6.
会社に戻ると渡瀬さんが、入り口に立っていた。
「大西さん。良かった、こっち来て!」
声をひそめて言われると、腕を取られてぐい、と引っ張られる。人目につかない建物の蔭に連れて行かれた。
「わたせさん……?」
「すごい声ね」
「あ、はい」
泣いた後だから、喉はがらがら。鼻声で何だか発音も不明瞭だった。顔はなんとか化粧で誤魔化しているけど。
「今、中に入ったら駄目よ。あなた、噂の的になってて」
うわさ?
「相楽さんが。『パルミラ』にいたのよ。あなたが彼氏に振られて、泣きわめいてたって。あちこちで言いふらしているわ」
真奈美が?
頭を殴られたような気分だった。いたんだ、真奈美。あの店に。
「そうですか」
「本当なの?」
「はい。二股かけられてて。振られました」
渡瀬さんは一瞬、眉をしかめた。でも息をつくと、がしっとあたしの肩をつかんだ。
「見る目のない馬鹿ね」
「あたしもそう思います」
「捨ててやりなさい、そんな最低男」
「大丈夫です。親友のフリしてた最低女に、のし付けてくれてやりましたから」
そう言うと、渡瀬さんはにやりとした。
「わかったわ。じゃ、今日はもう帰りなさい」
「え? 仕事は?」
「良いから。帰りなさい。あなたはインフルエンザにかかったのよ。課長にはそう言っておく。ほんと、最低の男ね。平日の、しかもランチの時間に、働いている女を振るなんて。考えなしも良い所」
あたしと同じ事言ってる。
「インフルエンザなら、文句は言われないわ。顔が赤くなってたって、当たり前。医者に行ってきた事にしなさい。噂好きの性悪女は、あたしが押さえといてあげる。その代わり、月曜日には元気な顔、見せるのよ」
何だか、また泣きたくなった。
「はい」
「荷物はそれだけ? 取ってきてあげようか?」
「デスクに少し……自分で取りに行きます」
「大丈夫?」
「インフルエンザですから」
そう言うと、渡瀬さんは小さく笑った。
渡瀬さんと一緒に会社の中に入ると、みんなが珍しいものを見るような、可哀相な人を見るような目であたしを見た。真奈美はにやにやしながらこっちを見ていた。
あたし、本当に人を見る目がない。こんな人間を、友だちだと思ってたなんて。
「珠子さん!」
浅江さんが、慌てた顔をして駆け寄ってきた。
「珠子さん、あの、大丈夫……」
「大丈夫じゃないわ。熱が三十九度もあるのよ」
さえぎって、渡瀬さんが言った。大きな声で。浅江さんが、えっ、という顔をした。
「今、病院で診てもらったんですって。インフルエンザよ」
ええっ、という声が上がった。真奈美が血相を変えた。
「嘘よ! この人、男に振られて」
思わずという感じに叫ぶのを、渡瀬さんは冷たい目で見た。
「なに馬鹿な事を言い触らしているの。いくら喧嘩をしたからって、人の評判を悪くしようなんて、性格が悪過ぎるわよ、相楽さん。大西さんはちゃんと、インフルエンザの診断受けてきたんだから。それとも、あたしが嘘をついているって言うの?」
「嘘に決まってるわ! だってあたし、見たんだもの!」
「まだ言ってる。本当に性格が悪い人ね」
別の女性社員が、いきなり言った。
「本当。相楽さんって、虚言癖があるんじゃない? いつもしゃべっている事って、嘘ばっかりだもの。噂が好きって言ったって、限度があるわよねえ?」
また別の女の人。
「虚言癖は困るわよねえ。仕事もできないのにそれじゃ」
また別の人。全員女性だ。
真奈美。本当に同性から嫌われていたんだ。
「あたしっ、嘘なんかっ」
「はいはい。大西さん、早く荷物まとめて。他の人にうつさないよう家に帰って、ゆっくり休んでね」
「そうですね、インフルエンザは怖いですから」
渡瀬さんが手を振って真奈美を黙らせると、様子を見ていた浅江さんがそう言った。その場にいた他の社員たちも何となく、あれ、インフルエンザなんだ、そりゃあ大変だという雰囲気になっていた。
「だからっ! その子は男に振られて泣いてただけなのよ。それで仕事サボろうなんて、考え甘過ぎるんじゃないっ!?」
真奈美はまだ、がんばってる。
「合コンに行くからって仕事サボる人が、何言ってるの。大西さんはいつも、真面目に仕事してるのよ。誰だってそれは知ってるでしょ? 嘘をついてまでサボるような人じゃないわ」
