5.
あたしが二人を目撃してから、半月ほどが過ぎた。
あたしは春菜に電話した。大地の事で話がある、と言うと、春菜は黙ってから、良いよ、と言った。場所は『パルミラ』。お互いの仕事の折り合いをつけなきゃならなかったので、金曜日の昼休みに会おうと言う事になった。
大急ぎで仕事を片づけて、「お昼行って来ます」と言い置いて会社を出る。出しなに身なりとメイクを鏡で確認した。大丈夫。
きちんとした大人の女性。鏡の中のあたしは、そんな姿をしている。
店に入ると、春菜は先に来ていて、テーブルについていた。ふわふわの髪にフリルの多い服の彼女は、可愛らしかった。世の中に何も悪いものはないと信じている、子どもみたいにも見えた。あたしと同い年のはずなのに。
春菜の前には、ロイヤルミルクティーのカップがあって、ふんわりと良い香りを放っている。ああ、春菜。こんな時にもあんたって、ロイヤルミルクティーなんだ。
「ダージリン。セカンドフラッシュ、ありますか」
「ございます」
「それをお願いします」
注文を取りに来たウェイターさんに、そう注文する。
あの夜。突然電話してきたあたしに加奈は、何も言わずに付き合ってくれた。支離滅裂な事を言いながら泣きだしたあたしの話を、辛抱強く聞いてくれた。
そうして最後に、言った。
『あんたはどうしたいの、珠子?』
あたしは。
あたしは、どうしたいんだろう。
『悔しいよ』
裏切られた。信じていた二人に。それが悔しい。
『悲しいよ』
大地の事が好きだった。それなのに大地はもう、あたしが好きじゃなくなってた。春菜への笑顔。あれを見たらわかる。
あたしにあんな笑顔、最近、見せてくれた事なんてない。
『怒りたいよ』
あたしを裏切った、最低の二人に。怒りをぶつけて怒鳴りつけたい。
『でも何より。何より。嫌なのは』
全然気がつかなかった、自分の馬鹿さ加減。
『あんたは泣いて良いし、怒っても良い』
あたしの言葉に、加奈は言った。
『春菜はあれで、ちゃっかりしてるから。欲しいものは迷わず手に入れようとする所があったし。長谷川は、あいつはガキすぎて、目の前にあるものもしっかり見えてない。影に何があるのか考えた事もないんだろうし、自分の知っている世界でしか判断できない。それが全てだと思ってる。
二股かけてたんならあの男、殴っても罵ってもそれはあんたの権利だよ。別にあんたが自分を嫌だと思う事はない。あんたの反応は正常だ』
殴る。そんな覚悟はまだついていない。
『言っとくけど。あんたは悪くない。それだけはしっかり頭に入れておくんだよ』
あたしが? だって、
あたしも、悪かったんじゃない? 大地を放っておいた。春菜のしている事に気がつかなかった。
あたしがもっと、大地に気を使っていたら。春菜にだって。
『馬っ鹿。何言ってるの。良い? 浮気したのは長谷川で、親友の彼氏を盗んだのは春菜! しかも隠し方が悪くてあんたにバレた。悪いのはあいつら。あんたが悪く思ったり、謝る必要なんてどこにもないの!』
だって。
『良いから、言ってごらん! 悪いのは、浮気した長谷川大地! 親友の彼氏を盗んだ春菜! あんたには、怒る権利があるって!』
あたしはくりかえした。悪いのは、大地。彼氏を盗んだ、春菜。あたしには、怒る権利がある。
『もう一回』
『悪いのは、大地……、大地を盗った、春菜。あたしには……あたしには、怒る、権利が、ぐすっ、うっ、うえええっ』
言っている内に、泣けてきた。携帯にすがるようにして、わーわー泣いた。大声上げて。あんなに泣いたのは、子どもの時以来だ。
どれだけ泣いたんだろう。
『そっちに行こうか? 直接会って話そうか』
少し落ち着いてきたら、加奈がそう言った。あたしはぐすぐすしながら、大丈夫、と言った。加奈の家からここまで、どう考えても二時間以上かかる。
その代わり、教えてもらった。
加奈がいつも飲んでいた紅茶の名前。ダージリンのセカンドフラッシュ。
『単にダージリンって、それだけのお店も多いわよ』
春摘みの一番茶。夏摘みの二番茶。そして秋摘み茶。ダージリンには旬が三回来る。その中で一番香りが強く、強烈な味わいなのが、夏摘みのセカンドフラッシュ。
季節は関係なく混ぜてしまって、ダージリンとして売る店が多いから、メニューになかったら諦めた方が良い、とも言われた。
『でも、どうするの、そんな事尋ねて』
うん。あのね。
まだ少し混乱してる。でも、勇気が欲しいから。
『春菜と話する』
あたしは言った。加奈は、そう、と言った。
『大地とも。だから』
『やっぱり、そっちに行こうか?』
『大丈夫、だと思う。結果は、電話するから』
『無理するんじゃないわよ』
『しない。きっちり話つける』
『パルミラ』には、ダージリンのセカンドフラッシュが置いてあった。運ばれてきた紅茶は、普段飲んでいるものとは随分違っていた。あたしが好きなリンゴの甘い香りとはまるで違う、軽やかな香り。一口飲むと、渋くて、舌に刺激が残る。
(加奈っぽい)
あたしの覚えている、かっこ良い加奈のイメージ。
目を閉じる。あたし、大丈夫?
