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5.

 あたしが二人を目撃してから、半月ほどが過ぎた。

 あたしは春菜に電話した。大地の事で話がある、と言うと、春菜は黙ってから、良いよ、と言った。場所は『パルミラ』。お互いの仕事の折り合いをつけなきゃならなかったので、金曜日の昼休みに会おうと言う事になった。

 大急ぎで仕事を片づけて、「お昼行って来ます」と言い置いて会社を出る。出しなに身なりとメイクを鏡で確認した。大丈夫。

 きちんとした大人の女性。鏡の中のあたしは、そんな姿をしている。

 店に入ると、春菜は先に来ていて、テーブルについていた。ふわふわの髪にフリルの多い服の彼女は、可愛らしかった。世の中に何も悪いものはないと信じている、子どもみたいにも見えた。あたしと同い年のはずなのに。

 春菜の前には、ロイヤルミルクティーのカップがあって、ふんわりと良い香りを放っている。ああ、春菜。こんな時にもあんたって、ロイヤルミルクティーなんだ。


「ダージリン。セカンドフラッシュ、ありますか」

「ございます」

「それをお願いします」


 注文を取りに来たウェイターさんに、そう注文する。

 あの夜。突然電話してきたあたしに加奈は、何も言わずに付き合ってくれた。支離滅裂しりめつれつな事を言いながら泣きだしたあたしの話を、辛抱強しんぼうづよく聞いてくれた。

 そうして最後に、言った。


『あんたはどうしたいの、珠子?』


 あたしは。

 あたしは、どうしたいんだろう。


『悔しいよ』


 裏切られた。信じていた二人に。それが悔しい。


『悲しいよ』


 大地の事が好きだった。それなのに大地はもう、あたしが好きじゃなくなってた。春菜への笑顔。あれを見たらわかる。

 あたしにあんな笑顔、最近、見せてくれた事なんてない。


『怒りたいよ』


 あたしを裏切った、最低の二人に。怒りをぶつけて怒鳴りつけたい。


『でも何より。何より。嫌なのは』


 全然気がつかなかった、自分の馬鹿さ加減。


『あんたは泣いて良いし、怒っても良い』


 あたしの言葉に、加奈は言った。


『春菜はあれで、ちゃっかりしてるから。欲しいものは迷わず手に入れようとする所があったし。長谷川は、あいつはガキすぎて、目の前にあるものもしっかり見えてない。影に何があるのか考えた事もないんだろうし、自分の知っている世界でしか判断できない。それが全てだと思ってる。

 二股かけてたんならあの男、殴っても罵ってもそれはあんたの権利だよ。別にあんたが自分を嫌だと思う事はない。あんたの反応は正常だ』


 殴る。そんな覚悟はまだついていない。


『言っとくけど。あんたは悪くない。それだけはしっかり頭に入れておくんだよ』


 あたしが? だって、

 あたしも、悪かったんじゃない? 大地を放っておいた。春菜のしている事に気がつかなかった。

 あたしがもっと、大地に気を使っていたら。春菜にだって。


『馬っ鹿。何言ってるの。良い? 浮気したのは長谷川で、親友の彼氏を盗んだのは春菜! しかも隠し方が悪くてあんたにバレた。悪いのはあいつら。あんたが悪く思ったり、謝る必要なんてどこにもないの!』


 だって。


『良いから、言ってごらん! 悪いのは、浮気した長谷川大地! 親友の彼氏を盗んだ春菜! あんたには、怒る権利があるって!』


 あたしはくりかえした。悪いのは、大地。彼氏を盗んだ、春菜。あたしには、怒る権利がある。


『もう一回』

『悪いのは、大地……、大地を盗った、春菜。あたしには……あたしには、怒る、権利が、ぐすっ、うっ、うえええっ』


 言っている内に、泣けてきた。携帯にすがるようにして、わーわー泣いた。大声上げて。あんなに泣いたのは、子どもの時以来だ。

 どれだけ泣いたんだろう。


『そっちに行こうか? 直接会って話そうか』


 少し落ち着いてきたら、加奈がそう言った。あたしはぐすぐすしながら、大丈夫、と言った。加奈の家からここまで、どう考えても二時間以上かかる。

 その代わり、教えてもらった。

 加奈がいつも飲んでいた紅茶の名前。ダージリンのセカンドフラッシュ。


『単にダージリンって、それだけのお店も多いわよ』


 春摘みの一番茶ファーストフラッシュ。夏摘みの二番茶セカンドフラッシュ。そして秋摘み茶オータムナル。ダージリンには旬が三回来る。その中で一番香りが強く、強烈な味わいなのが、夏摘みのセカンドフラッシュ。

