9話 クヴァドラート
長距離の走り込みをしながら尚は手に入れたチケットのことを考えていた。朝練の時間に有賀雅斗の事以外を考えているのは実に久しぶりの事だったが、今日ばかりは仕方ない。
苦労してようやくクヴァドラートのライブのチケットを手に入れたのだ。
少し前まではもう少し入手が簡単だったのだが、最近は人気が出てきたためにすぐに完売してしまう。
小さなライブハウスではせいぜい百人が限度だ。
ライブハウスにコネでもあれば簡単に手に入れられるのだろうが、残念ながら尚にはそういうつてはない。
クヴァドラートはこの辺で活動しているインディーズバンドだ。過激な化粧とパフォーマンスをするヴィジュアル系にしては珍しく綺麗な歌を歌うので最近知名度も人気も上がってきていた。
結成当初位から知っている尚にしてみれば、話題が出てから気付いた新生ファンなど本当のファンではないと思っている。彼らのせいでチケットを手に入れられる確率も低くなって腹立たしい限りだ。もっとも、ライブの回数は増えたのだから、その点ではファンが増えたことを感謝しているのだが。
「せんぱーい、今日随分と機嫌良いんですねぇー」
後ろから追いかけてきた一年に言われて尚は一瞬頬をゆるめるが、すぐに真顔に戻る。
「・・・・そう?」
「はい、先輩のフォームって格好良いけど、今日は一段とそうですよ。何か良いことでもあったんですか?」
そんなに自分は分かりやすかっただろうか。
単純な自分が腹立たしいが、自分の走り方を褒められたのは悪い気がしなかった。
「ありがとう。でも別に何も無いわよ」
「そうなんですか? 彼氏でも出来たのかな、ってみんな噂しているんですけど」
一瞬、思い描いた有賀雅斗の姿に赤くなる。
彼とはつき合っている訳ではない。片思い、というか、想いを伝えた事すらない。それなりにアピールしているつもりだから向こうもこっちの気持ちに気付いているだろうが、残念ながらまだそう言う関係にないのだ。
「あ、相手がいないわ」
「江田先輩とはどうなんですか?」
一瞬、金だらいが上から降ってきたような衝撃を味わう。
あまりにもショックで暫く口がきけなかった。
よりにもよって何故あのネクラが相手なのだろう。図体ばかりでかくて何を考えているか分からない奴。その名前が浮上しただけでショックだった。
「・・・・先輩?」
呼びかけられてようやく硬直が解ける。
「な、何であいつの名前が出るのよ」
「え? だって、仲がいいじゃないですか」
「冗談じゃないわ! あんなネクラ誰が・・・」
「えー、でも、江田先輩って結構人気あるんですよ。無口だけど、格好良いし」
格好良い?
どこが?
ショックのあまり再び硬直しかけた尚は足踏みをしながら江田の姿を探した。彼は陸上部とは別のコースを走っている。女みたいにだらだら伸ばした黒髪を縛っている男はやはり只の身体の大きいだけのネクラにしか見えない。
尚は再び走り出し、後輩の横に並ぶ。
「・・・趣味悪いわ、あなたたち」
「いいと思うんですけどねぇ」
誰が誰を格好良いと思ってもそれは個人の自由だ。尚は敢えてそれ以上は何も言わなかった。
せっかく良い気分だったのにこれでは台無しだ。
イライラして向けた昇降口に、大嫌いな少女の姿を認めて尚は更に不機嫌になった。天野真里はいつものように長い髪をなびかせて歩いている。せめてもの救いは今日は雅斗と一緒にいないというところだろう。
(?)
尚は不意に立ち止まる。
校庭から彼女に向かって走っていく姿があった。その意外な人物は江田だった。
後輩達を先に走らせて尚は校庭と昇降口をつなぐ階段を駆け上がった。
ぼそぼそと低い声が聞こえる。
部活をサボっている江田に文句を言うために来たのだが、気になって見に来たのだと思われても嫌だ。木陰に身を隠して様子を窺った。
「・・・心配症ね、そんなこと無いから大丈夫よ」
「そうか。なら、いい」
何の話をしていたのだろうか。
珍しく江田が微笑んでいる。
あまりにもあり得ない光景に尚は戸惑った。江田と天野が一緒にいると言うだけでもおかしいのに、あの江田が微笑んでいる。
彼はポケットから何かを紙のようなものを取り出すと天野に手渡す。
「なにこれ?」
「クヴァドラートのライブのチケットだ。興味無ければ捨ててくれて構わない」
「二枚あるわ」
「ああ、それは・・・の分だ」
「それじゃあデートね。楽しみにしているわ、邦彦さん」
(く、邦彦さんーーー????)
