13話 ジャコウアゲハ
図書館でも蝶の図鑑というものは意外と少ない。
児童書のコーナーと一般の図鑑などが置かれている場所を回って何冊かの本を見繕い椅子に座る。
市立図書館に来るのは随分と久しぶりだった。最近ではCDの貸し出しも行っているらしく、カウンターからすぐに見える位置に棚が置いてあった。そしてその近くにはインターネットを利用できる環境も整っており、昔より随分と環境が良かった。
本当なら本で調べながらネットも利用したいところだったが、生憎今日は小学生達が占拠していた。
どうやら今日の小学校は短縮の授業らしい。
好き勝手に騒ぐような小学生達でなかったのは救いだった。
雅斗は図鑑を広げる。
蝶の写真がずらりと並ぶ図鑑は、他の動物図鑑などと同様に写真の横の限られたスペースに名前と生息地、三、四行の簡単な説明が加えられただけの簡単なものだ。大抵こういうものは小学生向けに作られているので、細かい説明は必要ないのだろう。
バラバラと図鑑をめくるとあるページで彼の手は止まった。
(ジャコウアゲハ)
それは黒い翅に赤い斑紋を散らしたような蝶。
雅斗の見た蝶とは少し形は違ったが、他の蝶よりよく似た形態をしている。アゲハの種類だけでも何百種類を超えるために、そこに掲載されているジャコウアゲハはほんの一握りだけなのだろう。
もう少し詳しい図鑑が見られたのなら、あの蝶とほぼ同じ蝶が見られるような気がして少し残念に思う。
博物館で標本が見られれば良いのだが、簡単に出かけられる距離にはなかった。
雅斗はジャコウアゲハの簡単な説明を見る。
(・・・・有毒?)
それはジャコウアゲハの種類に共通してある特徴だった。
別の図鑑を出し、ジャコウアゲハの欄を開く。そこにはもう少し詳しい内容が乗っていた。
(ウマノスズクサを食べるために体内に毒素が蓄積される)
雅斗は立ち上がり、今度は草花の図鑑を調べる。
(ウマノスズクサ・・・・有毒。ジャコウアゲハなどが好んで食べる。・・・アリストロキア酸等のアルカロイド。薬草としての歴史もある)
注釈の欄に目を落とすと、中毒症状についての説明が載っていた。
腎障害、多量の服用は血便の原因となりひいては呼吸困難、停止に至る。
他の図鑑を開いてもどれも似たような事柄が記されていた。総合して見ると、別に蝶に触れたからと言ってかぶれたり、中毒症状を引き起こす訳でもなく、ウマノスズクサを服用したからと言っても死ぬ確率の方が低いようだ。
蝶を大量に「食べる」なんてことがない限りは人は死んだりしない。
(・・・・関係ないのか?)
あれだけ似ているのだから、ジャコウアゲハの種類である可能性も高い。だが、だからといってその有毒性が彼女たちの死に関係あるとは思えなかった。
仮にあれが不可視の存在でなくても、だ。
目を閉じてもう一度あの蝶の事を思い出す。
意図的にゆっくりと思い出せばあの禍々しい蝶でも客観的に見ることが出来た。人の死のすぐ近くにある蝶。人には見えない。自分にしか見えない蝶が人を殺すのか、それとも人を殺した近くに蝶が寄ってくるのか分からない。
そしてあの赤い皮。
サイズや色はともかく、蝶の幼虫が脱皮した後のように思える。
あれだけは現実に存在していた。
(あれの本体に、死の蝶が引き寄せられているのか?)
だとすると、六年前に雅斗が蝶を見たあの事件の時、側に同じように抜け殻があったのかもしれない。
「だから言っただろ、図書館にあるわけないって」
不意に声が聞こえて雅斗は顔を上げた。
雅斗の位置からはちょうど本棚の死角になって見えないが、貸し出しカウンターの所から小学生らしい男の子の声が聞こえる。
「ごめんなさいね、貸し出しているCDは認可を受けたクラシックが中心なの」
「そっか、残念だな、地元だからあるかと思ったんだけど」
「もう止めろよ、晴久。大体聞くだけで死ぬCDなんてあるわけ無いじゃないか」
‘晴久’は残念そうに答える。
どうやら小学生が何か都市伝説を確かめるためにCDを借りに来たらしい。そう言えばああいうものに夢中になった時代もあったな、と少し懐かしく思う。
もっとも雅斗は信じていないタイプだったが、夢中になって怖がっているクラスメートを見ているのは楽しかった。
耳だけカウンターの方に向けて、雅斗は作業に戻る。
「でもさ、面白そうじゃん。噂じゃあ蝶に襲われて死ぬんだぜ」
(え?)
