1.
大地と知り合ったのは、十八歳。大学に入ってしばらくしてからだった。同じ講義を取っていて、たまたま隣に座った。
「えーと……、ごめん、この教授のノート、取ってる? おれ、先週休んじゃって」
声をかけてきたのは、向こうからだった。
「取ってるよ。コピーする?」
女の子の友だちに言うのと同じノリでそう言うと、人懐こい表情で、にかっと笑った。
「助かる! 女の子のノートだったら、綺麗だよな。ツレだと字が汚くて、読めないんだよ。あ、おれ、長谷川。長谷川大地」
「大西よ。大西珠子」
これがきっかけで、あたしたちは良く話をするようになった。大地は親しみやすい性格で、友だちも多く、話していて楽しかった。取っている講義がほぼ同じだったので、良く顔を合わせる。そのうち同じサークルにも入った。ノートの貸し借りや、先輩たちの話や、講義の内容についての雑談や。そんなこんなが積み重なって、良く一緒にいるようになった。
春が過ぎ、夏が過ぎた。秋になるころ、大地から付き合わないかと言われたので、OKした。
友人の高木加奈に報告すると、やっと? と言われた。いつ付き合い出すのだろうと、焦れていたらしい。同じく友人の城山春菜はふんわり笑って、良かったねと言ってくれた。照れくさかった。
恋人同士になってしまうと、今までとは逆に、どこか不安なような、ふわふわしているような気分になった。今までは気軽におしゃべりができていたのが、恥ずかしいような、照れくさいような気がして、うまくできなくなった。そのたびに、加奈や春菜に相談した。二人は笑ったり、呆れたりしながら、話を聞いてくれた。
「楽しいのも最初だけよ。男はすぐ厚かましくなるんだから」
肩をすくめて加奈は言った。大学に入ってからできた友人で、さっぱり、きっぱりした性格で付き合いやすかった。選択した講義の教室がわからず、うろうろしていたら声をかけてきて、場所を教えてくれた。化粧をばっちりしていて落ち着いた雰囲気だったので、てっきり先輩だと思っていたら自分と同じ一回生だったので、びっくりした。
「大体、長谷川くんって、特撮ヒーローとか大好きなんでしょ。子どもっぽすぎるわ」
「純粋なのよ」
春菜が言った。同じ高校からの知り合いで、よく一緒にアイスの食べ歩きをした。ふんわりした雰囲気の女の子で少し引っ込み思案な所があり、すぐ人の後ろに隠れてしまうので、一緒にいると何となく、保護者のような気分になった。
「正義感が強くて、頼りになる感じ。珠子ちゃん、ごはんとか作ってあげたらどうかなあ? お弁当。喜ぶんじゃない?」
春菜のアドバイスを受けて、あたしは料理をした。それまで母親に任せっきりだったのが、急に料理をし出したのだ。台所は悲惨な事になった。
二時間かけて、やっとできたお弁当。玉子焼きは不格好だし、おひたしはべしょっとしている。どうしようかと思ったが、持って行ってみた。すると、大地は感激してくれた。
「うわあ、嬉しいなあ。おれ、女の子がおれの為に弁当作ってくれるのって、夢だったんだ」
「なに、それ?」
「えー、だってさ。なんか憧れるじゃん。マンガとか小説では良く出てくるしさあ」
それってどんなマンガや小説? と思ったけれど、あんまりうれしそうなので、じゃあまた作ってきてあげるよ、と約束した。
おかげで毎朝、早起きして料理をする羽目になった。
冬になった。恋人同士になって最初の冬だった。
「珠子ちゃん。三番街の方、イルミネーションの通り抜けができるんだって」
ある日、春菜が言った。喫茶店で、三人でしゃべっていた。
あたしの前にはアップルティー。ほんのりとする、リンゴの香りがお気に入り。加奈は、ダージリンのストレート。セカンド何とかって言っていたけれど、良くわからない。春菜は、ロイヤルミルクティー。ふんわりと甘い味が、彼女のお気に入り。
「イルミネーション?」