背筋、伸びてる? 落ち着いているように見える?
力を貸して、加奈。
「ダージリンなんだ。趣味、変わった? 珠子ちゃん」
春菜がつぶやいた。あたしは目を上げて彼女を見た。
「春菜は今も、ロイヤルミルクティー」
「甘いのが好きなの」
「あたしも嫌いなわけじゃない。甘い味も、香りも好き。でも今日は、昔通りに楽しいおしゃべりってわけじゃないから」
そう言うと、春菜はどこか、傷ついたような顔をした。なんでそんな顔するの。傷つけられたのは、あたし。裏切られたのも、あたしじゃない。
「いつから?」
「何が」
「いつからあたしをだましてたの。あんたたち二人」
「だましてなんて……ひどい、珠子ちゃん」
「ひどいのはどっち? 友だちの振りをして、人の彼氏を盗った。それともあんた、大地とは何にもないって言うの? ここで会う事もなかったって」
春菜はうつむいて、首を振った。小さく、ひどい、とくりかえす。
「春菜」
「ひどい。そんな事言うなんて」
「何がひどいの。あんた、あたしが気がつかなかったら、このままずっと隠れて付き合い続けるつもりだったの?」
「隠れてなんか。大地とは、あたし、ずっと付き合ってる!」
顔を上げて春菜は言った。
「大地、ちゃんと別れるって言ったもの! 珠子ちゃんとはもう付き合わないって。あたしの方が本物の彼女だもの!」
そんな事言ったんだ、大地。
加奈の不倫相手を思い出す。離婚するからって言って加奈と付き合いを続けた。
男って、言い訳がいつも同じなの?
「四回生の時から付き合ってたんでしょ。イルミネーション、一緒に見に行ったって」
春菜は、びくりと肩を震わせた。
「そのころあたし、まだ完全に大地の彼女だったはずだけど?」
「それは……悪いとは思ったけど。でも大地を一人にしておいた、珠子ちゃんが悪いのよ!」
「はあ?」
いつ、あたしが大地を一人にしたの。大体、就活で大変だから、一緒に行けないって断ってきたのは大地の方。
「だって、大地、一人にされて寂しいって。珠子ちゃんは加奈ちゃんとばかり遊んで、自分は放っておかれたって……」
なんだそれ。
思わずそう言いたくなった。そんな事を大地が?