雅斗は再び顔を上げた。
そっちを向いたからと言って会話をしている小学生が見えるわけでもないのに、そちらの方向を凝視していた。
「そんなの、タイトルに‘バタフライ’って入っているから勝手に蝶に襲われているとか言ってんだろ? 大体蝶に殺されるってどうやって?」
「えっと、噛まれて毒が回って死ぬとか?」
「残念だな、牙のある蝶なんて聞いたことねーぞ」
「いるかもしれねーじゃんか」
「それは毒蛾かなんかだよ。まぁ、だけど、そう言うのはともかくとして噂の曲、聞いてみたかったな。何て言ったっけ? クワトラ・・・?」
「クヴァドラートだよ。レンタル屋にも無かったし、姉ちゃんとか怖がってるし、当分聞けねぇだろうな、残念」
晴久ともう一人の男の子はそう話ながら図書館の外に出て行った。
これは、偶然だろうか。
蝶に襲われて死ぬと言う噂。
小中学生が作ったうわさ話に過ぎないだろうが、雅斗の考えていたことにあまりにも接点が多い。
彼の言う通り、蝶に牙はない。
あるのは蜜を吸う管のような口だけだ。普段はゼンマイのように丸まっていて、必要な時にだけのばす。噛むことはないし、むろんそこから毒を注入することなどない。
そう言う点はともかく、曲を聴いて死ぬ、という事が気にかかる。
(クワドラート、クヴァドラート、クアドラート)
音だけでは上手く聞き取れなかったが、多分パソコンで検索すればどこかで引っかかるだろう。
音だけで聞くとドイツ辺りの言語だろうか。
家に帰って検索してみよう、と思った時、偶然パソコンの一台があいた。滑り込むように座って検索をかける。
どれもいくつかの引っかかりを見せたが、それらしいものが出てきたのは「クヴァドラート」で検索した時だった。
インディーズバンドの「クヴァドラート」。この辺りでは結構人気の出始めたアーティストの名前だった。CDも何枚か出してあり、販売もしている。
派手な化粧をしているために顔は良く分からないが、ボーカルの「SIVA」を中心に人気のある四人組だった。
(へぇ、ドラムが女なんだ、珍しい)
一瞬男にも見えるほど短く刈り込んだ赤い髪のドラムはランニングシャツという男のような格好をしながら、体つきはちゃんと女だった。
こういう女がドラムを男のように激しく叩いているのはかえってセクシーに見えるだろう。そのため、クヴァドラートには男のファンもいるようだったが、圧倒的に女性のファンの方が多いようだった。
(これか? スカーレット・バタフライ・・・・緋色の蝶か)
リリースしたCDから彼らの言っていた‘バタフライ’と名の付くものを拾い上げるとそれしか無いようだった。
赤いアゲハチョウが描かれたジャケットで「s&b」とタイトルが書かれている。
聞くだけで死ぬCDとはおそらくこのCDのことを言っているのだろう。
インディーズを多く取り扱っているCDショップに行けば見つかるだろうか。
雅斗はブラウザを閉じて席を立つ。
見計らったように誰かが雅斗の使っていたパソコンの所に滑り込んできた。それを気にも留めず彼は図書館を後にした。
※ ※ ※ ※
「あった」
棚からCDを引き抜いて勇気は呟いた。
晴久と別れてその足ですぐにCDショップに向かった。晴久にはああいったものの、呪われる曲というのがどうにも気になっていたのだ。
ジャケットには赤い蝶が描かれ左の翅に「s」胴体に「&」右の翅に「b」と書かれていた。裏にはメンバーの写真とアルバムの中に入っている曲名が書かれている。他にクヴァドラートのCDはあったが、見比べるとどうもこちらのCDのようだった。
このCDは最後の一枚だったようだ。あって良かったと思いながら価格を見て嘆息した。
アルバムだからこんなものなのだろうが、小学生にとっては少しキツイ金額だ。
母親から小遣いと込みで生活費として少し多目の金額を渡されているのだが、CDを買ってしまうと少しキツイ気がする。母親に言えば買ってもらえるのだろうが贅沢は出来ない。
買うべきか否かで迷っていると、上からくすりと笑い声が聞こえた。
勇気はむっとして睨んだ。
「ああ、ごめん。・・・・そのCD、買うの?」
高校生だろうか。
背の高い男で、勇気と並ぶと頭二つ分くらいの差がある。タレントかモデルのように整った顔立ちで、勇気から見ても格好良いと思える人だった。頭の良さそうな人だな、と彼は思った。
「・・・迷ってるところ」
勇気はぶっきらぼうに答える。
男は笑った。
「なら、譲ってくれないかな、それ、ちょっと必要なんだ」
‘欲しい’ではなく‘必要’なら譲るべきだろうと思った。しかし、最後の一枚となると次にいつ巡り会えるか分からない。他のCDショップにある保障などないのだ。
「もし、それ聞きたいだけなら俺のパソコンで焼いて渡すけど、どうかな?」
「え?」
勇気は顔を上げる。
「違法行為だけどね」
悪びれもせずに彼は言った。
「え、でも、それでいいの? ええっと・・・・お兄さん?」
「雅斗、だよ。譲ってもらう代わりに、君さえ良ければの話だけど。正直、小学生にはキツイだろう?」
勇気は赤くなる。
「別に。だけど、譲ってやってもいいよ。俺も欲しいから焼いてくれるなら」
言ってからしまったと思う。
雅斗の言っていたことは図星で、本当ならコピーしてもらうのは願ってもないことだ。体裁を取り繕うとしてつい嫌な言い回しをしてしまった。これじゃあ相手だって気を悪くする。
そう思ったが、雅斗は屈託のない笑みを浮かべていた。
「それはどうも」
彼がレジへ向かったのを見て、勇気は正直ほっとする。
年長者の余裕なのだろうか。見かけだけでなく、中身まで格好良い人だなと思う。こういう人が自分の兄だったらどんなに良いだろうか。
(兄ちゃんか・・・・いいな)
一人っ子で、母親が再婚でもしない限り兄弟が増えることもない。
神社に行けば人はいたが、家に帰ると殆ど一人だ。雅斗が兄だったら勇気が一人で夕食をとることもなかっただろうし、晴久達にも自慢しまくっただろう。
一瞬だけ夢を見たが、非現実的だ。
首を振って勇気はレジの方へと向かった。