10話 禍々しい翅
突然押しかけてきた女刑事の車はやや速度オーバーの状態で道路を走っていた。まさか自分まで任意同行させられるとは持っていなかった雅斗はぼんやりと流れる景色を見ていた。
任意同行と言うよりは強制連行状態だったが、パトカーではなく自家用車であったのがせめてもの救いだ。もっとも、これが覆面ではないとは言えなかったが。
「ねぇねぇ、愛ちゃんどこまで行くの?」
後部座席の左側に座った一樹は助手席に抱きつく形で岩崎刑事を見た。
高校生という立場を良いことに軽い口調で話すのはまだしも、よりにもよって刑事を「ちゃん付け」で呼ぶのはさすがに度が過ぎる。雅斗は肘で一樹の脇腹を突いた。
「何だよ、いいじゃん別に」
彼は口をとがらせた。咎められた理由が分かっているのだ。分かっていてやっているのだからたちが悪い。
運転席の刑事は楽しそうに笑った。
「いいのよ、雅斗くん。ちゃん付け大いに結構。あなたもそう呼んでくれて構わないわ」
「え?」
「むしろそう呼びなさい、ね?」
「あ・・・・はい」
またもや反射的に頷いてしまい、雅斗は戸惑った。
この女性には何かこちらの意思に反して強制させてしまうような妙な力があるように思えた。
本人がそう呼べと言っているのだから、わざわざ嫌味のように「岩崎刑事」と呼ぶことも無いだろうが、刑事に向かって「愛ちゃん」と馴れ馴れしく呼ぶのにも抵抗がある。
それなのに唯々諾々と従ってしまいそうな感覚は今まであまり経験にない感覚だった。
年齢的には新米刑事に見える女性だが、何十年も刑事をしてきたようなベテランの風格がある。この女刑事を侮ってはいけないと雅斗は感じた。
「で、どこに行くの?」
「現場検証よ。あなたに確認したいことがいくつかあるのよ。まぁ、昨日と同じ事を聞かれて面倒だとは思うけど、ちゃんと答えて頂戴ね?」
「そんな風に言われたら、俺、スリーサイズまで答えちゃうかも☆」
「・・・・・・・」
突っ込みを入れるべきか否かを考えて、結局雅斗は沈黙した。
マンションの前に辿り着くと酷く嫌な感じがした。
昨夜人が死んだと言うことや、近所の野次馬が遠巻きに見ている事などは別に気にならなかった。むしろ、昨日人が死んだという割に静かだという印象だ。警察車両は今のところは一台だけで、それも捜査のためではなく現場が荒らされないようにするための見張り役の刑事がいるためだった。朝の時間と言うこともあって、聞き込みの刑事達の姿も無さそうだ。
雅斗はマンションを見上げて口元を押さえた。
吐き気がするほど嫌な感覚がある。
何かが、ねっとりと纏わりついているような奇妙な感覚。言葉で言い表しようのない嫌な感覚だった。
(・・・何か、いる)
直感的に雅斗は思った。
いや、むしろこれは‘いた’と言った方が正確だろうか。
ここにあるのは<痕跡>だ。
禍々しい何かが這った跡。殺人犯とも、幽霊なんかとも違う、もっと禍々しい災厄のような存在。
問われても答えられないだろう。
だが、確かにここには何かがいたのだ。
「雅斗?」
不意に呼びかけられ雅斗は我に返る。
先を進んでいた二人が振り返り、自分の顔を覗き込んでいる。
彼は軽く笑った。
「何でもないよ、少し考え事していただけだよ」
「殺人現場だから緊張するの、無理もないけどな。気分悪くなったら言えよ」
「お前こそな」
この感覚は人に説明するのが難しい。
そもそも人の感覚というものはそう言うものだろう。まして不可視の存在を仄めかすような発言はあんまりしたくはない。
雅斗は黙って二人の跡に付いた。
部屋の前まで来ると、事件が起こった事を知らせる黄色いテープが貼られていた。出入り口にいた制服の警官に挨拶をすると女刑事は二人を招き入れた。制服の刑事は二人の高校生を見て酷く怪訝な顔をした。
気付かなかったふりをして、雅斗はテープをまたいだ。
部屋の中は主を失ってすっかり静まりかえっていた。僅かに聞こえる電子音は冷蔵庫のものだろう。
「!」
雅斗は一瞬、何かを感じて振り返った。
視界の端を何か黒いものが横切った。
(蝶!)