「ああ、ほら。観光地とかで良くやってるじゃない。光の回廊って言うの? 電飾でぴかぴかさせるの。この辺りでもやるらしいよ」
加奈が言った。春菜ははしゃいだ。
「素敵ね。地上に星の道ができるの」
「春菜、そういうの好きだもんね」
「だって。クリスマスに恋人同士で、星の道を見に行くのって、何だかロマンチック。憧れるじゃない」
うふふ、と笑う春菜に、そうかも、と思った。そこへ加奈が水を差した。
「でも、この辺りの規模だとちゃちいわよ。そんな大きなもんじゃないでしょ」
「良いの。春菜の憧れなんだもの」
ぷんとふくれた春菜が可愛くて、あたしは笑ってなだめた。それから大地を誘ってみようかな、と思った。
クリスマスに恋人同士で、星の道を見る。
何かの約束のようで、確かにロマンチックだ。
十二月に入って、あたしは大地と一緒に、イルミネーションを見に行った。それほど有名ではない、地元のイルミネーション。でも夜になると、結構人が集まってきた。
「女の子って、こういうの好きだなあ」
大地は人ごみの中で、手を差し伸べてくれた。
「つないどこうぜ。珠子が迷子になったら困る」
「ならないわよ! もしなっても、ちゃんと待ち合わせの場所、決めてあるじゃない」
思わずそう言ったが、差し伸べてくれた手がうれしかった。手をつないで、二人で光の道を歩いた。
ふと人込みの中で、見知った顔を見た気がした。
「あれ?」
「どうした?」
立ち止まったあたしに、大地が振り向いた。
「今、加奈がいた気がしたの。でも良くわからない」
人が多くて、通り過ぎてしまうともう、そこに誰かがいてもわからない。
「加奈って、高木? 仲良いよな、おまえら三人。もう一人、ふわふわした子がいただろ」
「春菜?」
「はるなって言うんだ。可愛いよな、あの子。高木はおっかねえ感じで近寄れないけど」
男から見ると、加奈は怖いのか、とあたしは思った。優しい女の子なのにな。
誰かが教室の場所がわからずうろうろしていても、見知らぬ人間だったら。あたしだったら無視をする。関わる気にはなれない。でも加奈は、声をかけてくれた。優しくないとできない。
「加奈はかっこ良いんだよ。それに優しいよ」
「どこが? すんげえキツイじゃん、あいつ。こないだの講義でも、田口教授に意見してたしさあ」
大地の言葉に、あたしは眉をひそめた。あれは、あたしも変だと思った。田口教授、女子はどうせ結婚するんだから、勉強しても意味ないみたいな言い方してた。大学に来ても意味がないって。
教室にいた女の子、みんなむっとしてた。
じゃあ、ここにいるあたしたちは、意味のない存在なの? いちゃいけない存在なの?
今ならそう言えるけど、言われた瞬間は、何を言われているのかわからなかった。馬鹿にされているのはわかったけど。何をどう言えば良いのかもわからなかった。腹が立って頭には来たけど。いきなりの事だったし、相手は先生だし。で、何も言葉が出てこない。だから誰も何も言わなかった。言えなかった。ショックだったのは、男子が当然だって顔してた事。変なにやにや笑いを浮かべてた。
はっきりその意見は変だって言ったのは、加奈だけだった。
「田口教授のは、あれ、変だったよ」
「そうかあ? 普通だろ」
「普通じゃないよ。加奈の方が普通だよ」
「ああ、友だちだもんな、おまえ。でもおれは、ああいうキッツイのは駄目だ。優しい子が良い。珠子みたいな」
「あたし、優しい?」
「弁当作ってくれるじゃん」
それだけ? と思ったが、大地にはそれだけで充分なのかもしれない、とも思った。
「おれには珠子が一番だよ」
そう言われると、何だかどきどきして、ふわふわした気分になった。
つないだ手をぎゅっと握る。
「一緒にここ、歩けてうれしい」
そう言うと、大地は照れて赤くなった。
通り抜けの道をゆっくりと歩く。何気なくもう一度、後ろを振り返った。
加奈がいた。隣には、中年の男性。
(だれ? 加奈のお父さん?)
