0話 捜査開始
彼女はじっと壁に掛かったからくり時計を見つめていた。
定められた時間になると時計の中から人形たちが現れて、踊ったり音楽を奏でたりするタイプのからくり時計だった。
あと数分で動き出す、と言ったところで時計の針は止まっている。
動かないのを知らずに待ち続ける子供のように彼女はじっとその時計を見つめていた。
その彼女を見守っている伊東はいつか彼女が「可愛い人形のダンスが見たいわ」と言い出すのではないかと内心冷や冷やしながら立っていた。
その発言はこの場には相応しくない。
「ふぅん……動かないのね」
彼女は言って伊東の方を向く。
「壊れているの? それとも電池切れ?」
「調べてみなければ分かりませんが」
「なら、鑑識さんに頼んで調べてもらって。お人形の歌が聴きたいの」
ダンスではなかったが、彼は少し目眩がして頭を押さえる。
どうしてこの人はこうも不謹慎なことが平気で言えるのだろうか。
このからくり時計の主人は今朝殺されたばかりなのだ。先に起きた二件の事件同様の形で発見され、連続殺人事件の可能性が強まっていた。まだ、遺体が床に転がっていた痕跡が残されているのに、目の前の女性は不謹慎にもからくり時計ばかりを気にしている。これで名刑事と呼ばれるのだから日本の警察も落ちたものだ。
気怠そうな雰囲気のある彼女の名前は岩崎愛。制服を着ていれば女子高生と言ってもあまり無理のない外見をしているのだが、実際は三十路を越えていて小学五年生の息子がいると聞かされて驚いた。
女性でこの年で警部というのだからキャリアかそうでなければよほどの天才なのだろうが、普段の勤務態度を見ていてもとても警部には見えない。いや、警官にすら見えない。
事件性のある死体が発見された時だけは現場に出てくるのだが、それ以外は寝ているか本を読み続けているだけという究極のマイペース不良婦人警官だ。初めて彼女を見た時は唖然としたのだが、所長に「彼女はそのままでいい」と言われていたので口を噤んだ。
わがままで気ままな警官。殺人課の刑事ということもあって一般市民の前に出ることはあまり無いのだが、この人が派出所にいたのなら、非難の声があがってもおかしくない。
警部と呼ばれるのが嫌で所長にまで「愛ちゃん」と呼ばせる。彼女のわがままは大抵通ってしまう。実力があってなのか、それとも女の武器を使っているのか。彼はまだどちらなのか判断出来なかった。
彼女がちゃんと仕事をしていることを殆ど見ていない伊東はこんな人の部下になってしまった自分を不憫に思った。
「それで、イトメちゃん、被害者はいつもの通り?」
「はい、死亡後に腹部が切り裂かれていたそうです。前二件と同様に首筋に歯牙で噛まれたような跡が見られます」
毒物ははっきりしていないが、死体の状況から神経系の毒物による中毒死であることは間違いない。毒のある動物に噛ませて殺害した後、腹部を切り裂いて逃走、というのが本部の意見だ。もしも腹部が切り裂かれていなければただの事故として処理されていた可能性も高い事件。派手に切り刻む訳でもなく、死体を隠すわけでもない。珍しいケースでもある。
手帳に書いたメモを覗き込んで岩崎は小さく唸る。
「ふぅん。吸血鬼が人間を解体でもしたのかしら? どう思う、イトメちゃん?」
「気色悪いことを聞かないで下さい。・・・それにそのイトメって嫌がらせですか?」
根が真面目な伊東はこういう態度を取られると上司にもかかわらずついつい攻撃的になってしまう。数年前の自分だったらもう辞表を提出していたかもしれない。
「さっきね、部長が‘伊東め、せっかく愛ちゃんと組むのにあの態度は何だ!’って怒ってたからイトメちゃん」
説明がよく分からないのだが、どこから突っ込めばいいのかもよく分からない。
「目が細いっていう嫌味じゃないんですか?」
「やだ、ひょっとして気にしているの? 格好良いじゃない、私のダンナも目が細い人だけどとっても格好いいわよ、今度写真見せてあげる」
「結構です!」
鋭く言って踵を返す。
怒ったところでどうせけろっとしているような人だから怒ったところで意味がない。警官同士がケンカしている場合でもない。ここは自分が大人になってこらえるしかない。
意を固めた時、後ろから言葉がかかる。
「鑑識に時計のこと頼んでね」
「時計の修理屋に頼んだ方が良いんじゃないですか?」
「おバカね、あなたそれでも警官? おじいさんの古時計じゃあるまいし持ち主の死亡推定時刻にタイミング良く壊れる時計なんてあると思っているの?」
「あ・・・」
「疑わしいものを全て調べるのが私たちの仕事、現場に100回でも足を運べって言葉あるけど100回も足を運ばなきゃ事件解決出来ないならだめだめよ。いい、伊東くん、事件を解決したいのなら、少しのヒントも見逃しちゃだめよ」
血が上って大切な事を忘れるところだった。
伊東は表情を引き締める。
「はい」
「毒物による殺人。自分の獲物だと言わんばかりの傷。ただの快楽殺人なら次第に派手になっていっても良いはずなのに、程度は一定。猟奇的と呼ぶには少し物足りない感じがするわね」
「不謹慎ですが、確かにそうですね」
「この事件は」
岩崎は腰に手を当てて部屋を睥睨する。
「私たちが知っているような事件じゃない。そして、私の勘が正しければ、人知を越えた何かが潜んでいる事件」
「え?」
「心霊事件なのよ」