「珠子ちゃんは、自分の言う事全然聞いてくれないって! 春菜の方が素直で良いって、いつも」
ふと、嫌な笑い方をしていた男を思い出した。大地の知り合い。
加奈の不倫騒ぎの時の。
「自分の言う事を聞かないで、加奈とばかり一緒にいるって? それが気に入らないって? 困っている友だちを見捨てろなんて言われて、その通り、なんて言えるわけないでしょう。大地が言う事を聞かないって言ったのがそれなんだったら、あたし、何度でも同じ事をするわよ」
「珠子ちゃんがそんなんだから、大地は傷ついたんじゃない!」
「だからあんたは、親友の彼氏を盗んでも悪くない、自分は正しいって言いたいの?」
春菜はひくっと喉を引きつらせると、目にいっぱい涙を浮かべた。
「ひどい……ひどい、珠子ちゃん……」
「何がひどいの。言っておくけど、人の彼氏盗んだ、あんたの方がよっぽどひどいわ」
「そんな言い方……っ」
ついに春菜は泣き出した。逆にあたしは、頭の中がひどく醒めた感じだった。ああ、嫌だ。これじゃ、あたしが悪役みたいじゃない。
「あんたが言う機会は、いくらでもあったはずよ」
泣いている春菜にかまわず、あたしは言った。
「四回生の時にも。今までの三年間でも。あたし、あんたに電話して、大地の事を相談した事だってあったわよね。イルミネーション見に行く事だって」
遅れてきた大地。一昨年は一時間。去年は二時間。
ふと、思った。まさか。
「日にちも、待ち合わせの時刻もあんたに教えてた。あんた、大地に同じ時刻に待ち合わせしようって、言った?」
そこまで悪辣じゃないと思いたい。この子がそこまで、ひどい事をしたなんて思いたくない。でも。
「だって、大地はあたしを選んでくれたもの!」
春菜は、あたしの思いをあっさりと踏みにじった。
「あたしの方が大事なら、あたしの方に来てくれるって……大地は来てくれたわ。本物の彼女は、あたしの方よ!」
去年、あたしは寒い中、二時間待たされて風邪を引いた。あの時、あんたはお見舞いのメールをくれた。
全部知った上での事だったの?
「腐ってるわね、あんた」
「ちょっと試しただけじゃない! 大地がどっちの事思ってるのか。なにが悪いのよ!」
わからないんだ、この子には。
お嬢さまだった。そう思った。誰かを待つにしても、快適な部屋の中で、暖かく過ごしながら待つような経験しかないんだろう。冷たい風が吹きつける中、立ちっぱなしで二時間、誰かを待つ経験なんて、した事がないに違いない。
「本当、腐ってる」
「ひどいわ。珠子ちゃん、あたしばっかり責めて! こんな人だなんて、思わなかったっ!」
春菜は涙をぼろぼろこぼしていた。ああ。
きっと今、春菜の中ではあたしは、魔女みたいな女なのだろう。可哀相なお姫さまを苦しめる魔女。そうして周囲に訴える。私はこんなに可哀相です。この人はこんなにひどい人なんですって。
泣いて、叫んで主張する。私はこんなにいじめられている、可哀相な女の子なんですって。
なんて馬鹿な子なんだ。
泣いても叫んでも、自分のやった事が消えるわけじゃない。この子は友だちを裏切った。
裏切ってその彼氏を盗んだ。
その結果がどうなるのか、この子にはわからないのか。
あたしも、加奈も。春菜とは友だちだった。
だからもし春菜に何かあれば。きっと、何があっても駆けつけたし、力にもなった。
でも。
春菜はあたしたちを、いらないと言ったんだ。この行為で。あんたたちなんて、いらないって。
春菜。
友だちだと思ってた。高校の頃からずっと、引っ込み思案なあんたをあたしは、守ってるつもりだった。
なのにこれ。その結末がこれ。
あんたにとっての友だちは、裏切っても平気なもの。取り替えのきく、安い品物に過ぎなかった。
あたしは、あんたが大切だったのに……。
その時、誰かが駆け寄ってくる気配がした。
「なにしてるんだよ……、珠子! おまえ、なに春菜を泣かせてるんだ!」
大地。
あたしの彼氏だったはずの男が、そこにいた。険しい顔で、あたしを睨み付けて。
どうして。なんで大地がここにいるの?
「ごめんな、春菜。遅れて。おまえだけで珠子に会わせちまって」
何ですって?