きっぱりと言う渡瀬さん。良かった。今まで真面目に仕事していて。
真奈美は顔を真っ赤にして何か言おうとしたけれど、自分が不利だと気づいたらしい。あたしたちを睨み付けて、さっとその場を立ち去った。
あたしは荷物をまとめて家に帰った。インフルエンザの届けは、渡瀬さんがしてくれた。
いきなり帰って来たあたしに、家族はびっくりした。それはそうだ。
何があったんだと美也子は知りたがったが、母はあたしの様子から、尋ねない方が良いと判断したらしい。お風呂に入って暖かくして寝ろ、と言われた。父も、何も尋ねなかった。こういう時、父は母の判断を尊重する。
ネギと生姜、鶏肉で、あつあつのスープを母は作った。ビタミンサラダも。
その夜は気が抜けて、眠ってしまった。昼間泣いたので、疲れていたのもあるだろう。眠りながらも泣いていたようだった。起きたら目ヤニで、目が張り付いたようになっていた。
土曜日は、ぼんやりして過ごした。ぼんやりして、たまに泣いた。家族は誰も、何も尋ねてこなかった。
夜。加奈に電話した。
「別れたよ」
『そう』
「春菜にくれてやった。あんな男」
『それが良いわ。あんな馬鹿に、珠子は上等すぎて勿体ない』
ちょっと笑った。それからまた、泣いた。
日曜日。あたしは家族に、大地と別れた、とそれだけ報告した。
誰も何も言わなかった。父は少し、うろうろしていたけれど。
その夜。夕食はやたら豪華で、あたしの好物ばかりだった。母は本当に、人に物を食べさせるのが好きだ。
その夜も泣いた。美也子がワインを差し入れしてくれたので、飲みながら泣いた。加奈の事を思い出した。大学時代を思い出した。
キラキラしていた。あの時代。
ワインを一本空けてから、泣くのはもう、これで終わりだと思った。
月曜日になって、あたしは会社に行った。あたしはすっかり、インフルエンザにかかった事になっていた。治って良かったね、と言われた。
忙しくしている内に、日々は過ぎてゆく。
十二月。クリスマスが近づいて来ると、イルミネーションの準備が始まった。それを見ながら、少し胸が痛いと思った。
「今年は、ケーキのやけ食いでもするかなあ」
つぶやいていると、声をかけられた。振り向くと、どこかで会ったような男の人がいた。
「あの……ぼくの事、覚えています? 『パルミラ』の」
「あ、……ああ、田宮さん!」
「はい」
地味な顔立ちだけど、優しい笑顔のその人は、『パルミラ』のウェイターさんだった。
「あれから、店に来ないので……どうされているかと気になって」
「あ、あ、ご、ごめんなさい、あの時はほんと、みっともない所見せて」
「いいえ」
真面目な顔になると、田宮さんは言った。
「こう言っては何ですが、あの男性。最低でした」
「は」
「付き合っていた女性に対して、謝りもしないで。罵るだけ罵って出て行った。礼儀を知らないにもほどがある。同じ男として、恥ずかしかったですよ、ぼくは」
「あ、の」
うわー。
あたしは赤くなった。
「また来てもらえませんか。妹の新作のケーキがあるんです」
「えと、でも。行けないです。恥ずかしくて」
あの場にいた人は、あたしが泣いているのを見ていたはずだ。
「大丈夫ですよ? あの後残っていたお客さん、みんなあなたに同情的でした。逆に、泣いてばかりだった女の子と、彼氏の方が評判悪かったな」
「そうなんですか?」
みんな、春菜みたいなタイプを庇いたいんだって思ってた。
「何でしたら、目立たない席に案内しますよ。ぼくが入っているの、水曜日から土曜日なんですけど」
「そう、なんですか」
「どうしても気になるのなら、裏口からスタッフ扱いで」
あたしは目を丸くした。
「あの、でもなんで」
「あの女の子も、彼氏の方も。何度も来ていますが、ウェイターの名前を呼んで、お礼を言ってくれた事はありません」
田宮さんはそう言った。
「でもあなたは、初めて店に来た時。ぼくの名前を呼んで、案内のお礼を言ってくれました。あの」
真面目な顔をしてから、なぜか顔を赤くして。田宮さんは言った。
「お名前を……うかがっても?」
「え。あ。大西、珠子、です……」
何だか良くわからない内に、また『パルミラ』に行く事になった。電話で加奈に報告したら、がんばれ、と言われた。何を?