 季節は関係なく混ぜてしまって、ダージリンとして売る店が多いから、メニューになかったら諦めた方が良い、とも言われた。


『でも、どうするの、そんな事尋ねて』


 うん。あのね。

 まだ少し混乱してる。でも、勇気が欲しいから。


『春菜と話する』


 あたしは言った。加奈は、そう、と言った。


『大地とも。だから』

『やっぱり、そっちに行こうか?』

『大丈夫、だと思う。結果は、電話するから』

『無理するんじゃないわよ』

『しない。きっちり話つける』


 『パルミラ』には、ダージリンのセカンドフラッシュが置いてあった。運ばれてきた紅茶は、普段飲んでいるものとは随分違っていた。あたしが好きなリンゴの甘い香りとはまるで違う、軽やかな香り。一口飲むと、渋くて、舌に刺激が残る。


(加奈っぽい)


 あたしの覚えている、かっこ良い加奈のイメージ。

 目を閉じる。あたし、大丈夫?

 背筋、伸びてる? 落ち着いているように見える?

 力を貸して、加奈。


「ダージリンなんだ。趣味、変わった? 珠子ちゃん」


 春菜がつぶやいた。あたしは目を上げて彼女を見た。


「春菜は今も、ロイヤルミルクティー」

「甘いのが好きなの」

「あたしも嫌いなわけじゃない。甘い味も、香りも好き。でも今日は、昔通りに楽しいおしゃべりってわけじゃないから」


 そう言うと、春菜はどこか、傷ついたような顔をした。なんでそんな顔するの。傷つけられたのは、あたし。裏切られたのも、あたしじゃない。


「いつから?」

「何が」

「いつからあたしをだましてたの。あんたたち二人」

「だましてなんて……ひどい、珠子ちゃん」

「ひどいのはどっち? 友だちの振りをして、人の彼氏を盗った。それともあんた、大地とは何にもないって言うの? ここで会う事もなかったって」


 春菜はうつむいて、首を振った。小さく、ひどい、とくりかえす。


「春菜」

「ひどい。そんな事言うなんて」

「何がひどいの。あんた、あたしが気がつかなかったら、このままずっと隠れて付き合い続けるつもりだったの?」

「隠れてなんか。大地とは、あたし、ずっと付き合ってる!」


 顔を上げて春菜は言った。


「大地、ちゃんと別れるって言ったもの! 珠子ちゃんとはもう付き合わないって。あたしの方が本物の彼女だもの!」


 そんな事言ったんだ、大地。

 加奈の不倫相手を思い出す。離婚するからって言って加奈と付き合いを続けた。

 男って、言い訳がいつも同じなの?


「四回生の時から付き合ってたんでしょ。イルミネーション、一緒に見に行ったって」


 春菜は、びくりと肩を震わせた。


「そのころあたし、まだ完全に大地の彼女だったはずだけど?」

「それは……悪いとは思ったけど。でも大地を一人にしておいた、珠子ちゃんが悪いのよ!」

「はあ?」


 いつ、あたしが大地を一人にしたの。大体、就活で大変だから、一緒に行けないって断ってきたのは大地の方。


「だって、大地、一人にされて寂しいって。珠子ちゃんは加奈ちゃんとばかり遊んで、自分は放っておかれたって……」


 なんだそれ。

 思わずそう言いたくなった。そんな事を大地が?


