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8話 蝶の夢


 蝶が舞っていた。

 黒い翅に赤い点を落としたような蝶。

 光る筆で宙に描かれたような輪郭だけの蝶。

 何かを嘲笑うかのように夜空に舞う蝶達が。

 ゆっくりと集まり始めていた。

 蝶達の集まる中心には一つの巨大なサナギがある。血を湛えたようなどす黒い赤をしたサナギがあった。

(羽化する)

 蝶達はサナギから蝶が孵るのを祝福するかのように一匹、また一匹と集まり始める。その数は百や二百をはるかに上回る。

(殻が破られる)

 彼はサナギの前に立っていた。

 いけない、と思う。

 この蝶をサナギから孵してしまってはいけないと思う。

 それは本能のようなものだ。誰かから教えて貰ったわけではない、本能的にその蝶は危険なものだと知っているのだ。

 幼虫だけでも危険なのに、蝶が羽化して再び卵を産み付ける事があればこの街は取り返しの付かない結果になってしまう。

 彼はゆっくりと手を伸ばした。

 ぱり、と小さな音を立ててサナギの背にひびが入る。

(だめ、だ)

 その蝶は危険だ。

 他の蝶達とは違う。持って産まれる力が明らかに違う。羽化させてはいけない。絶対に羽化させてはいけないものなのだ。

(コドク)

 恐ろしい呪術だ。

 蝶には恐ろしい呪術がかけられている。それは血を求め、彷徨う。誰かが幼虫を養っているのだ。だから成長し、羽化しようとしている。

 力のある蝶達は、自らの長の誕生に喜び、祝福の声を上げている。


   街に巣喰った蝶を、

      誰かが退治しない限り、

         永遠と、

     悲劇は繰り返される。


 繰り返してはいけない。羽化させてはいけない。

(だけど、どうやって?)

 どうやったらこの蝶の成長を止めることが出来るのだろう。羽化を妨げることができるのだろうか。

 殻からゆっくりと蝶は羽を出す。

 まだ湿った柔らかい翅が外気に触れ、徐々にその形を取り戻していく。羽ばたくにはそれほど時間は必要ない。


 ・・・・・復活までに、それほど時間は必要ない。



  ※  ※  ※  ※


「っっっ!!!」

 声にならない悲鳴を上げて勇気はベッドから飛び起きた。

 全身にねっとりとした嫌な汗をかいている。ベッドには人の形がくっきりと残ってしまいそうな程はっきりとした形を残していた。

 あれは、夢だ、と自分に言い聞かせるように呟く。

 呼吸を整えて少年は時計を見上げた。そろそろ母親を起こさないと仕事に遅刻してしまうだろう。

 大きく背伸びをして、彼は夜遅くに母親が仕事に出て行ったことを思い出す。

(ああ、そうか。あれから帰らなかったんだっけ)

 勇気の母親は警察官だ。

 警察の階級の事はよく知らないが「警部」というからには結構な役職だと思う。責任ある立場から事件があると夜中でも平気で呼び出される。

 昨日もそうして呼び出され、ついに朝まで帰らなかった。

 普段は家事もろくにしないいい加減な母親なのだが、仕事の時だけは格好良いと思う。

 彼女は母親というより父親なのだろう。家に「母親」の存在がない以上、子供が家事を手伝うのは当然だし、祖母や近所のおばさんが世話を焼いてくれるので不自由に感じたことも不満に思うことも殆ど無かった。

 ただ、やはり朝起きて一人だというのは辛いときがある。

(やっぱ、じいちゃんのところに行こうかな)

 今はアパートに母親と二人で暮らしているのだが、こうして母親が家を空けることが多いので心配した祖父が一緒に暮らそうと言ってきている。

 祖父は好きだし、一緒に暮らせば母親の心配も経済的な負担も減る。だが、一緒に暮らすのには問題があった。

 場所は神社の敷地内で、祖父は宮司なのだ。

 勇気を後継者に欲しがっている祖父にはそういう思惑もあるのだろう。今でさえ半ば強制的に「修行」や「勉強」をさせられる。一緒に暮らすとなるともっと大変なことになりそうだった。

 だけど、嫌な夢を見たとき一人だと無性に恋しくなるのだ。

「・・・コンビニにするか」

 朝食をコンビニ弁当で済ますのは栄養が偏るので良くない。

 だけど、このまま家にいる気にはなれなかった。早く誰かに会って嫌な気持ちを払拭させたかった。

 勇気はパジャマを脱ぎ捨てた。



 勇気のアパートから一番近いコンビニは徒歩で五分とかからない。人通りの多い交差点の近くにあり、勇気のマンションからは細い路地を通って行くことができる。

 黒いランドセルを背負って小走りに路地を曲がると、突然顔面に何かがぶつかった。

「うわっ!」

「わっ!!」

 勢いをつけていたために、勇気は後方に転倒する。ランドセルというクッションがあったために尻餅を付くのは免れたが逆にそれが仇となりコンクリートに頭をぶつける。

「ご、ごめん、大丈夫だった?」

 心配そうな声が上から降ってきた。

 一瞬女の人かと思ったが、それは誤りだとすぐにわかった。その人は学ランを着ていたのだ。この辺りの中学校のもので、数年後には勇気も着ることになる。

「ケガ、ない?」

「あ、うん、何とか・・・」

 本当なら文句を言ってやろうと思ったが、相手があまりにも毒気がないので勢いを殺がれる。それに転倒して頭をぶつけただけでも格好悪いのに、ここで文句をつけたらもっと格好悪くなる。

 勇気は自分の方こそごめんと謝ろうとするが、酷く嫌な感じがして言葉を詰まらせた。

 謝るのが嫌だとかそう言うことではない。

 彼の周りの空気が赤黒く淀んでいる感じがしたのだ。彼自身ではない。そう、それは隣にいた人の香水の香りが移ったようなイメージ。

「ケガ無くて良かったよ。それじゃあ、気をつけてね」

 彼はそう言うと少し慌てた様子で中学校の方向に走っていく。

「あ・・・」

 何か言わなくては。

 そう思ったがやはり言葉が出ない。これをどう説明して良いのかわからなかったのだ。

 彼が走り去るのを見つめていた勇気はやがて息を吐いてコンビニへと向かう。今日は朝から嫌なものを二度も見てしまった。

 ふと、勇気の視線が下がる。

 足下に小さな人形が落ちていた。

 キーホルダーか携帯のストラップくらいの大きさだろう。男の子の形で胸に「A」と刺繍されている。手作りなのだろう。

(さっきの人かな)

 振り向いてももうそこに人影はない。

 そのままにしておいても良かったのだが、勇気は小さな人形を拾い上げた。

「え?」

 一瞬、勇気の脳裏に蝶の姿が浮かんだ。

 それは今朝見た蝶の大群。

 そして、羽化しそうなサナギ。

「・・・何だ?」

 頭の中に流れ込んできたイメージは一瞬だけで消えた。

 残った人形は平然として微笑んでいる。

 僅かにポプリのような優しい匂いがした。



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