仮面の痴女と変貌する騎士達
ぼくの合図から数瞬の後、凄まじい光と音、そして指向性の無い魔力の洪水が溢れた。
少しやり過ぎである。
これでは、仮に、逃げたり隠れたり、あるいは、一矢報いると言う選択をしたところで、何にもできやしない。
もっとも、セーラ皇女に「位置」を譲るだけであれば、特に問題は無い。
「交代」
右手を翳して、クセになった言葉を口にする。
巨乳が革鎧に圧迫され、とてつもない息苦しさを感じる……前に、腕輪のガラス玉に封じたアゾナの神気が発動し、硬く装着された革鎧が吹き飛んだ。
いや、革鎧だけではなくて、装身具以外の衣類が全て消失した。
『アゾナの神域においては、童子は裸でいる事を許されず、乙女は宝飾以外は身に帯びる事を許されず』
《闇の魔王子》が、あの心象空間で口にした言葉。
アゾナの神気を封じたガラス玉は、それを顕在化するアイテムだった。
つまり、これを使用すれば、皇女は、いつでも、いかなる困難な状況でも、装身具以外の衣装を脱いで、ほぼ素裸になる事が可能なのだ。
セーラ皇女の身体で、突発的に入浴する必要が発生するような事態――どういう事態だか想像もつかないが、そんな超レアなケース以外では、まず、使う事は無い筈のアイテムだった。
実際には、それ以外の機能もあったわけだが、この一点だけでも、個人的にはまことに結構な機能と考えて、腕輪を購入してまで身につけていたのだが、こんな局面で役にたったわけだ。
そして、ぼくは、なんだか泣きたくなっているようなセーラ皇女の意識に、身体の制御を明け渡した。
セーラ皇女は電光石火のスピードで、召喚魔道士が憑依したカークス卿に肉薄した。
周囲に溢れている出鱈目な魔力に困惑しているらしい“それ”の剣を持つ手を跳ね上げて、ジョシュア神殿長を危機から開放するや、次の瞬間、“それ”の後頭部をむんずと掴むと、力任せに投げ飛ばし、地面に叩きつけた。
いかに憑依されているといっても、肉体はカークス卿のものなのだが、まったく容赦が無い。
じつは、セーラ皇女の記憶によれば、カークス卿は皇家の第一継承者であるユリア皇女に、色々とちょっかいをかけていたらしい。
それも、皇家の血を引く『幼女』言う条件が、好みに合致したと言う理由らしく、大事には至らなかったが、洒落にならない強引な真似もやったらしい。
まったく、とんでも無い人物だったようだ。
カテゴリで言えば、リックと同じかもしれないが、リックは所謂「大きなお友達」以前のレベルなので、カークス卿と同類と言うと少し可哀そうかもしれない。
逆に言えば、そんな嗜好や性癖の持ち主でありながら、騎士団のひとつを任されていたのだから、騎士、及び、指揮官としては、優秀だったというべきだろうか。
従って、いかにケインが放った矢の撹乱効果の中でセーラ皇女が不意をついたとは言え、また、皇女の身体能力が優れているとは言え、本来は、ここまで一方的にやられるような人物では無い。
ひとつには、召喚魔道士に憑依されて、本来の武人としてのポテンシャルを発揮できない事もあるかもしれない。
しかし、一番の理由は、セーラ皇女の能力が大きく増幅している事だろう。
セーラ皇女のシミひとつ無い白い肌は、時折、微かにピンク色とも金色とも見えるラメが入ったローションを塗ったような光沢を放っているが、これは、アゾナの神域と同等のものに覆われたせいだろうか。
もっとも、奥院で感じたものと微妙に異なる魔力の波動も混じっている。
この波動は、《闇の魔王子》の心象空間で感じたものと同質の波動だ。