「珠子ちゃんは、自分の言う事全然聞いてくれないって! 春菜の方が素直で良いって、いつも」


 ふと、嫌な笑い方をしていた男を思い出した。大地の知り合い。

 加奈の不倫騒ぎの時の。


「自分の言う事を聞かないで、加奈とばかり一緒にいるって? それが気に入らないって? 困っている友だちを見捨てろなんて言われて、その通り、なんて言えるわけないでしょう。大地が言う事を聞かないって言ったのがそれなんだったら、あたし、何度でも同じ事をするわよ」

「珠子ちゃんがそんなんだから、大地は傷ついたんじゃない!」

「だからあんたは、親友の彼氏を盗んでも悪くない、自分は正しいって言いたいの?」


 春菜はひくっと喉を引きつらせると、目にいっぱい涙を浮かべた。


「ひどい……ひどい、珠子ちゃん……」

「何がひどいの。言っておくけど、人の彼氏盗んだ、あんたの方がよっぽどひどいわ」

「そんな言い方……っ」


 ついに春菜は泣き出した。逆にあたしは、頭の中がひどく醒めた感じだった。ああ、嫌だ。これじゃ、あたしが悪役みたいじゃない。


「あんたが言う機会は、いくらでもあったはずよ」


 泣いている春菜にかまわず、あたしは言った。


「四回生の時にも。今までの三年間でも。あたし、あんたに電話して、大地の事を相談した事だってあったわよね。イルミネーション見に行く事だって」


 遅れてきた大地。一昨年は一時間。去年は二時間。

 ふと、思った。まさか。


「日にちも、待ち合わせの時刻もあんたに教えてた。あんた、大地に同じ時刻に待ち合わせしようって、言った?」


 そこまで悪辣あくらつじゃないと思いたい。この子がそこまで、ひどい事をしたなんて思いたくない。でも。


「だって、大地はあたしを選んでくれたもの!」


 春菜は、あたしの思いをあっさりと踏みにじった。


「あたしの方が大事なら、あたしの方に来てくれるって……大地は来てくれたわ。本物の彼女は、あたしの方よ!」


 去年、あたしは寒い中、二時間待たされて風邪を引いた。あの時、あんたはお見舞いのメールをくれた。

 全部知った上での事だったの?


「腐ってるわね、あんた」

「ちょっと試しただけじゃない! 大地がどっちの事思ってるのか。なにが悪いのよ!」


 わからないんだ、この子には。

 お嬢さまだった。そう思った。誰かを待つにしても、快適な部屋の中で、暖かく過ごしながら待つような経験しかないんだろう。冷たい風が吹きつける中、立ちっぱなしで二時間、誰かを待つ経験なんて、した事がないに違いない。


「本当、腐ってる」

「ひどいわ。珠子ちゃん、あたしばっかり責めて! こんな人だなんて、思わなかったっ!」


 春菜は涙をぼろぼろこぼしていた。ああ。

 きっと今、春菜の中ではあたしは、魔女みたいな女なのだろう。可哀相なお姫さまを苦しめる魔女。そうして周囲に訴える。私はこんなに可哀相です。この人はこんなにひどい人なんですって。

 泣いて、叫んで主張する。私はこんなにいじめられている、可哀相な女の子なんですって。

 なんて馬鹿な子なんだ。

 泣いても叫んでも、自分のやった事が消えるわけじゃない。この子は友だちを裏切った。

 裏切ってその彼氏を盗んだ。

 その結果がどうなるのか、この子にはわからないのか。

 あたしも、加奈も。春菜とは友だちだった。

 だからもし春菜に何かあれば。きっと、何があっても駆けつけたし、力にもなった。

 でも。

 春菜はあたしたちを、いらないと言ったんだ。この行為で。あんたたちなんて、いらないって。

 春菜。

 友だちだと思ってた。高校の頃からずっと、引っ込み思案なあんたをあたしは、守ってるつもりだった。

 なのにこれ。その結末がこれ。

 あんたにとっての友だちは、裏切っても平気なもの。取り替えのきく、安い品物に過ぎなかった。

 あたしは、あんたが大切だったのに……。

 その時、誰かが駆け寄ってくる気配がした。


「なにしてるんだよ……、珠子! おまえ、なに春菜を泣かせてるんだ!」


 大地。

 あたしの彼氏だったはずの男が、そこにいた。険しい顔で、あたしを睨み付けて。

 どうして。なんで大地がここにいるの?


「ごめんな、春菜。遅れて。おまえだけで珠子に会わせちまって」


 何ですって?