「あんた……大地に言ったの。今日、あたしと会うって?」
視線を春菜に戻して言うと、春菜は大げさなほど体を震わせ、新しい涙をこぼした。
「だって……、た、珠子ちゃん、怒ると思って……」
「自分の味方をさせる為に? あんた、どこまで腐ってんの!」
思わず声を荒らげた。春菜は青ざめた。
「春菜に怒鳴るな! 可哀相に、おまえがこいつを泣かせたのか!?」
なに言ってるのよ、大地。
「腐っているのを腐っているって言ったまでよ。あんたも、あたしに何か言う事があるんじゃないの」
頭に来た。腸が煮えくり返った。
当然みたいな顔で、春菜をなぐさめる大地。当然みたいな顔で、大地にすがりつく春菜。
二人を見て。かーっとなった。体中の血が、ざーっと流れる音が聞こえた。でも。
頭の芯は、冷たくなってる。妙に冷静に、そう思った。
耳の奥がじーん、としてる。目の前に、ダージリンの紅茶。ああ、と思った。背筋を伸ばすのよ、珠子。うつむいちゃ駄目。
まっすぐ。前を向いて。
「何かってなんだよ」
「春菜が今、認めたのよ。あんた、四回生の時からあたしに黙ってこの子と付き合ってたんだって?」
そう言うと、大地はむっとした顔で唇を噛んだ。
「それからもずっと、あたしとこの子で二股かけてたんだってね。この子には、あたしと別れるからって言って。あたしはあんたから、別れるなんて話、聞いた事なかったけど」
「んだよ。可愛くないんだよ、おまえのそういうとこっ!」
大地は怒鳴った。
「不倫なんかした女と友だち付き合いしやがって、俺がなに言っても聞きやしない! 俺が有本に、どれだけ馬鹿にされたと思うんだ、あの時! 自分の女の躾けもできないのかって、さんざんコケにされたんだぞ! くだんねえ意地ばっかり張りやがって、男の言う事聞かない女と、真面目に付き合えるはずがないだろうっ!」
「だから浮気したの」
「浮気なんかじゃねえっ! 俺はっ!」
ぎゅっ、と大地の服の裾をつかんだ春菜に、大地は声を和らげた。
「ちょっと待ってろ。今、話つけてやるから」
「でも、大地」
「おまえをいじめたこんな女に、なに遠慮する事があるんだ」
何、それ。
あたしは目の前の男を見つめた。正義感が強くて、素直で、まっすぐな所が可愛い、そんな男だと思っていた。
でも違う。
違うと思った。
「人の言う事は聞かない、泣きもしない。弱いやついじめて喜んでるおまえみたいな冷たい女、なんで付き合おうなんて思ったのか、我ながらあきれるよ」
あたしがまっすぐ二人を見ていると、大地は口元を歪めて言った。
「冷たい?」
あたしは大地を見つめた。初めてこの人を、まともに見た気がした。
「友だちが苦しんでる時に、見捨てるのが、心の優しい人のする事?」
「時と場合によるだろ! あいつはあれだけ評判悪いやつだったんだから! 大体、俺の言葉をどうしてまともに聞かないんだ、彼女だったら素直に聞くもんだろう!」
「時も場合も関係ないわよ。男に言われて友だち見捨てて自分の良心捨てるより、あたしは困っている友だちを助けに行く。男を選んで良心捨てて、腐った人間になるよりはずっとマシ」
ちら、と春菜を見ると、春菜はびくついて大地の影に隠れた。
「春菜をいじめるなってば!」
「あたしと話をしているのはあんたでしょ。それでどういじめるの」
「春菜はおまえとは違うんだ……すぐ傷つく」
馬鹿じゃないの。
その弱くてすぐに傷つく子は、人の彼氏を盗むのに、なんの躊躇もなかったのよ?
「ああ、春菜。心配するな。……泣くなよ」
涙をこぼしている春菜に気づいて、なだめるように大地が言う。あたしは醒めた目で二人を見た。
ああそう。そうなんだ。春菜だけじゃなくてあんたにも、春菜は可愛そうなお姫さまで、あたしは意地悪な魔女に見えてるんだ。それで自分は、お姫さまを守る騎士なわけ?
