油揚げが好きなお客様
金曜の夜。午後八時から十時までの二時間だけ、食事処「お花」は静かに暖簾を出す。
世間は長い連休の真っ只中。常連客の姿は一人も見えない。
それでも店主が店を開けたのには、理由があった。
時刻は九時を少し回ったころ。高級なオーダースーツに身を包み、疲れ切った表情をした男が店の戸を押した。
――前に来たときも、あの顔だった。どうやらこの男は、世間が休むときにも忙しく働いているらしい。
店主はまるで、その男が来るのを待っていたかのように、穏やかな笑みを浮かべて迎え入れた。
「これは狐崎様、いらっしゃいませ。どうぞ、お好きな席へ」
狐崎と呼ばれた男は、五席だけのカウンターの奥に腰を下ろす。
店内をぐるりと見渡し、出されたおしぼりで手を拭くと、ほんの少し表情が和らいだ。
「この店に来ると、妙に腹が減る。……店主、焼き油揚げといなり寿司を三つ。甘い油揚げの乗ったきつねうどんに、熱々のおでんの厚揚げを二つ。頼む」
狐崎はこの店に来ると、決まって油揚げや厚揚げを使った料理ばかりを頼む。それもそのはず――
……いや、彼が何者なのかを語ることはできない。
彼もまた、店主の正体に気づきながら、何も言わない。それがこの店の、静かな暗黙の了解。
初めてこの暖簾をくぐったとき、狐崎は店主を一目見て、「そうか、そうか。この店は、当たりだな」と笑ったのだ。
香ばしく焼いた油揚げに大根おろしを添えた皿と、甘めの出汁が染みた素朴ないなり寿司三つをのせた皿を、店主が差し出す。
「お待たせしました。焼き油揚げと、いなり寿司三つでございます」
「……お、これは美味そうだ。いただきます。……うん、これだ。この味を、俺はずっと求めてたんだ」
狐崎は目を細め、ゆっくりと噛み締めるように料理を味わう。
「仕事の付き合いで、懐石だの回らない寿司だの高級肉だのを食べることもある。……でも、俺が本当に好きな味は、この店にしかない」
「それは光栄です。狐崎様のお口に合って、よかったです。そろそろ、きつねうどんをお持ちしてもよろしいですか?」
店主の問いかけに、狐崎は軽く頷き、ふっと笑った。
――そう、ここは“ひまな神様”が、金曜の夜にだけ開く不思議な食事処。
「ここのきつねうどんは格別だ。甘く炊いた油揚げが、たまらない。他の料理もそうだが、こんなに美味いきつねうどんは、他にはないな。……そうだ、いなり寿司を三十個、土産に頼む」
「かしこまりました。三十個ですね」
狐崎は注文した料理を一つ残らず平らげた。店主は狐崎に頼まれた、いなり寿司カウンター置く。
「こちら、お土産のいなり寿司です」
「ありがとう」
風呂敷に包まれた三十個のいなり寿司を抱え、狐崎は満面の笑みを浮かべて席を立つ。来たときとは、まるで別人のような顔だ。
「美味かった。ごちそうさま」
「またのお越しをお待ちしております、狐崎様」
「すぐにでも来たいが……それは難しい話だ。また時間ができたら、寄らせてもらう」
そう言って狐崎は、店の外に待たせていた数名の部下らしき男たちと共に、夜の街へと姿を消した。