28話 消失
みしり、と天井が音を立てた。
黒い翅に赤い斑紋を散らした不気味な蝶が渦を作るように飛び回っている。チカチカと廊下の蛍光灯が激しく揺れる。
「・・・沢田」
「え?」
江田は天井から視線を外さずに腕を掴む尚の手を握った。
「逃げた方が良い。この蝶は普通じゃない」
ぞくり、とする。
真剣に言われるだけ、余計にその異常さがわかる。確かにいま目の前に大群でいる蝶は普通ではない。
第一、蝶に牙や爪があっただろうか。
「立てるか?」
耳元で囁かれる声は低い男の声。こちらを気遣っているように優しい。
「だめ・・・腰が抜けちゃって・・・・」
「ゆっくりでいい。肩を貸すから、せめて部室を出よう」
「・・・・うん」
彼に支えられ尚は何とか立ち上がる。
こんなに誰かを頼りにしているのは初めてだった。むしろ自分は後輩達に頼られる立場で、誰かに何かをしてもらうとか、人を頼るということが恥ずかしいことだと思っていた。
なのに、今は江田がいなければどうしようもない。
あのままどうなっていたか、想像しただけでも青ざめる。
尚は江田を見る。
「・・・あ、・・・あれ?」
初めて間近で見る彼の横顔。
「どうした?」
「え? あ、誰かに似ているような気がして」
「そんなこと言っている場合か?」
呆れたようにいって彼は視線を逸らす。確かに、そんなことを言っている場合ではなかった。
ねっとりとした赤い液体が天井から垂れる。
合図に、周りにいた蝶が一斉に飛び立った。
「うわっ!」
たまらず江田が唸った。
彼のジャケットが尚の視界を覆う。
「伏せろ!」
どこかで聞いたような声。
同時に尚は無理矢理床に伏せさせられた。
ごお、っと炎が風にあおられた時と同じ音がする。
「うわっち!」
「?」
伏せた状態のまま、視線を向けると、そこには金髪の男が立っている。一色一樹だ。彼の手にはスプレー缶が握られ、足下にはライターが落ちている。
何かが焦げたような嫌な匂いを放ちながら黒い残像がハラハラと床の上に落ちる。
一色は片手を振りながら痛そうな表情をする。
「うぇーん、やけどしちゃったよぉー」
「だから止めておけって言ったんだよ。・・・大丈夫ですか、先輩」
「・・・・有賀くん?」
尚は驚いて目を剥いた。
あの電話は繋がっていたのだ。だが、電話を受けて家から駆けつけるには時間が早すぎる。まるでどこかで待機していたような迅速さだ。
彼はしゃがみ込んで二人を見た後ちらりと天井を見上げ、再び二人に視線を戻した。
「何とか、間に合ったようですね。怪我は」
「かすり傷程度だ。それより、お前らなんでここに」
「説明は後です」
きっぱりと言って彼は立ち上がる。
手には小刀が握られている。
彼は天井を睨みながら親友の名前を呼んだ。
「一樹」
「オッケー♪」
喜々として一色は床に転がっているモップを手に取る。
お互いに何か確認しあうように目配せをした後、一色が先に走った。
モップで天井を抉るように殴りつける。
強い力で叩かれたサナギが奇妙な音を発する。まるで黒板をひっかいた時のような甲高い嫌な音。
血しぶきと共に、サナギが天井から剥がれる。
雅斗が動いた。
糸一本の力で天井からぶら下がる形になったサナギに、鈍い光を放つ小刀が突き立てられる。
刹那、まるで爆発でも起こったかのような強い風がサナギから吹き出す。
「!!」
雅斗と、一色の身体が宙を舞った。
床に伏せていた尚と江田でさえ強い風に吹き飛ばされそうになり、必死に堪える。
どこからか、子供の泣くような声が聞こえる。
やがて、風は止み、からん、と何かが天井から落ちた。
「昆虫針?」
雅斗は天井から落ちてきた小さなピンを拾い上げる。
それは標本を作るときに使われる細い針のようなものだった。長さは4センチくらいでそれほど長くはない。まるであの巨大なサナギをこれで貼りつけていた、とでも言うように何本も落ちている。
サナギは、消えていた。
代わり、天井には血のようなもので蝶が翅を広げたような紋様が描かれ、焦げた黒い蝶が床に散らばっている。
部室内は蝶と昆虫針以外の全てのものが壁際に飛ばされスチール製のロッカーでさえも大きくひしゃげていた。人が飛ばされる程の強風に金属すら堪えられなかったのだろう。
「・・・一体、何がどうなったんだ?」
のろのろと起きあがって江田は頭を振る。飛んでくるものから沢田を守っていたのだろう。彼は痛そうに肩を撫でた。
雅斗は首を振って分からないと示す。
「ともかく助かったのだけは確かみたいだけどな」
椅子や机に埋もれて身動きの取れなくなっている一樹が楽観するように笑う。
実際、あのサナギが消えたのは事実だ。あれが一番危険だったのだとすれば、ここは助かったと考えるのが妥当だ。
雅斗は少し表情をゆるめた。
跡形もなく消え去ったサナギが消滅したのか、どこかに逃げたのかは分からないが、この部室の有様を見ればあれが夢では無かったと言うことが分かる。
一口で説明出来ない事が立て続けに起こっているが、それの全ては紛れもない真実なのだ。
「助けに来てくれたんだね、有賀くん」
沢田に言われ雅斗は彼女に視線を向ける。
潤んだ瞳で見つめられて少したじろいだように一歩下がる。
「で、電話をもらったとき、すぐ近くにいましたから。俺なんかより、江田先輩にお礼を言ったらどうですか?」
「江田に?」
彼女は複雑な表情を浮かべて江田を見る。
顔や手に傷を作っている彼はメガネをかけ直し何とでもないという風に視線を逸らす。
「別に、感謝されたいわけでも恩を売りたい訳でもないから、礼なんか必要ない」
「しーちゃんったらー、そんな可愛くないこと言ってると、女の子にもてないぞ☆」
「俺を好色のお前と一緒にするな」
もてたくて助けたわけではないとでも言いたげに顔をしかめる。
にやにやと笑いながら一樹は江田から離れ雅斗の首に抱きつくように腕を巻き付かせた。
「ふうん? それよりさー、この状況どうすんの?」
荒らされた部室は何も無かったでは済ませられない。
かといって他の人に説明して信じてもらえるとも思えなかった。
「・・・取り敢えず、先生呼んで来るわ」
「俺も行こう」
「別に来なくても良いわよ」
沢田にきっぱりと切られたが、肩をすくめただけで彼は彼女の後をついていく。
二人がいなくなった部室で雅斗は床に転がった短刀と鞘を探す。
割とすぐに見つかった小刀は刃こぼれも油膜も出来ていない綺麗な状態だった。勇気から預かったこれがあったから救われたのだ。
「綺麗なまんまだねぇ」
「ああ、幻でも斬った気分だよ」
「幻だったとしても、あれはただの幻覚じゃねぇよ」
刃を鞘の中にしまうとかちりと音を立てる。
「うん、あれはただの幻覚じゃなかった」
雅斗は頷いて小刀を隠すように背中とベルトの間に挟み込む。
あれは幻覚ではない。
そして事件はまだ終わってもいない。
(だけど、もうすぐ終わる)
雅斗は目を長く瞑ってそう確信した。