2話:くさくはないがうまくもない
十分前、その男は下界の野次馬たちを腐った目でにらみつけながら、電子タバコの煙をふかしていた。
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯まずい」
“ニューゲートタワーホテル”とは鏡合わせの形で建つ別館の、ガラス張りの最上階からだ。
「ポップコーンじゃねえか」
その男は、千里眼をもつとまでいわれるスペシャリストだ。
もちろん表社会ではその名はおろか、役職さえおおやけに明かされてはないが、人の口にフタはできないのが世の常というもの。
このホテルが世界一安全といわれるのはひとえに彼がいるため、それはこの町に住む人間なら誰だって知っている。
「紙タバコ吸いてえ」
もっとも彼がセキュリティとして動くのは特別な来客があった“特別な一日”に限られるが、そのウワサの存在自体が強力な抑止力になっているのはれっきとした事実だ。
そして“歌姫”が道向こうの本館の最上階にいる情報がもれた今日が、これまでにないほどに“特別な一日”なのもまたまぎれもない事実だった。
「飲むか⋯⋯、プロテイン」
⋯⋯⋯で、タバコと自己研鑽が趣味なそんな彼が待ち構えていることなどつゆ知らず、別館の非常階段をてくてくとのぼるオマヌケさんが、このときのぼく。
無謀に思えるかもしれないけど、最上階まではすんなりとこれたんだこれが。
ただ、さすがに60階近くはキツい。足がプルプルだ。
中学生のときは吹奏楽部の半幽霊部員だったし、高校にはいってからは堕落の一途をたどるまっさいちゅうだ。
体質的に太らないし、運動に意味が見出せないのだからしかたがない。うん、しかたがない。
おしっこを我慢するような内股で、生まれたての子鹿のようにふるえる足で最上階のドアをぬけると、そこはこれまでの人生では目にいれたことのない輝きに満ちた別世界だった。
「⋯⋯やっぱりあるのかシャンデリア」
ぼくと同じ、人間が、ここを利用してるのかほんとうに。
「ソファー、だめこれひとをダメにするやつだ。 こんなツクエじゃジュースも置けないよ。 ああ、やっぱりあるのか虎の置物。 冷蔵庫あけてもいいかな?⋯⋯違う、これはタンパク質の軟禁部屋だ」
フロアまるまるがひとつの部屋になってる感じか、壁は全部黒ぬりだ。ところどころにトイレマークがある。広い。広すぎて、視界がボヤけてきた。黒にまみれたせいで遠近感がおかしくなってるんだろう。
外を見て、ピントを調整しよう。外からだと壁に見えたけど、こっち側からは夜になりゆく町の風景が一望できる。マジックミラー、みたいなやつかな。庶民のぼくにはまったく落ちつかない。
まばたきをくりかえしながら外を見たとき、ぼんやりとした視界の上部にひとりの女性がうつった。
ん?
あれ。
あれは。
あれ?
対面の本館の最上階にあるバルコニー、てすりにむすっとした顔をのせて空をぼんやりと見上げるその女性の白銀色の髪の毛が、うすい月明かりに照らされて光る新雪のように見えるとほぼ同時。
ぼくは、(――これは、やばいッ!)全身に悪寒を感じて床を蹴りあげ、それと同時、ぼくがいたその場所で、青い稲光がバチチとはしる。
スタンガンだ。
(なんだ、誰だこのひと、どこにいたんだ⋯⋯逃げるのが先か)
不法侵入でこれ以上おまわりさんの仕事は増やせないし、なにより警察沙汰はかーさんがこわい!
黒髪のおにいさんが、黒い瞳を血走るようにひらいたとき、ぼくはドアをあけて外に飛び出すと、非常階段を全力でかけおりた。