その年のクリスマス。イルミネーションは見に行かなかったけれど。あたしは美味しいケーキと紅茶を、暖かいお店でいただいた。
大地のことも、春菜のことも知らない。二人で勝手によろしくやっていれば良い。
年が明けて、新年。あたしは『パルミラ』にいて、田宮さんと暖かいミルクティーを飲んでいた。なんだか和む。
田宮さんの下の名前は護と言った。妹の花梨さんは、お店のパティシエ。試作品だからねー、と言って、美味しいケーキをたくさん食べさせてくれた。うう、体重計が怖い。でも幸せ!
「そっかー。珠子さん、あの会社に勤めてるんだ」
「うん。美味しいねー、花梨さんのケーキ」
「このお店、家族経営してるみたいなものだからねっ。オーナーはうちの父。お兄ちゃんがウェイター。お姉ちゃんは別の仕事してるけど……」
他に、美鈴さんというお姉さんがいるらしい。田宮さんは真ん中で、女二人に囲まれて育ったのだそうだ。雰囲気がやわらかいのは、それでかな。
「色々あったけど。田宮さんたちと知り合えたのが、去年で一番の出来事だったな」
心からそう思って、あたしは二人に笑いかけた。
田宮さんは顔を赤くして、挙動不審になった。どうしたんだろう?
びっくりする事もあった。
加奈が結婚する事になったのだ。
相手は田口教授だった。いつの間にそんな事になったの!?
結婚式には絶対出るからね! そう言った。電話から聞こえる加奈の声は、うれしそうだった。
『それとね。あたし、今はダージリンのセカンドフラッシュは、飲んでないの』
「そうなの?」
『突っ張る為のアイテムみたいなものだったの。あたしには』
「じゃあ、今は何を飲んでるの?」
そう言ったあたしに加奈は、『玄米茶』と答えた。田口教授と一緒に飲んでるらしい。おいおい。
でもま、良いか。幸せなら。
「あたしにも、幸せが来ないかなあ」
『あんたって……鈍過ぎる。気の毒に、田宮さん』
加奈はなぜか、あきれたようなため息をついた。わけがわからなくて、あたしは首をかしげた。
『ま、珠子だしね』
「なにそれ」
『田宮さんによろしく』
早く、春が来ないかな。
がんばりました。普段書かないジャンル。
男性と女性では、視覚も聴覚も違ってくるんですね。脳の動き方違うから。男性の視覚は自分を中心として、前方にまっすぐ伸びている。女性の視覚は自分を中心として、180度に展開される。聴覚も、男性は通常、一つの音を集中して聞くので、電話をしながらテレビを見るなんて真似はできない。でも女性はフライパンで料理しながら電話して、同時進行でテレビドラマを見てたりする。
見ているところや気がつくところがお互いに、かなり違ってきます。食い違いも、色々出てくる。
その辺り、考えながら書いてました。とにかく普通の日常。魔法なし。宇宙船なし。普通の女性! という事で、ゆずはらとしても画期的な作品です。
ちょっと遅れましたが、メリー・クリスマス。
読んでくれたあなたへの、ギフトです。