男性を見上げる加奈の顔はけれど、そういう関係ではなさそうだった。見た事もないぐらい、優しい表情をしていた。
二人はすぐに、人込みにまぎれて見えなくなった。
誰だろうと思ったが、大地が腕を引っ張ったので、そっちに気を取られた。そうしてそれきり、その事は忘れてしまった。
春が来た。あたしたちは二回生になった。
「ガガーン、良いよな!」
大地は最近、特撮ヒーローの『竜騎士ガガーン』にハマっている。子どもっぽいなと思いつつ、正義の味方に憧れる彼の、きらきらした目が好きだなと思った。
「惚れてしまえば、あばたもえくぼね」
加奈はそんなあたしに言った。
「だって、加奈。可愛いじゃない。本当に好きなんだなって」
「あんたの事が?」
「ガガーンよ」
「あたしにしてみたら、十九歳にもなってヒーローごっこだなんて、そっちの方が、ががーん! だわ」
加奈は最近、前にも増して大人っぽくなった。いつもきちんと化粧をして、赤い口紅を塗っている。背筋を伸ばして歩く姿はかっこ良かった。あたしは化粧が下手で、どうにもうまくできない。
「でも長谷川くん、純粋だし。正義のヒーローに憧れてる人って、悪い事はしないわ」
とりなすように春菜が言った。かわいいものが好きで、ピンクハウス系のワンピースをいつも着ている。ふわふわした印象の彼女は、男子から密かに人気だった。
「そうだよねー。こないだも、電車の中でおばあさんに席を譲ってたわ。あたしだったら勇気がなくて、できなかった」
あたしが言うと、春菜はすごいね、と言った。
「小さいころに、マスクレッドに憧れてさ。ほら、いたじゃない。戦隊もののヒーロー。マスクレッドが困っている人に親切にしてたから、自分もそうしようと思ったんだって」
「へー」
「だから、あたしにも優しいよ。その……女の子は、守るものだって。言ってくれてさ」
赤くなってごにょごにょ言うと、加奈は呆れた顔になり、春菜は珠子ちゃん、良いなあ、と言った。
「守るものねえ。あたしだったら、相手の男を守ってやりたいけど?」
肩をすくめて加奈が言った。
「加奈ちゃん、強いー」
「どっちかがどっちかに守られる関係なんて、ごめんだもの。あたしは、好きな相手とはフィフティフィフティでいたいし。相手が何か困ってるんだったら、支えに行く。おんぶに抱っこ状態にはなりたくない」
「あたしは、守って欲しいなあ~」
春菜が言った。
「女の子には憧れだよ。男の子から、守ってやるって言われるの。その時だけでも、お姫さまになれるもの」
「春菜は充分、お姫さまじゃない」
「そんなんじゃない。加奈ちゃんたら」
フリルやリボンが大好きな春菜を加奈がからかうと、春菜はふくれた。
「ねえ、でもあたし、加奈もお姫さまだと思うよ。戦うお姫さま。色っぽくてかっこ良くて、強い優しさがあるの。可愛いお姫さまも、かっこ良いお姫さまも、いたって良いじゃない」
あたしがそう言うと、加奈は笑みを浮かべた。
「じゃあ、あんたはどんなお姫さまなの」
「う、うーん? 何だろ」
自分がどんなお姫さまなのか見当がつかなくて、あたしは首をかしげた。
「ええっと……料理するお姫さま?」
ずっとお弁当を作っている料理の腕は、少しずつだが上がっていた。
「台所の天使?」
「やだ、加奈ちゃん。お料理するなら、白雪姫よ」
加奈と春菜がそう言って笑った。
「あ、そっか。じゃあ、……わらわの事は、スノーホワイトとお呼び」
三人で笑い転げた。
その年の冬も、あたしは大地とイルミネーションを見に行った。
三回生になった。あたしは大地と同じ専攻を選んだ。できるだけ、側にいたかったから。春菜も同じ専攻だったので、レポートは三人で一緒にする事が多くなった。
加奈は別の専攻になったので、あまり顔を合わせなくなった。でもお昼ご飯やお茶は、連絡を取って一緒に取るようにしていた。
「あら、長谷川くん。いらっしゃい」
家から通っていたあたしは、家族に大地を紹介した。大地は緊張気味でかちんこちんになっていた。それでも彼の明るい性格を、家族はみんな気に入ったらしい。豪快な所のある母は、「一緒にごはん食べていきなさい」と、料理をふるまった。
「あんまり食べないのねー」
半分ほど残した食事を見て、帰る時にあたしが言うと、大地は困った顔になった。