《闇の魔王子》は結界の宝玉を壊したとか言われているが、その結果としてのアゾナ神殿の存続の危機を回避した人物でもあるようなので、具体的には何をどうやったのかは知らないが、今の奥院、央院、外院の多重構造となった城塞都市の再構築にも関係していると考えられる。
多分、その《闇の魔王子》の影響で、奥院から漏れ出る神気が微妙に変質しているものと思われた。
その変質は、凝縮して、はじめて何となく感じられるような微細なものではある。
しかし、ソルタニア皇家の証とも言える髪の色には顕著に影響しているようで、現在のセーラ皇女の髪は青では無くて、メタリックな感じの鮮やかなピンクになっている。
つまり、変質したアゾナの神気は、女性限定で、外観に影響し、また、身体能力と、そして魔力を大幅に引き上げる効果を持っているようだ。
この状態だと、セーラ皇女も魔石を経由する事無く、直接的に攻性の魔法を使えるのは確認済みだ。
もっとも、弊害もある。
セーラ皇女は、周囲に散らばる魔法衣を一瞥した。
素肌に纏う事を考えたようだが、すぐさま断念するのがわかった。
じつは、アゾナの神気が素肌を直接覆っている状態では、衣類を見につける事ができない。
最初に、この状態になった時に、焦って、色々とやってみたのだが、衣類を肌につけた瞬間に、それらはズタズタに粉砕されてしまった。
布だろうと、革や金属だろうと全く同じである。
特に、胸とか腰とか、一番隠したいところが、真っ先に露出してしまうのだ。
それでも、あれこれと試したところ、隠す、と言う点では、何とかなるケースがある事を発見した。
セーラ皇女は行李の中から、真っ先に、「それ」を取り出した。
口元だけが露わになる仮面である。
どうも、アゾナの神気には装身具の一種と解釈されるようで、仮面によって顔を隠す事だけはできるようなのだ。
そして、ゾーガの神紋を封じた首飾りを身につけ、布に包まれた雷戦士の剣を取り出す。
雷戦士の剣は二振りあるが、ぼくが、一度抜いた剣以外の、もう一振りは、いくら試みても抜ける事はなかった。
なので、布の色を変えて識別できるようにしてある。
取り出したのは、むろん、ぼくが抜ける一振りの方だ。
その残りの一振りが突然に輝くと、あっと言う間に消えてしまった。
ぼくは無論、セーラ皇女も驚いたようだが、何が起こったのかを調べている時間は無いようだった。
その時点で、ケインの放った矢の効果が無くなり、光や音が薄れていったのだ。
地面に叩きつけられた召喚魔道士は、すぐさま跳ね起きたが、さすがに唖然としているようだ。
まぁ、確かに、視覚と聴覚を撹乱された途端に、不意打ちを受けたのだ。
そして、視覚と聴覚が戻ってみれば、目の前に、仮面をつけて、妙に肌をテカらせたオールヌードの女性が立ちはだかっていれば、誰でもそうなるだろう。
「な、何者だ?」
召喚魔道士も驚いているが、虜囚となった面々も驚いているようだ。
「だ、誰だ?」
エレナも呆気に取られている。
まぁ、この髪の色と仮面では、敬愛するセーラ皇女だとはわからないのは無理も無い。
サーシャさんは、さすがに何かを感じ取っているようだが、それでも確証が無いようで、ぽわ~、と首を傾げている……のは、いつものことだったかもしれない。
薬師のおばさんやライルさんも驚いていた。
「だ、旦那ぁ。あれは……」
「あ……あー、たぶん、ソルタニアでの召喚魔道士絡みの報告書にあった女性……だと思う」
ライルさんは驚いてはいるようだが、さすがに、報告書マニアな一面を見せていた。
「たしか樵が遠くから目撃している。大量のゴブリン集団の先頭を尋常ではないスピードで疾走していた、と言う。たしか、珍しい髪の色をした……痴女だった筈だが、まさしく、そのようだな」
セーラ皇女は、それを聞いて脱力するのを何とか堪えた。
