曲げわっぱ弁当(前編)
お花の開店準備をしていると、どこからか、かすかな声が聞こえてきた。
その声は小さく、最初は風の音かと思ったが、耳を澄ますと、はっきりと聞こえてくる。
「お腹が空いた……誰か、ワシに気づいてくれ……」
誰の声かもわからない。だが、その哀しげで弱々しい響きが胸に引っかかる。
(……聞こえてしまった以上、無視はできませんね。スズとランを呼んで、何か届けてもらいましょう)
棚から曲げわっぱの弁当箱を取り出し、炊きたてのご飯を敷き詰める。出来立ての豚の生姜焼きを乗せ、香ばしい胡麻をふりかける。
(あとは……今から焼く出汁巻き卵、彩りにブロッコリーとプチトマトも添えましょう)
弁当を詰めているあいだも、声は途切れることなく聞こえていた。誰かも分からぬまま、ただその存在を思って心がざわつく。
やがて、開店前の静かな店の扉がガラガラと音を立てて開き、スズとランが狐火提灯を手に慌てて駆け込んできた。
「はあ、はあ……キュウ様の呼び寄せ狐が来ましたが、何かありましたか?」
「ふうっ、狐、来たよ」
「呼び寄せてしまって悪かったね。休んでいたところを急がせたようだ。でも、急ぎだったから」
そう言いながら二人を見て、問いかける。
「スズ、ラン。君たちにも、この声が聞こえないかい?」
二人は静かに頷くと、隠していた耳をそっと出し、周囲に意識を集中させた。
数秒後――。
「……声は南の方から、かすかに聞こえます」
「あっち、聞こえた」
二人がぴたりと同じ方角を指差す。
「どうやら、声の主はよほどお腹を空かせているようだね。このお弁当を届けてあげてくれるかい?」
そう言って、出来たばかりの生姜焼きと出汁巻き卵の詰まった、あたたかな曲げわっぱ弁当を二人に手渡した。