27話 羽化
夜も遅くなると風は冷たい。
外気に晒されている頬と鼻先が冷たくて自然とペダルを漕ぐ速度も速くなる。
テスト前ということもあって部活もなく早く帰ったものの、課題を部室に忘れた事に気付いた尚は慌てて家を飛び出した。
明日提出をしなければならないものでなければわざわざ風呂上がりに学校に向かうこともなかった。忘れたのは自分自身なのだが、誰かに八つ当たりをしたくてイライラとしていた。
唯一の緩和剤はヘットフォンから流れるクワトロの曲だろう。
好意を寄せている雅斗と急接近したのは、このCDのおかげなのだ。元々好きな曲だったが余計に好きになった。聞いていれば少しだけ腹の虫も治まってくる。
夜の学校はまだ教師が残っているらしく、所々明かりがついていた。用務員に断って尚は部室凍へ急いだ。
最近この辺りで女の人が度々殺されている。自分はその被害者にはならないだろうという自負は根拠のないものだ。人が近くにいるのだから安全だろうと思いながらもやはり一人で歩くのは心細い。
尚は無意識に音楽のボリュームを上げる。
人気のない部室は電気を付けても薄暗く、気味が悪い。昼間でさえ人がいなければ不気味に思うのに、夜ともなればなおさらだ。
あまつさえ廊下では切れかかった蛍光灯がチカチカと点滅している。
「・・・どうして誰も替えないのよ」
尚はイライラと蛍光灯を見上げて自分のロッカーへと向かう。
課題は確かロッカーの中のファイルにしまったはずだ。
がたん。
「!」
尚はびくっとして振り返る。
後方で風にあおられたドアが音を立てて揺れている。彼女はほっと胸をなで下ろした。
(何びくびくしているのよ。何かあるわけが無いじゃない)
こうなってくると何もかもが腹立たしく思える。
何より、恐がりな自分に腹が立つ。
(・・・・? 蝶?)
不意に視界の端に何かがいるのが見えて彼女はそれを目で追った。
蝶だった。
アゲハチョウだろうか。
引き裂かれたようにボロボロになった翅を羽ばたかせて飛んでいた蝶はふらふらと力尽きるように床に落ちる。
部室で誰かが飼っていた蝶が逃げ出してここまで来たのだろうか。春先でもこういうタイプの蝶を見ることは滅多にないだけに、冬場の蝶は珍しい。
翅さえボロボロでなければ立派な蝶だったのだろう。
無意識に蝶の行方を追った尚は落ちた蝶の姿をみてぎくりとする。
床が、赤黒い。
水たまりの中で蝶がもがく。
ぽたり、と天井から何かが尚の額に落ちた。
嫌な予感がして尚はそれを拭った。
「ひっ・・・!」
血だ。
拭った指先が赤く染まる。
おそるおそる尚は天井を見上げた。
「きゃあぁぁ!!」
天井は蝶でびっしりと覆われていた。
さっきまでは無かったはずだ。
突然現れたとしか思えない蝶の大群は不自然に盛り上がっている。
脈打つような蝶。
それが覆っているのは不自然に大きなサナギ。
羽化して羽を広げれば一メートル近くになるだろうか。
背中から腰、そして足にかけての力が一気に失われ、尚はその場に座り込んだ。
「・・・うそ・・・・、腰抜けた?」
立ち上がろうと思っても思うように力が入らない。
逃げなくてはと、思う。
みしり、と天井から嫌な音がした。
「!」
尚は慌てて携帯電話を手に取る。
震える手で雅斗の携帯を検索する。何かあったら電話を下さい、そう言って雅斗は自分に携帯の番号を教えてくれた。
今、助けを求める相手は彼しかいない。
ヘッドフォンを外し電話を耳に当てると、耳障りなコールが響く。
(早く・・・早く出て!)
コールの音を聞きながら彼女は祈った。
ぷつ、と音を立てて、電話が繋がる。
すぐさま尚は電話に向かって叫んだ。
「有賀くん、助けて! 今、部室にいるんだけど、蝶の大群がいて、私、腰抜けちゃって、・・・ええっと、それから・・・」
ぷつ、
電話が切れる。
尚は慌ててディスプレイを見た。
「・・・うそ、圏外・・・・」
血の気が、一気に引くのが自分でも分かった。
サナギの、薄い膜の中から蝶の目がこちらを見下ろしている。まるで意思があるかのように微笑んで見えた。
残忍な微笑み。
「!!」
黒い大群が塊になって動いた。
集団になって尚に向かってくる。
尚は反射的に目を瞑る。声は、悲鳴にすらならなかった。
ばさばさ。
「・・・・?」
奇妙な音が聞こえた。
おそるおそる目を開いた尚は予想していたようなものとは別の感触があるのを知って驚く。
「・・・・大丈夫か、沢田」
低い声。間近に顔があった。
良く見知った顔。
助けが来たのにほっとするのと、彼のあまりにも優しい声に泣きそうになる。
ぐっとこらえて尚は彼を、江田を睨んだ。
「な、何であんたなのよ」
尚は言ってすぐさま後悔した。助けに来たのが江田だった事にほっとして不覚にも泣きそうになった。それを紛らわせるために毒づいてしまった。せっかく助けてくれたのに、これでは嫌な奴でしかない。
江田は呆れたような、わずかにほっとしたような複雑な表情で笑う。
「お前な、それはないだろう?」
「あ・・・」
ありがとう、という言葉が出ない。
代わりに尚は江田の腕を掴んでいた。彼はこんなにたくましい男だっただろうか。尚は彼を見上げる。
頬に一筋の赤い線が入っていた。
「・・・怪我して・・・」
「ああ、あいつら、牙か爪を持っているみたいだ。・・・普通の蝶じゃないようだな」
彼は天井を睨む。
蝶がばさばさと音を立てて飛び交う。新たに来た男に警戒しているのだ。
尚は彼の横顔を見つめる。
普段はあんなに何かに怯えるようにおどおどしている男だ。無口で暗くて何を考えているのかも分からないような男。煮え切らないような態度が気に入らず、嫌味ばかりを彼に言ってあろう事か手を上げてしまった。
それなのに彼はそんなこととは関係なく自分を助けてくれた。
みしり、と再び不吉な音がして尚は震えた。
江田も驚いたように天井を見上げる。
「・・・・羽化する?」