「仮面をつけて、首から下は何にも着ていない。た、たしかに……痴女だな」
「何を塗っているのかしら。妙にいやらしいわね。本当に痴女よ」
「つまり、《仮面の痴女》ってことかしら」
ジョシュア神殿長や、その他のアゾナ側の虜囚も、自分たちの今の格好を棚に上げて口々に好き勝手に言っている。
セーラ皇女は歯を食いしばって耐えている様子だった。
まぁ、これで絶対に仮面を外せなくなってしまったわけではあるが。
しかし、召喚魔道士は、別の意味で驚いているようだった。
「それは、ゾーガ神の……《厳之霊の剣》!」
セーラ皇女が手にしている布を取り去った剣を凝視している。
「何者かは知らぬが、まぁ、良い。それを渡してもらうぞ。あの『名を呼ぶ事すら許されぬ御方』の仰せだ。確かに、ゾーガ神の干渉は無い方が良い」
その召喚魔道士の言葉に、薬師のおばさんがピクリと反応したようだった。
だが、それを確認しているゆとりはなかった。
召喚魔道士が身振りで指示すると、紅く眼を光らせた騎士の一人が前に進み出た。
その騎士は、信じられないほど大きく口を開けて、絶叫した。
悲鳴とも咆哮ともつかぬ声と共に、その身体が変化する。
筋肉が膨れ上がり、背丈も大きくなっていく。
頭部から、血まみれのねじくれた角が生え、大きく開いた口には牙が伸びる。
鎧等の武具が弾き飛び、そして、その騎士は面影を微かに止めてはいるが、明らかにオーガ型の魔物へと変貌していった。
「この世界の人間の体を魔法陣の代わりとする……融合召喚だ」
壊れたような笑いに顔を歪めて、召喚魔道士は楽しげに言った。
その騎士に続いて、紅い眼の騎士が次々と魔物へっと変貌して行く。
セーラ皇女は一瞬、痛恨の念にかられたようだった。
(我が騎士たち、我が民を守れなかった)
既に殺された騎士達に加え、変貌した騎士達も、こうなっては救う事はできない。
あるいは、憑依された時点で手遅れだったのかもしれない。
カークス卿は、ある意味、身内なので、その人間性も含めて義務感を覚える事はなかったが、それ以外の騎士はセーラ皇女にとって、例え、政治的権限や継承権が無くても、ソルタニア皇家に連なるものとしての義務を負う、その対象だった。
彼らが武人である以上、戦場で死地に赴かせる命令を躊躇うものではないが、意味も無く死に追いやる必要は無い筈だった……
皇女がそうした思いにとらわれたのは、まさに一瞬に過ぎなかった。
最初に変貌したオーガが咆哮と共に襲い掛かってきた時、セーラ皇女は逡巡する事無く、攻性魔法による、白く輝く火の玉を放った。
極めて高温のそれを受けたオーガは、その近くに居たゴブリン上位種やケルベロスともども、骨も残さず瞬時にして灰になった。
アゾナの神気によって、著しく魔力を活性化させたセーラ皇女は、膨大な魔力を右手の指先に収束し、炎の刃を形成する。
万が一にも虜囚を巻き添えにしないように、近接戦闘に切り替えたようだ。
そして、仮面をつけた裸女が恐れる様子も無く魔物の群れに突入する光景を、虜囚となった人々は見た筈だった。
左手の鞘に納まった雷戦士の剣を盾代わりに使い、右手の炎の剣を振るう。
《武の皇女》と異なり、セーラ皇女は、本来、武術の類は苦手なので、魔物の爪や牙、あるいは、腐食性の液体や毒を纏わりつかせた触手などを防ぎきる事はできなかった。
だが、素肌に纏ったアゾナの結界は、それらの攻撃を全て無効にしていた。
これは、外見はともかくとして、魔法衣を遥かに越える、無敵の甲冑とも言えた。
「ぬぅ」
召喚魔道士は低く呻くと、何かしらの合図を出したようだった。
程なくして、南院の方向からも数体の魔物が走って来る。