正義の味方が大好きだったもんね、あんた。
「だから嫌なんだ、おまえは。男を馬鹿にして。春菜は素直で、優しくて可愛い。おまえとは大違いだ」
そうしたら、あたしの視線に馬鹿にされたと思ったのか、大地が言った。
「おまえ、俺を好きだった事なんてないだろう」
「どういう事?」
「おまえと付き合ってる間、おまえ、俺の為に料理した事あったか。最初は弁当作ってくれた。でもおまえの家に行ったらいつも、出されるのは残りものばかりだ。俺のためにおまえが、何か料理した事あったかよ?」
あたしは眉をあげた。
「春菜は違う。春菜は俺の前で、俺の為に料理してくれた。おまえは何も作ってくれなかったけど、こいつは俺の為にずっと、心を砕いてくれたんだ!」
あたしは春菜を見た。
知っていたはずだ。春菜は。
あたしがどうして、『残り物』を大地に出していたのか。
知っていたのに。それなのに。
「言わなかったのね」
「何をだよ!」
大地がわめく。春菜は青ざめて、さらに大地の影にかくれた。
「何も言わないわけ。春菜」
「言う事なんか、何もないだろう!」
「あんたに聞いてないわ。あたしは春菜に聞いてるの」
「おまえなんかに、何か言う事があるわけないだろう!」
春菜は何も言わない。青ざめているだけ。
「本気で腐ってるわね、あんた……」
「春菜を侮辱するな!」
大地が怒鳴りつけた。店中に響きわたるような声だった。
「やめて……大地」
震えながら、小さく春菜が言った。
「ああ。ごめん。怖がらせたか。本当に優しいな、春菜は」
「あたし……あた、し、」
口ごもるようにしてから春菜は、何も言わずにあたしから顔を背けた。
ああ。
そうなの。
「そうやって、被害者は自分だって顔をするのね」
「珠子!」
「付き合いきれないわ。腐ってるその子の根性もそうだけど。二股かけてた彼女にバレたからって、怒鳴りつけて自分は正しいってわめいてる、あんたもね。お似合いよ。腐った二人」
自分の口から、ここまで攻撃的な言葉が出るなんて思わなかった。
「あたしはっ!」
たまりかねたのか、春菜が顔を上げた。でもあたしの顔は見れなかったらしい。うつむいて言った。
「何が悪いの。い、言わなかっただけじゃない……あたしは、悪くない。悪くないわ。大地が寂しそうで、可哀相だった。だから、あたしが側にいてあげたのよ。それの、何が悪いの!?」
こんな子と今まで親友のつもりだったの、あたし?
「春菜は悪くない」
大地が言った。この馬鹿。何も見えてない。
「春菜はいつだって、俺の為に何かしてくれた。そういうわけだ。珠子。おまえとは別れる。もううんざりだ」
「そう」
あんた、何見てたんだ。あたしの何を見てた。春菜のずるさ、まるっきり見えないんだ。
それであたしを、悪者だって言う。
「俺たちにはもう、近づくな。春菜にもだ」
言い切った大地はどこか誇らしげで、お姫さまを守る騎士のつもりなのは見え見えだった。こいつは今、正義の味方として、悪い魔女と対決しているつもりなんだろう。
馬鹿野郎。何も見えてない、あほんだら。
「ありがたいわね。あんたたちみたいな腐ったのと付き合うのなんて、こっちから願い下げよ」
言う機会なら、何度だってあったはずなのに。ずるずると三年も二股かけたのはどうして?
「大地は、腐ってなんかない!」
「三年も二股かけてた時点で、腐りきってるわよ」
顔を上げて叫んだ春菜に、あたしは言った。大地を見やると、顔をしかめていた。
「言えなかったのよ! 大地、優しいから……珠子ちゃんが可哀相でっ!」
「何が可哀相よ。厄介ごとを先送りにしてただけじゃない。本当に優しいなら、あんたと付き合い出した時点で、あたしに別れるって言ってるわ」
「だからっ……大地は」
「ただの卑怯者って言うのよ、そういうのは」
そう。この男に勇気なんてない。臆病で、周りの目を気にして。自分が悪く思われるのが嫌で、いつもその場を取り繕うのに必死。
今ならわかる。こいつはずっと、あたしにも春菜にも、その場限りの言い逃れをして、自分が責められないように立ちまわっていたんだ。
「大地は、卑怯者なんかじゃないっ!」
春菜が叫んだ。お似合いだわ、本当に。お互いの事をかばいあって。
「春菜。もう良い。こいつには、何言ってもわからない」
苦々しげに大地が言った。あんたもね、とあたしは思った。あたしが何を言ってもわからないでしょ。
「行こう」
そう言うと、大地は春菜の肩を抱いた。春菜はすがるようにして立ち上がった。大地がテーブルの上の伝票を手に取る。
「支払は俺がしとくよ」
「ありがと」
「泣きもしない。本当に、嫌な女になったな、珠子」
そう言うと、あたしに背を向ける。バッグとコートを手にした春菜は、うつむいていた。
「珠子ちゃん……ごめん。ごめん、ね?」
小さく詫びる。あたしは笑いだしたくなった。何を今さら?
