第65話 閑話 帳簿に載らない数
はじめての番外編をお届けします。
今回は視点を移して――彼を「覇王」と呼んだ女、内政官セレナの側から、あの第三の地を。
派手なことは、何も起きません。いつも通りに。
私は、数を数える人間だ。
食料の袋。動ける者の頭数。負傷者。逃げ遅れた者。
数字は嘘をつかない。恨まないし、媚びもしない。ただ、そこにある。
だから私は、数字が好きだった。人よりも、ずっと。
元は、街の役所にいた。
私の仕事は、限られた物資をどう配るかを計算することだった。
計算は、いつも正しかった。
そして、正しく計算した結果、切り捨てられる列が、必ずあった。
「ここまでが、救える範囲です」
私はそう報告し、上はそれを承認した。
合理的で、無駄がなく、誰の責任にもならない、美しい数字。
切り捨てられた列の名前を、誰も聞かなかった。
私も、聞かなかった。
戦が来て、役所は焼けた。
職を失ったとき、私はいっそ清々した。
あの帳簿から、やっと逃げられると思った。
――流れ着いた村で、私はまた、数を数えている。
逃げられなかったわけだ。結局。
ここには、玉座がない。
俸給も、出世もない。
赤に仕えれば、私の頭は高く買われるだろう。青は、有能な計算係に相応の金を積む。
誘いは、両方から来ている。
私はそのどちらにも、行かなかった。
理由を、自分でずっと考えていた。
昨日、一人の男が第三の地に来た。
戦で、家族を失った男だった。
あの日、リクスが「全員は連れて行けない」と判断した――その、連れて行けなかった側の家族だ。
男は、リクスを恨んでいた。
当然だ。
合理では、彼を切り捨てたのは正しい。
だが、正しさは、その男の何も救わない。
男は、リクスの前に立った。
殴るかもしれない、と私は身構えた。
リクスは、逃げなかった。
言い訳もしなかった。「正しかった」とも、言わなかった。
ただ、その男の家族の名前を、覚えていた。
フルネームで。一人ずつ。
男は、しばらく黙って、それから――泣きもせず、許しもせず、ただ座り込んだ。
焚き火の、少し離れた場所に。
恨みは、消えなかった。
溶けもしなかった。
ただ、置き場所が、できただけだ。
救い、ではない。
もっと小さくて、もっと正確な、何かだ。
その夜、私は帳簿を開いた。
救えた数を、書く。
救えなかった数も、書く。
役所では、後者を「対象外」の一語で消していた。
ここでは、消さない。
名前のまま、残す。
数えられない数を、それでも数える。
――それが、私がここにいる理由だと、ようやく分かった。
この人は、強くない。
賢くもない。
正しさを証明したわけでもない。
ただ、自分が切り捨てた列から、目を逸らさない。
目を逸らさない人間の隣にいれば、私も、あの美しい帳簿には戻らずに済む。
逃げなかったのは、たぶん、私も同じだった。
焚き火の前で、リクスが黙って座っている。
誰も跪かない。誰も命令を待たない。
私は、口を開きかけて――やめた。
「覇王」と呼ぶには、まだ早い気がした。
その言葉は、いつか、世界が勝手に言う。
私が言う必要は、ない。
ペンを取る。
今日の数を、書く。
載る数も、載らない数も。
それが、私の仕事だ。
本話をお読みいただき、ありがとうございました。
本編完結後、はじめての番外編は、内政官セレナの視点でお届けしました。
主人公リクスの「人徳」を、本編では
“逃げなかった者に世界が勝手に預ける重さ”として描きました。
その重さを、最も近くで、最も正確に見ていたのが、彼女です。
救えた数だけでなく、救えなかった数を、名前のまま残す。
それは救いではありませんが、たぶん、
「逃げない」ということの、もう一つの形です。
物語は本編で完結しています。
この一話は、その均衡を少しだけ、別の角度から確かめただけのものです。
ここまでお付き合いくださり、ありがとうございました。




