ご飯屋お花
ここは、どこかの街の裏路地。金曜の夜、八時から十時までの二時間しか開かない、小さなご飯屋「お花」。今夜も、仕事に疲れた人々が美味しいご飯を求めて、ひっそりとこの店を訪れます。
時刻は八時半。五つしかないカウンター席の端に座るのは、OLのミカサさん。彼女は無我夢中で、店主がつくった甘い卵焼き、豆腐と揚げの赤だし味噌汁、大好物のわかめおにぎりをほおばっている。
今日は会社の先輩にこき使われ、お昼も抜きだったそうで、店に現れたときはげっそりしていた。でも、温かいご飯を一口食べたとたん、頬がふわりとゆるむ。
「はぁ、店主のご飯って、どうしてこんなに美味しいんだろ……幸せ」
そうつぶやき、わかめおにぎりをひとつ食べ終えると、手元のお品書きをじっと見つめる。
「……あの、店主さん。小さなカツ丼を、追加でお願いします」
まだ料理が少し残っているのに、彼女はうれしそうに追加注文をした。
「かしこまりました」と店主が声をかけると同時に、厨房からふわっと出汁の香りが立ちのぼる。先の料理を食べ終える頃には、小さなカツ丼が出来上がっていた。
「お待ちどうさま。小さなカツ丼、お新香付きです。お皿、お下げしますね」
「ありがとう。わぁ、美味しそう。いただきます」
「なに、小さなカツ丼? それ、美味しそうだな。店主、僕にもひとつお願い」
「はい、かしこまりました」
そう頼んだのは、小説家の羅生さん。もちろん本名ではなくペンネームらしく、本名を知る者はいない。今日、ようやく締切を終えたそうで、焼き鯖と熱燗でひと息ついていた。
隣のミカサさんのカツ丼を見て、思わずごくりと喉を鳴らす。
ふわとろ卵に出汁がしっかり効いた、人気のカツ丼。食が細い人のために、小さな器に盛った「小さなカツ丼」もまた、隠れた人気メニューのひとつだ。
「小さなカツ丼とお新香、お待たせしました」
「おお、美味そうだ」
「熱いので、気をつけてくださいね」
「わかってる、……うん、これは美味い!」
店内には、しばらくどんぶりをかきこむ音だけが響く。
店主が時計に目をやり、奥から煮込まれたおでん鍋を持ってくる。
出汁がしっかり染み込んだ、熱々のおでん。具材は大根、こんにゃく、卵、厚揚げ、白滝、牛すじ。どこにでもあるようでいて、「お花」の出汁は絶品で、ほっとする味だ。
この出汁で作るカレーうどんも、知る人ぞ知る名物である。
二人が食べ終えた頃、扉が開き、一人のサラリーマンがふらりと入ってきた。スーツ姿に目の下のクマ。まさに疲労困憊といった様子で、入口近くの席に腰を下ろす。
彼は、ブラック企業勤めだと噂されている。
以前、雨宿りをしていた彼に「温かいうどんでもいかがですか?」と声をかけて以来、時間ができた時にふらりと現れるようになった。
「サトウさん、いらっしゃい」
「来たよ。ビールと白滝、厚揚げ、大根、卵。カラシ多めで」
「はい、すぐにお出ししますね」
温かいおしぼりを渡すと、彼は手を拭き、ふうっとため息をついた。
ビールとともに、おでんの皿が置かれる。彼は目を細め、手を合わせる。
「今日も美味しそう。いただきます」
熱々の厚揚げにカラシをたっぷりつけて、ハフハフと口に運び、冷えたビールで流し込む。すると、疲れた顔に、ぽっと花が咲いたような笑顔が浮かぶ。
「はぁ~、美味い! 山のような書類を片付けたかいがあった……これを待ってたんだよ」
おでんをぱくつくサトウさんを見て、ミカサさんと羅生さんは思わず顔を見合わせ、おでん鍋をのぞき込む。
「美味しそう。私、卵と白滝ください」
「僕は牛すじと厚揚げをお願い」
「はい」
「追加で卵と厚揚げと……カレーうどん!」
金曜の夜、たった二時間だけ開く、裏路地の小さなご飯屋。
湯気と一緒に立ちのぼる、優しい香りの料理たち。
ここには、疲れた人々をそっと癒す魔法があります。
「ごちそうさま、また来ます」
「美味かった。また来るよ」
「ありがとうございました。時間ができたら、また」
帰る客の顔には、ふっと和らいだ笑み。
時刻は十時、閉店の時刻を迎えたその店で、不思議なことがひとつある。
――店を出た人は、誰ひとりとして、店主の顔を思い出せない。
なぜならこの店は、料理好きな神様が気まぐれで開いた店だから。
閉店後、ぽつりと現れる二匹の小さな狐。提灯をぶらさげて、店主を迎えに来る。
「お疲れさまです。お迎えにあがりました」
「キュウ様、おつかれ。今日も笑顔が見られて、よかったね」
「ありがとう、スズ、ラン。……うん、今日も楽しかった」
神様は小さな狐たちの頭を撫で、夜の闇の向こう、社へと戻っていく。
――また来週の金曜日が、待ち遠しいと思いながら。