「緊張しちゃってさあ。それになんか、悪いし。おれ、家族でもないのに……」
「うちの母、人に何か食べてもらうのが好きなのよ。気にする事ないわよ?」
「いや、でもさあ」
困った顔が可愛いと思った。
大地が帰ったあと、家族から質問攻めにされた。
「まあ、良い感じの男の子よね。お腹すかせてそうでもあるし」
母が言う。妹の美也子は、「緊張しちゃって、カワイイ」と言った。まだ高校生のくせに。
「また連れてくるの?」
「そのつもり」
「ふーん。ま、今度はあんたが料理してもてなしたら?」
母はにやりと笑って言った。うーん、とうなってからあたしもそうするか、と思った。一応、好物は知っているし。
それから何度か、大地は家に来た。気さくな母や妹に、次第に彼も緊張を解いたが、それでもどうしても、食事を食べて行けと言われると、遠慮してしまうようだった。もうちょっと食べても大丈夫なのに、とあたしは思った。
「珠子ちゃん、何してるのー?」
久しぶりに加奈と春菜が家に遊びに来た。三人でおしゃべりをしていたが、ちょっとごめんね、と言って料理を始めたあたしに、二人は目を丸くした。
「うん、明日さあ。大地がうちに来るのよ」
「明日?」
「だから、今から作っておくの」
加奈が眉を上げ、春菜の目がもっと丸くなった。
「どうしてそれで、今から料理?」
「あいつさあ。遠慮しちゃって、食べないのよ。半分ぐらい残しちゃうの。うちでご飯、作って出したら。悪いって思うみたい。でもあれぐらいの男の人って、たくさん食べるじゃない?」
お弁当を渡した時の反応を見て、大地の食べる量が自分たちより相当多い事は知っている。それなのに、家に招いて食事を作ると、遠慮して食べなくなる。
「『これ、残り物だから大丈夫よ。余っても困るから』って言ったら、全部食べてくれるの。やっぱりさ。ちょっとでもたくさん、食べてもらいたいじゃない? だから、今から煮込んでおくの」
煮込み料理系ばかりになってしまうが、それでも大地は喜んで食べてくれた。
「珠子ちゃんってば……けなげ~」
「信じられない」
二人は呆れた顔になった。
「珠子。言っとくけどあの馬鹿男、あんたのそういう努力とか苦労とか、まるっきり見えてないわよ? うまい飯たくさんあるなー、食べて良いんだ、ラッキー、ぐらいしか考えてないんじゃない?」
加奈の言葉に、あたしは笑った。
「良いのよ。あたしがそうしたいんだし。美味しいもの食べて、美味しいって笑ってくれる、その顔が見たくてやってるの。だからこれって、自分の為でもあるのよ」
「珠子ちゃん、女の子……」
「くあー。あの直情馬鹿にはもったいないわ、あんたってば」
春菜が言い、加奈が言った。あたしは、えへへ、と笑った。
こんな風に誰かの為に料理をしたり、色々考えたりする自分は本当に女の子だなあ、と思った。ほんと、けなげ。そう思うと少しくすぐったくて、こんな自分も好きだな、と思った。
その年の冬で、イルミネーションを見に行くのは三回目になった。
「三回目だね」
「そうだな」
人込みの中、大地が手をつないでくれる。それがうれしくて、あたしはぎゅっと手を握った。
「来年も来ようね」
「就活で大変じゃないか? まあ、クリスマスだしなあ」
「来る?」
「ああ、良いよ」
「じゃあ、来年も。その次も」
「その次ぃ?」
「うん。毎年来ようね」
「よっぽどこれ好きなんだな、珠子は」
大地と一緒に来るのが好きなんだよ。そう思ったが、言うと恥ずかしい気がして言えなかった。
「まあ良いか。気が向いたらな」
「気が向いたら?」
「うん、まあ……良いよ。来てやるよ」
「なんか偉そう」
「怒るなよ」
「毎年だよ? 卒業してからも」
「卒業……なあ。それってプロポーズ?」
大地の言葉にあたしは真っ赤になった。大地は笑って、あたしの手を取って指切りしてくれた。
「約束する。毎年、珠子とイルミネーション、見にくる」
「ほんと?」
「ほんと」
「ほんとのほんと?」
「ほんとのほんと。指切りもしたじゃんか……って、なんで泣くの!」
「ちょっと……うれしくて」
本当に、どうしてだろう。涙が出て止まらなかった。
慌てる大地に笑いかけて、地上にできた星の道を見た。青く、白く、輝く星の道は、いつまでも続く約束のようだった。