序章
・この作品の中には多少グロテスクな表現が含まれます。
苦手な方は注意してお読み下さい。
・実在の団体、人物とは一切関係がありません。
蝶が舞っていた。
ぼんやりと光る糸で翅の形を創り浮かんだり消えたりしている蝶は人の目には見えていない。それはまるで何かに惹かれるようにゆっくりと暗くなり始めた大学内を舞っていた。
やがて蝶は目的の場所を見つけたかのように研究室の窓へと吸い込まれるようにして消える。
若い男が話し終えコーヒーを飲み干すと向かい側の席に座った壮年の男が思案するように口ひげを撫でた。
「それで君みたいな子がこの研究室に入ったのか」
「僕みたいな?」
青年の問いに男は軽く微笑んだ。
「君は普通なんだ・・・良い意味でね。正直君がこの研究室にいると聞いた時は何かの間違いだと思ったよ。だが、考えを改めなければならないな。十代の大切な時期にそんな経験をして普通でいられる君は普通ではない」
断言されて青年は少しうつむいた。
先月替えたばかりの携帯電話に付けられた古い携帯ストラップを握りしめる。それは十五歳の誕生日の時に姉から贈られたストラップで、手作りの人形が付いている。貰った当初はまだポプリの匂いがしていたが、長い間付けていたせいでもう匂いは失われている。それでもそのストラップは一度金具が切れて落ちてしまっただけで、もう十年近く保っているのだ。
携帯電話を新しくしても、このストラップだけは代えられなかった。
「・・・逆、じゃないかなって思うんです」
「逆?」
「僕はあんな経験をしたから、普通でいられるんだと」
男は瞬いてやがて破顔した。
「ああ、なるほど。そう言う事もあるかもしれないね」
窓の外はもうだいぶ暗くなっていた。
男は空になったマグカップを持って窓際にあるコーヒーメーカの側に置いた。ドリップが終わるのにはもう少し時間がかかりそうだ。青年にもう一杯飲むように勧めて彼のカップも預かった。
「君は死神を信じているのか?」
やや間をあけて青年ははっきりした声で答える。
「科学的には何の根拠もありませんが、ええ、僕は信じています」
「何故?」
「人を死に誘うものを死神と呼ぶなら、僕はそれを見たことがあるからです」
「何を見た?」
「言葉では説明の出来ないものです」
「では、死神とは何だ?」
「偶然も必然もなく人に平等な死を与える存在」
「神か悪魔か」
「僕にとってはどちらでもありません」
「何を連想する?」
試すような男の視線。
青年はそれを受け止めて答えた。
「蝶」
不意に携帯電話が鳴った。
携帯電話には良く知った名前が表示されている。
慌てて立ち上がった青年は男に詫びて廊下に出た。
廊下はすっかり冷え込んでいたが、長い話をして興奮した彼にとって冷気はむしろ心地良いくらいだった。
呼吸を整えて通話ボタンを押す。
軽く手が震えるのは寒さではない。緊張しているのだ。
「お久しぶりですね」
出てきた声は自分で思っていたよりも固い。
久しぶり、と電話の向こう側から笑いを含んだような声が響く。違いに忙しくて連絡を取っている間もなかった。何ヶ月ぶりかに聞く声は屈託もなく相変わらずの喋り口だった。
元気なのを知って緊張がするりとほどけた。不意に口をついてでた言葉は、嫌味でもなくただ純粋に相手の昇進を祝う言葉だった。
「試験合格したそうですね。おめでとうございます、警視」