途中の良く聞き取れない単語があったが、そんなことより「デート」という単語と天野が発した「邦彦さん」という呼び方に驚いてそれどころでは無かった。
どう考えても江田がデートに誘い天野がOKした、という会話だ。しかも呼び方やしゃべり方からいって親密な関係だと言うことが十分予測できた。
天野と江田がつき合おうと知ったことではないが、ネクラの江田までもがあの「純白天野」の蜘蛛の巣に引っかかったのだと思うとショックだった。どうやってたらし込んだのか知らないが、天野のあの外見に騙されるバカ男が一人増えたのには間違いがない。
怒りを飲み込むようにして尚は拳を握りしめた。
だから天野真里は嫌いだ。
何も知りませんというような顔をして、奥底では男をたらしこむ術を心得ている。彼女は自分に貢がせる為の男(江田)をあっさりと手に入れたのだ。
その貢ぎ物が自分が苦労して手に入れたクヴァドラートのチケットだと言うことが更に怒りを増幅させる。
「・・・・沢田?」
天野との会話を終えて校庭に戻ろうとした江田が、尚の姿を見て硬直する。
反射的に彼女は拳を振った。
強く当てるつもりはなかったが思いの外強い感触が手の甲に残った。後悔することよりも怒りの方が勝っていた少女はそのまま男に怒りをぶちまける。
「部活サボって女といちゃついてんじゃ無いわよ! このヘタレ男が!」
※ ※ ※ ※
遠くで、子供の泣き声を聞いた気がした。
身体を起こし、伊東は時計を見る。
セットしてあったはずの目覚まし時計は止まっていた。誰かが故意にそうしたのが分かるように仮眠室のサイドテーブルの上で電池が抜かれた状態で放置されている。伊東は内ポケットに入っている携帯電話で時間を確認する。
「十時・・・二十五分。・・・・・・・・十時!?」
伊東は慌てて身体を起こした。
本部会議は九時から始まる。丸一日以上眠っていなかった伊東は、事件発生の報告を聞いて駆けつけた愛のすすめで仮眠室に入った。八時半には起きて会議に備えようと思っていたのだが、目覚ましが鳴らなかった為に寝坊をしてしまった。
当然目覚ましなど理由にならない。
彼は慌てて仮眠室から飛び出す。
「すみません、寝過ごしました!」
「あ、おはよー、イトメくん」
行儀悪く机の上に腰をかけてコーヒーを飲む藤岡は間延びした様子で言う。すっかり勢いを殺がれてしまった伊東は周囲を見回した。
いつものメンバーの半数以上が出払っている。会議に参加しているわけでは無く、既に会議が終わって捜査に向かっていることが分かった。
「・・・岩崎警部は?」
「愛なら容疑者確保に向かったわよ」
伊東は眉をひそめた。
「容疑者確保? 状況が飲み込めませんが」
藤岡は机の上から飛び降りファイルを伊東に手渡す。伊東はそれをめくって内容を確認した。それは今朝の本部会議の内容が示されている。
ざっと目を通して彼は絶句する。
それは一色一樹を重要参考人とすると言う旨。つまり、本部は彼を容疑者として捜査する方針を固めたのだ。
「馬鹿な、彼は犯人ではないのに!」
伊東が叫ぶと、藤岡が頷く。
「イトメくんもそう思う? だから愛も連中が彼と接触する前に‘保護’に向かったの。あいつらに任せていたら連行するために色んな罪でっち上げられちゃうもんね。公安よりずっとタチが悪いわ」
「そんな勝手な事して良いんですか?」
「そのための‘警部’だもの。それに逮捕に踏み切れるだけの証拠が上がって来なければ0班の仕事にはノータッチが基本原則なの」
「・・・0班?」
ああ、と藤岡は笑む。
「その様子だと何の説明も受けていないんでしょ。伊東くんの所属は一応一課の強行犯系になってたからそうだろうと思ったわ。0班ってのは、心霊現象を扱う特殊捜査班のことよ。ま、つまり私たちのことね」
「たち?」
「愛と、イトメくんと、私と、あと鑑識の何人か。言っておくけど冗談とかじゃないからね? ここの0班は警察庁から声がかかるくらい凄いんだから」
伊東は首を傾げた。
こんな説明では良く分からない。
藤岡は声を立てて笑った。
「ま、そのうち分かってくるわよ。それより、仕事よ。イトメくんが目を覚ましたら行けって言われている所があるの」
「どこへ?」
「うふふ、秘密」
藤岡は口元に手を当てて笑う。
こういう仕草をするのが可愛い女の子がするならまだしも、オカマがすれば気持ちが悪いだけだ。
伊東は軽い目眩を起こした。