20話 辿り着く場所にあるものは
「・・・・!」
雅斗は覚えず口元を覆った。
酷く嫌な匂いがした。
亜夜を見ると彼は平然とした様子でいた。匂いに慣れているのか、あるいは感じていないのかどちらだろうか。
天野の家はすえたドブでもかぶったかのような異臭がしている。家の真下に死体でも埋まっているのではないかと疑いたくなる程だ。
近隣住民らしい中年の男が犬を連れて通り過ぎる。彼もまた、その匂いに何の反応も示さなかった。
「ここです」
亜夜は自分の家を示して言った。彼の表情を見て怪訝そうにする。
「・・・どうかしたんですか」
「いや、何でもない」
改めて家を見上げる。どこにでもありそうな、ごく普通の二階建ての一軒家だ。築年数が浅いのだろう。壁も門扉も古びた所は見受けられない。
しかし、その周囲には赤黒い空気がまとわりついている感じがした。
ぽたり、ぽたりと血が落ちるように何かが玄関先の石畳を汚している。
蝶の死骸だ。
ざり、と音を立てて亜夜が蝶を踏む。
普通の感覚なら当然気持ち悪いと思い踏まないように注意して進むだろう。彼には全く見えていないのだ。
「上がって下さい。両親は今警察に行っていますけど」
「ああ」
雅斗は頷く。
「雅斗兄ちゃん!」
呼びかけられて雅斗は振り向く。
「勇気」
息を切らして走ってきた少年は、家の前に立つと一瞬ひるんだような表情を浮かべる。雅斗と同じように蝶の見える彼は、おそらく何かを感じたのだろう。慌てて表情を改めるが明らかに動揺した様子だった。
「変な感じがして・・・・来てみたんだけど、まさか?」
さすがに勘が良い。
少年は雅斗の表情を見て事態を確信したように嫌な顔をした。
「・・・・僕のせいだ」
「そんなことはないよ」
「だって、あの時あの曲を聴いていたから・・・・」
「噂が本当だっていう証拠がない以上、勇気のせいには出来ないし、そうなれば俺にも責任はある。まだ決めるのは早すぎる」
「でも・・・」
勇気は項垂れた。
「・・・噂って何ですか?」
「小学生の噂話だよ。ある曲を聴くと死ぬっていう。偶然、天野はそれを俺の家で聞いたんだ」
「え?」
包み隠さずに言うと、亜夜は何とも形容しがたい表情を浮かべる。
一瞬の間に頭の中で色々と考えたのだろう。彼は何度も瞬きをしてやがて頭を振った。
思ったより頭の回転が速いらしい。衝撃からすぐに立ち直った様子の彼は訝る様子もなく二人を見つめた。
「僕は、姉が生きていると信じています。例え・・・・例え噂が本当だったとしても、雅人さんや勇気くんには責任はありません。上がって下さい。良ければ勇気くんも」
彼は促すように家の中を示した。
「あ、お兄ちゃん」
亜夜が振り向く。
ポケットの中からマスコットを取りだして勇気はそれを彼の前に出した。亜夜の目が見開かれる。
「これ・・・」
「前に、コンビニの近くで拾った。お兄ちゃんのだろ?」
小さいマスコットだ。
手作りの、おそらく亜夜をモチーフに作ったものだ。
宝石でも扱うかのように丁寧に亜夜はそれを受け取る。
「ありがとう、無くしたと思っていたんだ。・・・姉さんが作ってくれたんです」
嬉しそうに握りしめてもう一度礼を言う。
彼の足下から何かが舞い上がって消えた。
天野の部屋に近付くに連れてその匂いは濃くなっていく。そして蝶の死骸の量もまた増えていった。
導かれるように雅斗は二階に上がり天野の部屋の前に立つ。“MARI”と書かれたルームプレートの上で蝶が羽を休めている。その動きは弱々しく力を感じない。
亜夜に許可を取って部屋をあける。
「う・・・」
後方で勇気がうめいた。
部屋にはまるで赤絨毯のように蝶の死骸で道が造られている。この光景を見て何の反応も示さない所を見るとやはり亜夜にはこれが見えないようだ。
「雅斗兄・・・クローゼット」
「わかっている」
雅斗は頷いて中に入り、蝶の絨毯の横を通ってクローゼットに向かう。
不思議そうに亜夜がその様子を見守った。
クローゼットの取っ手に手をかける。この中に何かがある。振り向くと確認するように勇気が頷いた。再び彼は視線をクローゼットに向ける。
鼓動が早くなる。
ねっとりとした嫌な汗が背を伝う。
雅斗はクローゼットをゆっくりと開く。
刹那、
「・・・!」
「わっ」
「っ!!」
突風だった。
せき止められていた水が一気に放出されるように、中から蝶の大群が飛び出す。それは強い風を伴い、部屋のなかを駆けめぐる。
壁に掛けてあった額を跳ね飛ばし、机に置かれていた紙を吹き飛ばす。雅斗の後方で不可視の蝶に激しく責め立てられた亜夜がバランスを崩して転倒する。戸口で勇気がうずくまった。
雅斗は顔を覆いその蝶の嵐に耐える。
逃げるように、惑うように蝶達は四方八方あらゆる方向に向かって跳び続ける。クローゼットの中に入っていたにしては明らかに多すぎる蝶達は部屋中を赤黒く染め上げるほどに充満する。
やがて蝶の大群は、仲間の死骸をも吹き飛ばし、壁に激突して絶命する。そしてゆっくりと壁や床に吸い込まれるようにして消えた。
風が収まり部屋に静けさが戻った。
動揺を隠せない様子で亜夜が呟いた。
「・・・・今のは、一体」
雅斗は答えずクローゼットの中を凝視した。
慣れたのか、あるいは薄らいだのか、あの嫌な匂いはあまり感じなくなっていた。
震える手で携帯電話を探す。
「警察に、こういう事を信じてくれそうな人がいるんだ。その人に、連絡をとる。行方不明事件だけど、きっと動いてくれる」
「・・・・誰なんですか?」
亜夜に問われ雅斗は答える。その声は勇気と被さり二重音声になる。
『岩崎愛』
雅斗は驚いて勇気の方を見た。
顔色悪くうずくまった少年は肩をすくめて笑った。
「・・・・母さんだ」