「あんた……大地に言ったの。今日、あたしと会うって?」


 視線を春菜に戻して言うと、春菜は大げさなほど体を震わせ、新しい涙をこぼした。


「だって……、た、珠子ちゃん、怒ると思って……」

「自分の味方をさせる為に? あんた、どこまで腐ってんの!」


 思わず声を荒らげた。春菜は青ざめた。


「春菜に怒鳴るな! 可哀相に、おまえがこいつを泣かせたのか!?」


 なに言ってるのよ、大地。


「腐っているのを腐っているって言ったまでよ。あんたも、あたしに何か言う事があるんじゃないの」


 頭に来た。腸が煮えくり返った。

 当然みたいな顔で、春菜をなぐさめる大地。当然みたいな顔で、大地にすがりつく春菜。

 二人を見て。かーっとなった。体中の血が、ざーっと流れる音が聞こえた。でも。

 頭の芯は、冷たくなってる。妙に冷静に、そう思った。

 耳の奥がじーん、としてる。目の前に、ダージリンの紅茶。ああ、と思った。背筋を伸ばすのよ、珠子。うつむいちゃ駄目。

 まっすぐ。前を向いて。


「何かってなんだよ」

「春菜が今、認めたのよ。あんた、四回生の時からあたしに黙ってこの子と付き合ってたんだって?」


 そう言うと、大地はむっとした顔で唇を噛んだ。


「それからもずっと、あたしとこの子で二股かけてたんだってね。この子には、あたしと別れるからって言って。あたしはあんたから、別れるなんて話、聞いた事なかったけど」

「んだよ。可愛くないんだよ、おまえのそういうとこっ!」


 大地は怒鳴った。


「不倫なんかした女と友だち付き合いしやがって、俺がなに言っても聞きやしない! 俺が有本に、どれだけ馬鹿にされたと思うんだ、あの時! 自分の女の躾けもできないのかって、さんざんコケにされたんだぞ! くだんねえ意地ばっかり張りやがって、男の言う事聞かない女と、真面目に付き合えるはずがないだろうっ!」

「だから浮気したの」

「浮気なんかじゃねえっ! 俺はっ!」


 ぎゅっ、と大地の服の裾をつかんだ春菜に、大地は声を和らげた。


「ちょっと待ってろ。今、話つけてやるから」

「でも、大地」

「おまえをいじめたこんな女に、なに遠慮する事があるんだ」


 何、それ。

 あたしは目の前の男を見つめた。正義感が強くて、素直で、まっすぐな所が可愛い、そんな男だと思っていた。

 でも違う。

 違うと思った。


「人の言う事は聞かない、泣きもしない。弱いやついじめて喜んでるおまえみたいな冷たい女、なんで付き合おうなんて思ったのか、我ながらあきれるよ」


 あたしがまっすぐ二人を見ていると、大地は口元を歪めて言った。


「冷たい?」


 あたしは大地を見つめた。初めてこの人を、まともに見た気がした。


「友だちが苦しんでる時に、見捨てるのが、心の優しい人のする事?」

「時と場合によるだろ! あいつはあれだけ評判悪いやつだったんだから! 大体、俺の言葉をどうしてまともに聞かないんだ、彼女だったら素直に聞くもんだろう!」

「時も場合も関係ないわよ。男に言われて友だち見捨てて自分の良心捨てるより、あたしは困っている友だちを助けに行く。男を選んで良心捨てて、腐った人間になるよりはずっとマシ」


 ちら、と春菜を見ると、春菜はびくついて大地の影に隠れた。


「春菜をいじめるなってば!」

「あたしと話をしているのはあんたでしょ。それでどういじめるの」

「春菜はおまえとは違うんだ……すぐ傷つく」


 馬鹿じゃないの。

 その弱くてすぐに傷つく子は、人の彼氏を盗むのに、なんの躊躇ちゅうちょもなかったのよ?


「ああ、春菜。心配するな。……泣くなよ」


 涙をこぼしている春菜に気づいて、なだめるように大地が言う。あたしは醒めた目で二人を見た。

 ああそう。そうなんだ。春菜だけじゃなくてあんたにも、春菜は可愛そうなお姫さまで、あたしは意地悪な魔女に見えてるんだ。それで自分は、お姫さまを守る騎士なわけ?