それは一瞬で消えた。だが、確かに蝶だった。黒い翅に赤い斑紋を散らした禍々しいくらい美しい蝶。
あの時見た死の蝶。
翅を引き裂かれながらもなおも舞っていた蝶。
(何だ、この感覚)
心臓が早鐘を打っている。今心拍数を計ったのなら異常な数値を叩き出すだろう。風邪をひいたときのように背筋が寒い。そのくせ、汗腺が全て開いたかのように汗が噴き出してくる。
異常な感覚だ。
身体全体を薄い膜で覆ってしまったような奇妙な感じがする。息苦しい、と言うよりは空気が重い。異常に湿度が高い場所にいるかのようだ。
(俺は、この感じを、知っている)
雅斗はゆっくりと歩く。
「雅斗くん? どうかしたの?」
「いえ・・・別に・・・」
廊下を通った先にある部屋が殺人現場だ。
その中に入るとその感覚は一層酷くなった。
心配そうに岩崎が声をかけてきたが、ちゃんと受け答える事ができなかった。床に残された生々しい血の跡よりもずっと気にかかる所がある。
その時誰が見ても自分は異常だったのだろうと雅斗は後で振り返って思う。
ゆっくりと雅斗は天井の端を指差した。
「一樹、アレが見えるか?」
差された場所を見て一樹は怪訝そうにする。
「何だ? 通気口?」
「・・・・・そうか、お前には‘見えない’んだな?」
「ん? 何だって? ・・・お前、顔色悪くないか?」
事実、彼の顔色は悪かった。雅斗は自分の目に映ったものが信じられなくて青ざめていた。それは異様な光景だった。
通気口の丸い穴があるはずの場所に、びっしりと蝶が‘生えている’のだ。
そして隣に立つ友人にはそれが見えていない。
六年前のあの時と同じだ。
あの時も、これは雅斗にしか見えていなかった。実際に見たのが他の人間だったのなら信じなかっただろう。
自分で見てしまったから信じるしかないが、いまだに信じられない不可視の蝶。
「気になるのね?」
岩崎に問われ、雅斗は頷く。
あの通気口の中には何かがあるはずだ。
「調べてみましょう」
「え? 何? どういうコト?」
交互に顔を見やっている一樹に答える余裕は無かった。
岩崎は手袋を嵌め、近くにあった椅子を踏み台に通気口へ手を伸ばす。
驚いた蝶が一斉に飛び立った。蝶達は岩崎の周りを威嚇するように飛び回る。彼女は全く気付かない様子で通気口のカバーに触れた。
一匹の蝶が彼女の指に触れる。
とたん、酸で溶かされた個体のように白い煙のようなものをあげて蝶は消え去る。彼女の身体に触れた蝶達はみな同じように気化して消える。
彼女自身も、一樹にも見えていない。
雅斗だけがそれを見ていた。
やがて通気口のカバーが外される。
ペンライトを取り出し、中に光を当てた岩崎はゆっくりと中のものを引き出した。
「あなた、警官に向いているわ」
彼女の手にあったものは赤い皮。
ヘビの抜け殻よりも遥かに短く、虫が脱皮した後の皮にしては随分と大きすぎる薄い膜のようなもの。
それは何かどろっとした液体を湛えていた。
赤い、血のような、液体。
「雅斗」
隣で一樹が叫んだ。
雅斗は膝を折り、口元を押さえ必死に嘔吐をこらえていた。