をふくらませると、
「じゃあ、お手紙来たら直ぐに知らせてね~」
と言って侍女に連れられて去っていった。
ぼくがセーラ皇女の手紙を受け取る事情については、異世界の存在なので、転移先の目標にしやすいとセーラ皇女が手紙の中で記述している。
魔法の事はさっぱりわからないが、これでみんな納得しているようなので、そんなものなのだろう。
もっとも、ぼくと言う存在が宮殿にいると言う事実を含め、こちらの事情をある程度承知しているような皇女の手紙に、どうやって情報を入手しているか、関係者一同首を傾げているが、元々策士な一面がある性格だったようで、深くは追及されていない。
たしかに、ただのお姫様が、特殊部隊とも言える魔道騎士団の団長になったりするわけもないか。
差し当たり、ぼくの衣食住を得る為の方便ではあるのだが、このままでは、ぼくが宮殿から出られない。
外出は可能だが、必ず護衛と言う名の監視つきである。
ぼくが宮殿から出る必要が出てきたら、別の理由で手紙の転移先を設定する目論見だと見当をつけているが、当分、穏やかな朝の目覚めには縁が無くなりそうだ。
きっと「あの時」の仕返しだ、と、考えた瞬間に右手が勝手に動く気配を感じたので、慌てて意識をそらす。
「アキラ殿、朝食がお済みになりましたら、練成場へお越しください。エメルダ殿下がお召しです」
朝食のトレーを持って来た別の侍女の人が声をかけてくる。
「わかりました」
ぼくは、三度の食事は自分の部屋で取る事になっている。
イズミットに召喚された異世界の亜人と言う事で微妙に警戒はされており、食堂とか人の出入りの多いところの利用はあまり良い顔をされない。
ここでの食事はパンとスープと野菜類をメインにした一皿がつく程度。
ナウザー創生神を祭る神殿を由来とする国家なので、宮殿の暮らしも想像していたより質素だ。
元の世界で一人暮らしを始めた時、自炊する事を考えていたが、二日目でこちらに召喚されたので、冷凍食品やレトルトをレンジでチンする以外のことはできていない。
ぼくの世界の料理を提供して、こちらの人々を驚かせるとか、そういう展開は望めそうにない。
つくづく無能だよなぁ。
この異世界であるナウザーの文明は、魔道と言う要素を取り払うと、ぼくらの世界で言えば、産業革命以前のレベルのようだ。
魔法自体はぼくらの世界からみるとオーバーテクノロジーになるが、色々と制約が多く、使用される範囲も狭いので、ぼくらの世界の科学のような社会システムに取り込まれて文明の底上げに繋がっていないようだ。
逆に、魔法と言うものが存在するせいで、科学と言う分野が発展していないようにも見受けられる。
では、ナウザーの人々に比べて、ぼくが文明人かと言うと文明の利器の使い方は知っていても、それを生産・提供できるわけでも無い。
農家とか職人とか自営業の家業を手伝っていると言う事なら、それなりの知識や経験はあるかもしれないが、都市部のサラリーマン家庭で育った男子高校生には、そのようなものは皆無だ。
武道の類をやっていたわけでも無く、スポーツも体育の授業以外にはやったことが無い。
高校生までの学校で習った知識って、ぼくらの世界の文明を前提としているので、異世界ナウザーで活用できるものが思いつかない。
あー、数学の類は役に立つかもしれない。計算の技能は色々と使い道があるだろう。
ただ、計算問題の宿題とかは電卓に頼っていた一面があるので微妙かも。
もぎゅもぎゅと朝食を食べながら、つらつらととりとめも無く考えていく。
最終目標は自分の世界に帰る事だろう。
妹との約束を守れていないので怒っているかな?
伯母さんと従姉妹は、ぼくが居ないのをどう思っただろう。
家族に連絡したのかな。
あちらとこちらの時間の流れは同じなのか、違うのか。
望郷の念にかられるでも無く、ひとごとのように感じられるのはダークの影響かもしれない。
ぼくが自分の世界に帰れないのは、セーラ皇女と《重なって》いる為で、この結びつきを解消するだけで、簡単に元の世界に帰ることができるだろう。
いや、あんな美少女と普通に重なるのは大歓迎なのだが……
パンをつかんだ右手が、いきなり顔面に迫る、寸前で、左手で受け止める。
セーラ皇女の不機嫌な気配を感じながら、人間と言うのは慣れるものだなぁ、と、しみじみと考える。
今のを見ていた人がいたら、正気を疑われそうだ。
朝食を食べ終えて、食器を通りがかった侍女に渡すと、宮殿の中庭に当たる場所に造られた練成場に向かう。
ソルタニア聖皇国の皇都中央にある、この宮殿は皇族の住まいであり、政治機能の中枢部でもあるが、ナウザー神殿でもある。
皇族の住まいである奥宮と政治機能がある西の塔、および、神殿としての機能中枢の東の塔については、警戒が厳重だが、それ以外の区域については、比較的出入りが緩やかになっている。
ぼくは奥宮の離れにある使用人の宿舎に一室を与えられているのだが、そこから練成場までは少し歩かなければならない。
食と住はこんなところだ。
衣に関しては、フィットするサイズの丈の短い下穿きのような衣類もあったので、収まるものが収まった感じで落ち着いているが、やはり、ぼくらの世界で言う下着に該当する衣類は無いようだ。
基本は貫頭衣。ぼくらの世界で言えば、シャツだと思えばいいので、これからシャツと呼称する。
ただ、男は股間のものが揺れると歩きにくいので、タイツのような下穿きが加わる。
なので、男用の貫頭衣はぼくらの世界のシャツとほとんど変わらない。
タイツだけだと股間のモッコリが宜しくないので、ズボンに該当する下穿きを重ねて着る。
面倒なので、以降はタイツ、ズボンと呼称する。
女性は裾の長いシャツと言うかワンピースに近い服装だ。
下穿きは着けないので、ノーパンと言う事になる。
これを基本として、紐で止める感じの上衣をつけるのが一般庶民の服装らしい。
成人女性はこれに胸当てが加わる。
ぼくが最初に与えられた衣服は女性用のものだったと言う事になる。
確かに、魔道騎士団は女性だけの部隊なので、男向けの衣類がなかったのは当然だろう。
ボタン、ファスナー、ゴムの類は存在せず、全て紐で縛る感じだ。
羞恥心の感覚は、現代日本とほとんど同じような印象を受けるので、魔法衣の一件は未だに白状できないでいる。
まぁ、そんなわけで、魔法衣に全身を包んだエメルダ皇女が日をおかずに練成場に呼び出すのは、困ったような嬉しいような、そんな気分である。