「ばいばい。二度と、あたしの前に顔を見せないで」
あたしは微笑んでみせた。春菜はびくっとしてから大地の側に走り寄った。
そうして二人は、店から出て行った。
店の中は静まり返っていた。
あたしは一人、座っていた。何だか体中から力が抜けた感じだった。
冷めてしまった紅茶。ダージリン。
カップを持ち上げて、一口すする。
冷たい。冷たくて、苦い。
涙が滲んだ。
「馬鹿野郎」
ずっと泣いていた春菜。なんで泣くの。泣きたいのは、あたしの方よ。あんたは好きな男を手に入れた。泣く必要なんてないでしょ。ごめんねって、何それ。謝れば良いって思ってるの?
大地は大地で、あたしが悪者だと思ってるし。冷たい女だって。嫌な女だって。ねえ。あたしが傷つかないとでも思った? 二股かけられて、付き合ってた男にそんな事言われて。傷つかないとでも思ってたの、あんた。
手が震えた。カップを皿に戻すと、かちかち音がした。
加奈。加奈。あたし、やれた?
堂々と、していられた?
ねえ。意地を張るのって、つらいね。
それでもあたしには必要だった。最後の最後に必要だった。
あの二人の前でみじめな姿を見せるのは、嫌だった。それだけは、絶対に嫌だった。
ダージリン。ダージリンのセカンドフラッシュ。
軽い香りと苦い味。
二人はいない。あたしは一人。
ねえ、加奈。あたしもう、泣いても良いかな?
「……っく」
ぽろっと、涙がこぼれた。一度こぼれるともう、止まらなかった。
ぼろぼろ、ぼろぼろ、あたしは泣いた。声を殺して、泣き続けた。
馬鹿野郎。
大馬鹿野郎
馬鹿。馬鹿大地。あたしはあんたが好きだった。
ずっと、ずっと好きだった。
イルミネーション。あんたには、ただのイベントだったんだろう。でもあたしには。
あんたとの、大切な約束だったんだ。
二人とも、どこへだって行けば良い。ああ、そうね。どこへだって行ってちょうだい。どこか、あたしの目に入らない所へ。
ランチの時間。じきに終わるわね。馬鹿野郎。あたし、どうしたら良いのよ。涙が止まらないじゃない。
あんたは良いわよ、馬鹿大地。春菜と一緒にどこへでも行けば。
でもあたしは。今、ランチの時間なのよ。仕事あるのよ、この後。あんたに振られたあたしは、この後五時まで、事務所で座ってなきゃならないのよ。
振るんなら振るで、TPOぐらい考えやがれ、クソッタレの最低野郎!
あたしはそのまま、泣き続けた。声を立てずに、ずっと。
気がつくと、店には人がいなくなっていて。誰かが側に立って、暖かいお茶を差し出してくれていた。
「たのんで、ないわよ」
「サービスです、あの。ミルクティー。飲んでください」
知っている声だった。田宮さん。
一口飲んだら、甘くて暖かかった。
「ごめ、なさ……おみせの、営業、じゃま、しちゃっ」
「大丈夫です。ランチの時間は終わりかけていたし。洗面所に行かれますか」
うなずいて、立ち上がった。今は誰でも良いから、優しくしてほしい気分だった。
洗面所の鏡で見た自分の顔は、化粧が剥げて目も鼻も真っ赤で、すごい事になっていた。
おしぼりを借りて、冷たい水で顔を冷やす。腫れが少し引いたので、情けない顔に、持っていた化粧品を塗りたくる。
どうにか見られる顔になってから田宮さんに頭を下げて、あたしは会社に戻った。昼休みは、とうの昔に終わっていた。