 正義の味方が大好きだったもんね、あんた。


「だから嫌なんだ、おまえは。男を馬鹿にして。春菜は素直で、優しくて可愛い。おまえとは大違いだ」


 そうしたら、あたしの視線に馬鹿にされたと思ったのか、大地が言った。


「おまえ、俺を好きだった事なんてないだろう」

「どういう事?」

「おまえと付き合ってる間、おまえ、俺の為に料理した事あったか。最初は弁当作ってくれた。でもおまえの家に行ったらいつも、出されるのは残りものばかりだ。俺のためにおまえが、何か料理した事あったかよ?」


 あたしは眉をあげた。


「春菜は違う。春菜は俺の前で、俺の為に料理してくれた。おまえは何も作ってくれなかったけど、こいつは俺の為にずっと、心を砕いてくれたんだ!」


 あたしは春菜を見た。

 知っていたはずだ。春菜は。

 あたしがどうして、『残り物』を大地に出していたのか。

 知っていたのに。それなのに。


「言わなかったのね」

「何をだよ!」


 大地がわめく。春菜は青ざめて、さらに大地の影にかくれた。


「何も言わないわけ。春菜」

「言う事なんか、何もないだろう!」

「あんたに聞いてないわ。あたしは春菜に聞いてるの」

「おまえなんかに、何か言う事があるわけないだろう!」


 春菜は何も言わない。青ざめているだけ。


「本気で腐ってるわね、あんた……」

「春菜を侮辱するな!」


 大地が怒鳴りつけた。店中に響きわたるような声だった。


「やめて……大地」


 震えながら、小さく春菜が言った。


「ああ。ごめん。怖がらせたか。本当に優しいな、春菜は」

「あたし……あた、し、」


 口ごもるようにしてから春菜は、何も言わずにあたしから顔を背けた。

 ああ。

 そうなの。


「そうやって、被害者は自分だって顔をするのね」

「珠子!」

「付き合いきれないわ。腐ってるその子の根性もそうだけど。二股かけてた彼女にバレたからって、怒鳴りつけて自分は正しいってわめいてる、あんたもね。お似合いよ。腐った二人」


 自分の口から、ここまで攻撃的な言葉が出るなんて思わなかった。


「あたしはっ!」


 たまりかねたのか、春菜が顔を上げた。でもあたしの顔は見れなかったらしい。うつむいて言った。


「何が悪いの。い、言わなかっただけじゃない……あたしは、悪くない。悪くないわ。大地が寂しそうで、可哀相だった。だから、あたしが側にいてあげたのよ。それの、何が悪いの!?」


 こんな子と今まで親友のつもりだったの、あたし?


「春菜は悪くない」


 大地が言った。この馬鹿。何も見えてない。


「春菜はいつだって、俺の為に何かしてくれた。そういうわけだ。珠子。おまえとは別れる。もううんざりだ」

「そう」


 あんた、何見てたんだ。あたしの何を見てた。春菜のずるさ、まるっきり見えないんだ。

 それであたしを、悪者だって言う。


「俺たちにはもう、近づくな。春菜にもだ」


 言い切った大地はどこか誇らしげで、お姫さまを守る騎士のつもりなのは見え見えだった。こいつは今、正義の味方として、悪い魔女と対決しているつもりなんだろう。

 馬鹿野郎。何も見えてない、あほんだら。


「ありがたいわね。あんたたちみたいな腐ったのと付き合うのなんて、こっちから願い下げよ」


 言う機会なら、何度だってあったはずなのに。ずるずると三年も二股かけたのはどうして?


「大地は、腐ってなんかない!」

「三年も二股かけてた時点で、腐りきってるわよ」


 顔を上げて叫んだ春菜に、あたしは言った。大地を見やると、顔をしかめていた。


「言えなかったのよ! 大地、優しいから……珠子ちゃんが可哀相でっ!」

「何が可哀相よ。厄介ごとを先送りにしてただけじゃない。本当に優しいなら、あんたと付き合い出した時点で、あたしに別れるって言ってるわ」

「だからっ……大地は」

「ただの卑怯者って言うのよ、そういうのは」


 そう。この男に勇気なんてない。臆病で、周りの目を気にして。自分が悪く思われるのが嫌で、いつもその場を取り繕うのに必死。

 今ならわかる。こいつはずっと、あたしにも春菜にも、その場限りの言い逃れをして、自分が責められないように立ちまわっていたんだ。


「大地は、卑怯者なんかじゃないっ!」


 春菜が叫んだ。お似合いだわ、本当に。お互いの事をかばいあって。


「春菜。もう良い。こいつには、何言ってもわからない」


 苦々しげに大地が言った。あんたもね、とあたしは思った。あたしが何を言ってもわからないでしょ。


「行こう」


 そう言うと、大地は春菜の肩を抱いた。春菜はすがるようにして立ち上がった。大地がテーブルの上の伝票を手に取る。


「支払は俺がしとくよ」

「ありがと」

「泣きもしない。本当に、嫌な女になったな、珠子」


 そう言うと、あたしに背を向ける。バッグとコートを手にした春菜は、うつむいていた。


「珠子ちゃん……ごめん。ごめん、ね?」


 小さく詫びる。あたしは笑いだしたくなった。何を今さら?