先ほど、地下空洞に避難している人々を捕らえるために行った騎士達の変わり果てた姿だろう。
それらの魔物も攻撃に加わったが、《仮面の痴女》……じゃなかった、セーラ皇女は次々に撃破していった。
やがて、その場に居た魔物は全て倒され、残るはカークス卿の姿をした“それ”だけとなっていた。
しかし、セーラ皇女の消耗もひどいもので、さすがに息が荒い。
右手の炎の剣も維持するのが難しくなり、消失してしまっている。
「何者かは知らぬが、見事と言っておこうか。だが、だいぶ消耗したようだな。そろそろ限界ではないかな」
一方の召喚魔道士は余裕を見せていた。
虜囚となった人々を人質に取るような真似をしなかったのは、ひとつには、得体の知れない破廉恥な格好ではあるが、強力な魔法の使い手である仮面の女を消耗させる為にも、戦い続けさせる目的もあったのだろう。
事実、セーラ皇女は、体力も魔力も限界に近かった。
「ふむ、《紅の御使い》においで頂き、ゾーガ神の遺物を……いや、まだ、何かを隠しているようだな」
疲れを隠せないセーラ皇女を見やりながら、召喚魔道士は何かを思案しているようだった。
召喚魔道士の言葉にあった《紅の御使い》とは、つまり、紅い神呪騎甲兵の事だろう。
セーラ皇女としては、ダークに交代するタイミングを慎重に図る必要があった。
紅い神呪騎甲兵が先に顕現すれば、こちらは、ゾーガ神の力を借りてダークに交代するだけで、相手をこの世界から弾き飛ばす事ができるのは、既に経験済みだ。
どうやら、神呪騎甲兵は、この世界では、同時に複数は存在できないようだ。
しかし、先にダークに交代した場合、紅い神呪騎甲兵の顕現を押さえ込めるかどうかは未知数だ。
何より、現在の状況では、首飾りの神紋が沈黙したままなので、ゾーガ神の加護を受けられるかどうかもわからない。
この局面で、賭けに出る事は避けたい、と、言うところだろう。
そうした、セーラ皇女と召喚魔道士の無言の駆け引きめいた状況は、以外なところから中断された。
「ちょいと、イズミットの魔道士さん」
いきなり、薬師のおばさんが召喚魔道士に声をかけてきたのだ。
「少し聞きたい事が……ええい、じゃまだねぇ」
おばさんの太い腕が、拘束していた縄をあっさりと引きちぎった。
さすがに、召喚魔道士も眼を丸くしていた。
「この縄にも魔封じの仕掛けがあったようだけど、あたしのは独特なんでね。このやり方じゃ無理さ」
さばさばした表情で立ち上がると、薬師のおばさんは呆気にとられた周囲の視線をものともせずに、腰に手を当てて、カークス卿の姿をした召喚魔道士を見やった。
「あんた……いや、あんただけじゃないね。イズミットにはソグニの連中がどのくらい居るんだい? さっきの『名を呼ぶ事すら許されぬ御方』って言い回しは、そうなんだろ」
「ソグニ? ソグニ教徒か!? あれは、とっくの昔に滅んだ筈だぞ」
それを聞いたライルさんが、驚いて言った。
ジョシュア神殿長も驚いているようだ。
しかし、その他の面々は初めて聞くようできょとんとしている。
むろん、ぼくは言うに及ばず、セーラ皇女も知らないようだ。
「ほう、先代の神殿長だったな。あれだけの情報から、それを読み取るとはさすがと言うべきだが、私も迂闊だったか」
召喚魔道士の紅く輝く眼に剣呑なものが混じった。
「《魔の皇女》の行方は不明だが、ゾーガ神の遺物だけでも手に入れれば良いとしよう。約束どおり、アゾナの民に速やかな死を与えてやる」
紅い輝きが、眼だけでは無く口や鼻からも漏れ出てきた。
まるで、カークス卿だったモノの、身体の内部が、紅く輝くもので満たされているようにも見える。
「《紅の御使い》よ、その御姿を現し給え」
召喚魔道士の絶叫とも言える声が響いた。