7話 静かな朝と
新聞の一面を見て、真里は顔をしかめた。
全国紙だというのに、トップニュースに登ったのはこの街で起きた連続殺人事件のことだった。事故か、殺人かも分からない事件に、世間の注目は高い。
紙面に踊るのは「四人目の被害者」の文字。そして、遺体が発見されたマンションと警察車両の映し出されている写真。立ち入り禁止のテープが妙に生々しく映っていた。
学校の文集かなにかから切り抜いてきたのだろう。下の方に被害者となった女の子の写真が貼りつけられていた。
キッチンの横にあるドアが不意に開かれた。
「おはよう」
「・・・おはよう」
真里が呼びかけると弟の眠そうな声が返ってくる。
産まれるまで女の子と信じられていた彼は、母親のお腹にいるときから決まっていた名前があった。産まれて驚いたものの、両親はその名前で強行したようだ。おかげで彼は女の子のような名前だとからかわれている。
弟には悪いが、産まれるまで男の子だと思われていた真里は「マサト」と名付けようとして思いとどまってくれた事に感謝している。
「遅くまで勉強していたの、亜夜?」
「ああ、うん。一応受験生だからね」
「推薦で来ればいいのに。亜夜くらいならうちの学校楽勝でしょう?」
「うん、でも、フェアじゃない気がするから」
「真面目ね」
かく言う真里も一般入試で受験をした。
総代にこそなれなかったが、それなりに良い成績だったと聞いている。
亜夜は冷蔵庫から牛乳を取り出すと少し上げて示した。
「姉さんは?」
「もらうわ。甘めにお願い」
「ん、了解」
そう言うと彼は二つのカップに注いで電子レンジにかける。ホットミルクを作るときは、鍋よりもレンジの方が便利だ。
「母さんは、またゴミ出し?」
「うん、だから暫く戻ってこないと思うわ」
「近所づきあいも大変だね」
「楽しんでいるからいいんじゃないの?」
真里はくすくすと笑う。
ゴミ出しに行くと母親は二、三十分は戻ってこない。近所の主婦の井戸端につき合っているのだ。「嫌だ」と言いながらもゴミ出し時間をずらしたりしないところを見ると、彼女のそれなりに楽しんでいるらしい。
「・・・四人目?」
不意に亜夜に問われ、真里は彼を見る。
新聞の記事のことを言っているのだ。
「ああ、うん。連続殺人事件の・・・って、朝からする話じゃないわね」
「何度も言うけど、遅くなるようなら迎えに行くからね。タクシー使ってもいいから、とにかく安全第一で帰ってきてよ」
「分かっているわよ、心配症ね」
「姉さんは危なっかしいから」
「失礼ね」
真里は亜夜を睨み付けた。しかし、口元にどうしても笑みが浮かんでしまい、凄みが出ない。
弟の気遣いが嬉しくもあったのだ。
ポン、と小気味のいい音を立ててトースターのパンが跳ね上がる。香ばしく焼き上がったパンを皿に取り、一方にはバターとハチミツ、もう一方にはマーガリンとジャムを塗る。
亜夜は昔からイチゴジャムが好きなのだ。
「ありがとう」
「いえいえ。そっちも出来そう?」
「あと十秒」
ピー、と加熱終了を知らせる音が鳴って亜夜はミルクを取り出す。
片方にはグラニュー糖を加え、かき混ぜる。
「はい、完了。・・・あ」
カウンターにカップを二つ並べて亜夜が口元を押さえる。
「どうしたの?」
「今日、飼育当番なの忘れてた」
「あらら。じゃあ少し早く出ないとダメね。でも」
「でも?」
真里は天野家で定番になっている言葉を言う。
「朝食はゆっくり、ね?」
「はいはい」
言われるだろうと思っていた亜夜は、笑って自分の指定の場所に座った。
※ ※ ※ ※
結局昨夜は一樹のアパートに泊まった。
ベッドを置けば部屋の半分くらいは占拠されてしまう四畳半は男の一人暮らしにしては綺麗な方だろう。それは一樹がきれい好きだからと言うわけではなく、単にこの部屋に帰ることが少ないからだということが推測できた。
「おい、学校どうする?」
ベッドに座り、雅斗は一樹を足でつついた。
毛布にくるまって寝ていた彼は眠そうな声で問う。
「んー、一限なんだっけ?」
「現国」
「やーすーむー」
そう来るだろうと思っていた雅斗はあまり気にもせずに頷く。
「分かった。先生に伝えておく」
「うん? 何だ、お前は行くのか?」
「一樹と違って真面目なんだよ、皆勤賞狙ってるんだ。ん、起きるのか?」