「ばいばい。二度と、あたしの前に顔を見せないで」


 あたしは微笑んでみせた。春菜はびくっとしてから大地の側に走り寄った。

 そうして二人は、店から出て行った。



 店の中は静まり返っていた。

 あたしは一人、座っていた。何だか体中から力が抜けた感じだった。

 冷めてしまった紅茶。ダージリン。

 カップを持ち上げて、一口すする。

 冷たい。冷たくて、苦い。

 涙が滲んだ。


「馬鹿野郎」


 ずっと泣いていた春菜。なんで泣くの。泣きたいのは、あたしの方よ。あんたは好きな男を手に入れた。泣く必要なんてないでしょ。ごめんねって、何それ。謝れば良いって思ってるの? 

 大地は大地で、あたしが悪者だと思ってるし。冷たい女だって。嫌な女だって。ねえ。あたしが傷つかないとでも思った? 二股かけられて、付き合ってた男にそんな事言われて。傷つかないとでも思ってたの、あんた。

 手が震えた。カップを皿に戻すと、かちかち音がした。

 加奈。加奈。あたし、やれた?

 堂々と、していられた?

 ねえ。意地を張るのって、つらいね。

 それでもあたしには必要だった。最後の最後に必要だった。

 あの二人の前でみじめな姿を見せるのは、嫌だった。それだけは、絶対に嫌だった。

 ダージリン。ダージリンのセカンドフラッシュ。

 軽い香りと苦い味。

 二人はいない。あたしは一人。

 ねえ、加奈。あたしもう、泣いても良いかな?


「……っく」


 ぽろっと、涙がこぼれた。一度こぼれるともう、止まらなかった。

 ぼろぼろ、ぼろぼろ、あたしは泣いた。声を殺して、泣き続けた。

 馬鹿野郎。

 大馬鹿野郎

 馬鹿。馬鹿大地。あたしはあんたが好きだった。

 ずっと、ずっと好きだった。

 イルミネーション。あんたには、ただのイベントだったんだろう。でもあたしには。

 あんたとの、大切な約束だったんだ。

 二人とも、どこへだって行けば良い。ああ、そうね。どこへだって行ってちょうだい。どこか、あたしの目に入らない所へ。

 ランチの時間。じきに終わるわね。馬鹿野郎。あたし、どうしたら良いのよ。涙が止まらないじゃない。

 あんたは良いわよ、馬鹿大地。春菜と一緒にどこへでも行けば。

 でもあたしは。今、ランチの時間なのよ。仕事あるのよ、この後。あんたに振られたあたしは、この後五時まで、事務所で座ってなきゃならないのよ。

 振るんなら振るで、TPOぐらい考えやがれ、クソッタレの最低野郎!

 あたしはそのまま、泣き続けた。声を立てずに、ずっと。

 気がつくと、店には人がいなくなっていて。誰かが側に立って、暖かいお茶を差し出してくれていた。


「たのんで、ないわよ」

「サービスです、あの。ミルクティー。飲んでください」


 知っている声だった。田宮さん。

 一口飲んだら、甘くて暖かかった。


「ごめ、なさ……おみせの、営業、じゃま、しちゃっ」

「大丈夫です。ランチの時間は終わりかけていたし。洗面所に行かれますか」


 うなずいて、立ち上がった。今は誰でも良いから、優しくしてほしい気分だった。

 洗面所の鏡で見た自分の顔は、化粧が剥げて目も鼻も真っ赤で、すごい事になっていた。

 おしぼりを借りて、冷たい水で顔を冷やす。腫れが少し引いたので、情けない顔に、持っていた化粧品を塗りたくる。

 どうにか見られる顔になってから田宮さんに頭を下げて、あたしは会社に戻った。昼休みは、とうの昔に終わっていた。

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