裸の上半身を起こしてぼさぼさの髪をかき上げる。
学校に行かないのなら無理に起きる必要もないだろう。
「やっぱ俺も行く」
「・・・何だよ、気持ち悪いな」
「つれないねぇ、一晩を共にした仲なのに」
雅斗は鼻で笑う。
「同じ部屋で寝ただけなのは修学旅行と大差ないだろ」
「俺、この部屋に人を泊めたのお前が初めてだぜ?」
「それは随分破格の待遇で」
「だからお前は特別な存在なんだよ、ハニー」
「人を甘ったるい名前で呼ぶなよ。・・・洗面所かりるからな」
「ちゃんと返してねん♪」
「おまけ付きで返してやるよ」
定番の会話を交わして部屋を出る。
四畳半を出るとすぐにキッチンと玄関が見える。その脇にあるのが洗面所と風呂場だった。廊下などという無駄なものは一切排除されている。
キッチンを通って洗面所に向かおうとしたちょうどその時だった。
こんこんと扉を叩く音が響く。
このアパートにはインターホンが無いのだ。
「出てー」
部屋からやる気の無さそうな一樹の声。
「お前な」
「この格好じゃ出られないもん。どうせ大家か何かだから気にするな」
「・・・たく」
仕方なく雅斗は鍵を開け扉を開く。
「はい、どちら様?」
雅斗が出ると相手は一瞬驚いたようにした。
女の人だった。眠そうで、気怠るい雰囲気のある女性だったが、目の奥には微かに鋭いものが混じった人だった。
二十代前半くらいだろうか。パンツスーツを着ているのでもう少し年上のようにも見えるが、顔立ちは若々しい印象を受ける。元々童顔なのだろう。そうだとすれば彼女は二十代後半にも見えた。
一樹の恋人の一人だろうか。
「一色一樹くんはいるかしら?」
彼女はにこりと笑う。
「いますけど、今はちょっと出られません」
彼女は笑顔を崩さないまま命令する。
「すぐに出して」
「え?」
「いるなら、すぐに出しなさい」
笑顔で言われているのに、有無を言わさぬ感覚に襲われ雅斗は一樹を振り返る。
異変を察知したのかTシャツを着た一樹が四畳半から顔を覗かせる。
「誰?」
彼女を目にした一樹は口笛を吹く。
下品に聞こえるはずの音だったが、悪意を感じないために、それほど粗悪に聞こえなかった。ちらりと女性を振り返ると彼女は気を悪くした様子もなかった。
「朝からラッキーだなぁ。お姉さん、会ったこと無いはずだけど、俺に何か用?」
「捜査にご協力願います」
「・・・・え?」
彼の表情が凍り付く。
彼女は懐から警察手帳を取り出して開く。
盗難防止のためか、紐の付いた警察手帳はドラマで見る物とは少し違う。本物かどうかは分からなかったが、そこに添付されている写真は紛れもなく彼女だった。
溜息をついて彼は心底残念そうに呟く。
「岩崎、愛? 刑事さんだったのか」
「何を残念がっているのか知らないけれど、任意同行してもらうわ」
「美人の誘いなら喜んで♪ って言いたいところだけど、勤勉な俺はこれから学校」
よく言うよ、と小声で突っ込みを入れると一樹が睨んでくる。流し台にもたれかかって雅斗は肩をすくめた。
「あなたの担任には快く許可を頂きました。心配する必要はないわ」
「任意同行って任意なんだろ?」
「任意よ。でも、強制執行しても構わないのだけど」
「罪状は?」
「飲酒、喫煙、ギャンブル、ケンカは立派な傷害罪だし、器物破損、不法侵入・・・他には売春とか?」
「してねーよ」
最後のだけは否定するところを見ると、他は心当たりがあるらしい。
雅斗はたまらず吹き出す。
「とにかく、優しくしてあげるから、一緒に来なさい?」
優しく言われれば言われるほど不気味な言葉ってものはある。
すっかり鼻白んだ様子の一樹は駄々を捏ねる子供のようにとんでもない条件をだした。
「・・・・雅斗も一緒じゃなきゃヤダ」
精一杯の抵抗のつもりなのだろうか。いくら何でも事件に関わりのない彼が一緒に行くなんて無理だ。
そういう事も見越して言ったのだろうが、それはいともあっさり許可される。
「いいわ。捜査協力は公欠扱いになるから問題はないわね、雅斗くん?」
「え? あ・・・はい」
いきなり自分に振られて反射的に頷いてしまった。
恨めしそうに一樹が女刑事を睨む。
「・・・汚ねぇ」
「大人ってそう言うものよ、知らなかった?」
女刑事は朗らかに笑った。